あらすじ
「日本人」たることを“証明”する戸籍、戸籍をもたない天皇家――。どちらも「血統」、「家」の存続といった原理に支えられてきた。天皇制と戸籍は、いかなる関係にあるのか? その根底には、何があるのか? 古代に始まり、世界に類を見ない日本独自の制度でありながら、正面から問われることのなかった難問に挑んだ、渾身の書!
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Posted by ブクログ
天皇と戸籍
「日本」を映す鏡
著者:遠藤正敬
発行:2019年11月15日
筑摩書房
「天皇に人権はなく、戸籍すらない」という言い方に出会うことがある。この本を読むと、それはむしろ逆だと分かる。天皇は支配者であり、臣民たる国民は支配される人々。すなわち、戸籍は臣民簿であり、支配リストなのである。戸籍なぞないのが"普通”であり、戸籍は支配されていることの証というわけだ。
そもそも戸籍は、国家が徴兵・徴税を確実に行い、定住化を促し、浮浪者を取りしまるという、主に行政・警察的な目的のために個人の身分を記録する制度だった。それが明治国家になって「日本臣民」の統合という精神的な目的が加えられた。
日本と似た戸籍制度が続いた韓国は2008年に廃止。中国と台湾の現制度は居住登録という意味合いが強く、日本の戸籍は世界中でも類いを見ない制度となっている。
今や“日本特有”の制度となった戸籍を切り口にすれば、これまた日本だけにしか存在しない皇室(天皇)制度がいかに維持されてきたか、という点に理解しやすい面が見える。この本では、初代天皇から記録される「皇統譜」(国民の場合は戸籍により江戸時代の終わりごろからたどれる)について、皇籍から臣籍(皇籍以外の身分)に下る、逆に上がるケースについて、天皇家の結婚について、家の規範として天皇家はどうあるべきか、などについて歴史を紐解きながらまとめ、考察している。
ただ、こうした本筋以外にも雑学的な興味が持てる問題も取り上げている。例えば、天皇になぜ苗字がない?天皇家が養子をもらえるのか?皇居に住所はあるのか?そして天皇は日本国民か?など。
最後にとても興味深い記述があった。戸籍を有することは、国民の「権利」であっても「義務」ではない。そのような「義務」は戸籍法で明文化、法務省などの通達や訓令にない。にもかかわらず、戸籍に記載されることが“正しい日本人”のあり方であると理解されてきた。そのことは、天皇という君主との対比において、ひときわ明確なものとなった。
******雑学的興味のメモ*******
氏と姓はどう違う?
どちらも同じ苗字のことだが、意味は違う。姓を「セイ」と読む場合、古代中国家族法においては女系の苗字、氏は男系の苗字。古代日本では、氏は同一家族によって校正される豪族の称号(蘇我、物部など)、姓は「カバネ」と読んで氏に授けられる官位序列の称号だった(臣、連、公など)。
氏姓はここの家名となり私を表すため、「公」を託された天皇が有するのはおかしいので氏姓がない。
天皇がそばめを持てなくなった理由
侍妾を持ったのは明治天皇が最後だが、廃止になった理由は意外(単純)で、喫緊の課題だった西洋列強との不平等条約解消のため、西洋人の倫理観に沿うよう(未開国だと思われないよう)に一夫多妻制をやめた(妾を禁止した)。
皇居に住所はあるか?
実はずっとなかった。そして、思わぬ事情から状況が変わっていった。皇居自体に住所は不要だったが、皇居内官舎に住む宮内庁職員などが住民登録をする場合に町名が必要だったため、いつしか便宜的に「東京都千代田区千代田一番」と呼ばれるようになった。そして、1967年からそれが皇居の住所として表示されるようになった。
初代天皇は明治5年に文部省が決めた
小学校教則本の一つ「皇国史略」を編集する際、初代天皇を誰にするかが議論され、最初は瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)にする方針だったが、最初の三代は神様にしておいて、神武を初代にしようということになった。つまり文部省が決めた。
天皇にマイナンバーはあるか?
マイナンバーは国籍を問わず住民票コードを変換してつけられる番号であるため、住民基本台帳に記載あれていない天皇家にマイナンバーはない。外国人に保証されている権利さえも否定されていることになるが、例えば健康保険はなくても医療費は国費から出るため制約以上に保障が完備されている。
大正天皇は侍妾の子だった
明治天皇は皇后との間に子ができず、侍妾の柳原愛子(なるこ)が産んだ子が8歳のときに皇后一条美子(はるこ)の養子にした上で立体子の儀を踏んで皇太子になった。
(雑学興味メモの続き)
皇女和宮は降嫁ではない
家茂に嫁するため江戸へ下向する前、彼女は内親王の宣下を受けたことで家茂の妻になっても「徳川姓」ではなく「和宮」の宮号を称して皇族であり続けたため、「和宮降嫁」ではなく「和宮婚嫁」というのが正確なところ。
いったん臣籍降下した元皇族が皇籍復帰後になった例
宇多天皇(59代)とその子である醍醐天皇。
明治時代には女系天皇が実現しそうだった
1884(明治16)年、宮内庁内に制度取調局が設置され「皇室規制」が起草された。それは、女帝のみならず女系の皇位継承をも認めるという画期的な草案だった。ただし、皇統に近い元皇族を女帝の夫にすることが条件。
父母不明の棄児が日本で発見されたら。発見者または申告を受けた警察官は24時間以内に市区町村長に報告し、それを受けた市区村長は棄児に氏名を与え、戸籍を編製すると定められている。例え金髪、青い眼の子でも日本国籍となる。
「源氏」と「平氏」
その発端は、嵯峨天皇(第52代)の時代にある。嵯峨天皇は多産で48人の皇子女があったが、弘仁5(814)年にその中の32人に「源朝臣」の姓を授けて臣籍降下させた。これが「源氏」の起源であり、皇族から賜姓により臣籍降下した源氏は「賜姓源氏」と呼ばれた。
その後、嵯峨源氏、清和源氏のほか、仁明(にんみょう)源氏、宇多源氏、醍醐源氏、村上源氏、陽成(ようぜい)源氏など、各天皇の皇親から降下した「賜姓源氏」が断続的に生まれた。徳川時代の正親町(おおぎまち)天皇(第106代)の皇曾孫である王子・忠幸に賜姓がなされて生まれた正親町源氏まで、計17流が誕生している。なかでも、清和天皇(第56代)の子孫が「源朝臣」の姓を与えられて降下した「清和源氏」はもっとも栄え、武家の時代になってからも長年にわたって権力を持ち続けた。
源氏といえば、これに対抗するのが平氏であるが、平氏も皇族の賜姓によって生まれた氏族である寛平元(889)年、桓武天皇(第50代)の子孫である高望王が「平朝臣」の姓を授かって臣籍降下し、その子孫が「桓武平氏」となった。「平」は平安京を訓読みにした「たいらのみやこ」に由来するものとみられる。桓武以降、仁明(第54代)、文徳(第55代)、光孝(第58代)の各天皇の皇孫・皇曾孫に「平朝臣」の賜姓が行われたが、その後は例がなく、「賜姓平氏」は「賜姓源氏」と比べればその数はだいぶ少数にとどまった。その「賜姓源氏」も正親町源氏が最後となり、以後は皇族に「源朝臣」の姓を授ける例はなくなった。