【感想・ネタバレ】抱擁家族のレビュー

あらすじ

妻の情事をきっかけに、家庭の崩壊は始まった。たて直しを計る健気な夫は、なす術もなく悲喜劇を繰り返し、次第に自己を喪失する。不気味に音もなく解けて行く家庭の絆。現実に潜む危うさの暗示。時代を超え現代に迫る問題作、「抱擁家族」とは何か。<谷崎潤一郎賞受賞作品>

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Posted by ブクログ

ネタバレ

小島信夫『アメリカン・スクール』(新潮文庫)に収録されている短編『馬』が非常に面白かったため、『馬』を長編小説に発展させた『抱擁家族』(講談社文芸文庫)を読んだ。何かを象徴しているのだろうと思わせる箇所はいくつかあるのだが、それが何を象徴しているのか複雑でひどく難解であった。登場人物も狂っている。だが、その狂いの中には、人間の本質的な事柄が描かれているように感じた。何度も読み返したい本だ。今回は第1回としてサラッと振りかってみる。

家族の関係性を主題とした小説である。講演、翻訳で生計を立てる主人公の三輪俊介とその妻の時子、息子の良一、娘のノリ子、家政婦のみちよ、三輪家を出入りしているアメリカ兵ジョージが主な登場人物だ。俊介がアメリカに出張している期間、トキコは家でジョージと情事をしでかす。そのことを知った俊介は、陰部に傷みを感じるようになり、事あるごとに「痛い、痛い」と連呼する。そして、ジョージを家から追い出す。ジョージが去った後、時子はセントラルヒーティングつきの家を建てることを提案する。実際に家が建てられ三輪一家が転居するころ、時子は胸に腫瘍ができ病院で摘出するも、転移していることが発覚する。ホルモン注射を打つも病状は悪化し続け入院する。程なくして時子は病院のベッドで亡くなる。妻、時子をなくした俊介は再婚を試みるも、事あるごとに時子のことを思い出し、再婚することができない。そうこうするうちに息子の良一は家に居づらくなり家出する。
馬とジョージ
短編『馬』においては、主人公に欠けている男性的なものを馬が代替する。一方、『抱擁家族』においては俊介に欠けている男性的なものをジョージが代替する。215項、以下の妻の台詞は、「私はあなたに欠けている男性的なものをジョージで補っていた。本来それはあなたが持っていてしかるべきものだが、持っていないためジョージで代替したのだ」という意図を読み取れる。

「あの男は、ジョージは、あんただったのよ。あんたがジョージだったのよ。私はそういうことは、あんたにいえなかったのよ。あんたなら、そういうふうにいうけどもね」
ジョージはアメリカ人、それもアメリカ兵である。小島信夫にとって、アメリカとは圧倒的な精神的抑圧者であった。それは『アメリカン・スクール』等の初期短編にあらわれている。『馬』という短編が『抱擁家族』という長編に化けたのは、「男性的なもの」と「抑圧者たるアメリカ」が結合したからではないだろうか。


時子とジョージの情事を知った俊介は怒りジョージを追い出す。その結果、三輪家には男性的なものがなくなってしまう。そこで、時子はセントラルヒーティングつきの家を建て転居することを提案する。ここで時子は、セントラルヒーティングに男性的なものを付託したであろうことが読み取れる。(暖房と表記せず、カタカナでセントラルヒーティングと表記するあたり、アメリカという要素も付託されたであろう。)
10年前に海水浴に行った後も時子は突然「家」を建てると言い出す。それに対して俊介は以下のようなことを考えている。

いったい、あの海から帰ったあとで時子が急に家を建てたいといいだして、自分に金を都合させて、半年の間に実現させたのは、どういうつながりがあるのだろうか。「家庭の幸福」を求めていたのだろうか。自分の力を見せつけるためにああしたのだろうか。36項
彼女は家庭の幸福を求めて家を建てたのだろうか。短編『馬』においても妻、トキコは家に執着する。あたかも家を建てることによって、建て続けることによって家族は維持されるとでも言わんかのようである。講談社学芸文庫『抱擁家族』の背表紙には「妻の情事をきっかけに、家庭の崩壊は始まった。たて直しを計る健気な夫は、・・・」とあるが、私は『馬』と『抱擁家族』ともに崩壊しつつあるのではなく、時子は、家を建てるという行為を継続することによって、俊介は妻の言いなりになり、建設費用を稼ぐことによって、その都度、「私たちは家庭をやりくりしているのだ」ということを確認して合っているように読めた。逆に言えば、家を立て続けるという行為なくしては家として在りて在ることはできなかったのだろう。彼女は家庭の幸福を求めて家を建てたとも言えるし、読者には不気味に感じさせるほどの強迫観念に囚われ家を建てたともとれる。時子の死後、三輪家に出入りするようになった清水は俊介にこの家を売るようにすすめる。それに対して、俊介は泣くような顔になり売ることを断固拒否する。時子と俊介で築き上げた家が俊介にとっては、2人の絆そのものであったのだろう。

家を壊す部外者
『抱擁家族』は以下の強烈な出だしで始まる。

三輪俊介はいつものように思った。家政婦のみちよが来るようになってからこの家は汚れはじめた、と。そして最近とくに汚れている、と。7項
そして最後は以下のように終わる。(良一が家出をした後)

「こんどはノリ子が・・・・・・」
ノリ子が出て行くことはあるまいが、その代り・・・・・・。俊介は外へ出ると、坂を走っておりた。彼の家の犬が吠えだした。山岸を追い出すのだ。いや、その前にみちよを・・・・・・
時子はそうでもないが、俊介は時子と子ども(良一、ノリ子)以外の全ての人間が三輪家を崩壊させる醜悪な者であるかのように捉えている。そういった例は挙げ出せばきりがない。時系列的には、「家政婦みちよの出入り→ジョージと時子の情事の発覚」であるがゆえに、俊介は時子の浮気が原因で外部の人間を家庭を壊すファクターと捉え始めたわけではない。俊介は外部を排除することによって内部の凝集力を高めようとしたのであろうか。この論点に関しては特に、納得のできる推論に達することができなかった。次読むときはこの点を注意して読みたい。

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2013年03月01日

Posted by ブクログ

ネタバレ

重層的な作品。

ジョージ=アメリカ・占領軍・GHQであったり、妻の時子=戦前の天皇制・伝統であったりなど、あきらかに戦後の日本の体制を描いていると見える。

死んだ時子のいた日本間(アメリカ式の家の一区画である!)に友人の木崎とともに寝に行く息子の良一も示唆的だ。

「家」にめちゃくちゃ執着する。最初の家を、妻=戦前の日本がジョージに寝取られたのちに仮の住処を一度挟んでからアメリカ式の家に住む。ただそのまま乳がんが見つかって時子はどんどん容態が悪くなってやがて死ぬ。妻=天皇がいれば雨漏りもしなかっただろうにと嘆く場面もある。

「家」が文化とか、そういう文化的な伝統みたいなものの暗喩として働いている。その中でうごめくさまざまな登場人物たち。

妻が死んでからは、新たな妻・主婦を探そうとみんなが躍起になる。神としては死んだ天王に代わる倫理的支柱を求める。「魚の眼」に思えるような女性を新たに妻にしようとする。人間化した天皇の個人としての性格は無視して、ただ象徴としての、機関としての主婦を求めていく。

家にいると自由がないと困ったり、やっぱり家にいる方が自由だと感じたり、「家」をめぐって自由に関する意識もねじれている。核家族という新たな形式にも未だ慣れることはない。

しかもこの小説、そういうメタファーを一切とっぱららったとしても面白い。服屋の店員が妻の病名を聞かなかったり、娘の泣くのをちょっとだけ見下したような目線で見たり、そういう人間の美しくない機微を逃すことなく捉えている。大谷さんが玄関で転ぶのを俊介が目に入れてしまうこともそう。

ジェンダー的な読み方もできそう。

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2024年01月06日

Posted by ブクログ

ネタバレ

たしかに家族の話なんだけど、切り取るところがすごい独特な気がする。自分の家に変な人がたくさんいる。(変人がいるという意味ではない)〈家族としてあるべき姿〉という概念がずっと物語の中に漂っていて、まあ言い換えればそれだけが浮かび上がっているというべきか。
主人公と妻の話だと思って読むから、妻が亡くなってもこの話が平然とつづいていくのがやっぱ変。でもだからこそ、〈家族としてあるべき姿〉が浮かび上がっている気がする。でも登場人物、とくに主人公の気持ちを追うのがむずかしい。

一読したうえでは、おもしろい!とは自信を持って言える確固たる感触は持てていないのだけど、これを読んだ人と語りたい感じはある。

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2021年05月24日

Posted by ブクログ

ネタバレ

へんなひとだー、と思う。書き方がかなり独特。解説に「喜劇性」とあったけど、たしかに。はぐらかすような、ぬめるような、微妙なとちり方したり。うまいことはまってくる時は気分よく読めるのだけれど、ちょっと一読じゃむずかしいかな。だいいち、結婚生活のことはよくわからんし。でもやっぱり妙に気になるところはある
奥さんが亡くなって、第三部の最後のあたりのセリフなんかちょっと泣けそうだったよ。

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2013年06月30日

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