あらすじ
本を、読む。こんなシンプルなことが、どうして放っておかれているのか。
「書を携えて、街に出る。人が人といてひとりになるためには
こんなすったもんだが必要なんですね」
――片桐はいり(俳優)
本はあっても、読む場所がない!
家でもカフェでも図書館でも……ゆっくり読めない。街をさまよう。
だから、「今日はがっつり本を読んじゃうぞ~」と思う人たちが
心ゆくまで「本の読める」店、「fuzkue(フヅクエ)」をつくった。
本と、光さえあればできるはずのものが、どうしてこんなに難しいんだろう?
心置きなく、気兼ねなく本を読むためには、なにが必要なんだろう?
なぜか語られてこなかった「読む」「場所」をめぐって、
ストラグルし、考えぬいた先に見えてきたものとは?
大部の『読書の日記』に綴る読書の喜びで人を驚かせた著者が、
ユーモアを織り交ぜた文体で小説のように書き記す。
「読書」を突き抜けて、「場づくり」「孤独」「文化」「公共」まで眼差す。
――きれいごとをちゃんと欲望しよう。
「もし映画館がなくて、小さな画面としょぼい音響でしか映画を観ることができなかったら。もしスキー場がなくて、野山を一歩一歩自分で登ってでしか滑ることができなかったら。もしスケートパークがなくて、注意されたり迷惑顔をされたりするリスクを常に抱えながらしか遊ぶことができなかったら。心置きなく没頭できる場所を抜きに、それぞれの文化の裾野は、今のような広さにはなっていないはずだ。
〔…〕だから読書にも、そういう場所があったほうがいい」(本文より)
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Posted by ブクログ
フヅクエ阿久津さんの日記はどちらも読んでいたところ、気になっていたこちらも読み終えました。阿久津さんはきちっとロジックを詰めていらっしゃってでもそれがひとに押し付けるような苦しいものではない。映画館や野球場があるのなら「本を読むための場所」があってもおかしいことではない、まったくそのとおりだった。みんなハッピーならいいけれども、そうじゃなくていい、という潔さにどこまでもついていきたい。あと、ブックカフェの違和感について、言語化していただいてありがたい気持ちです。
引用してらっしゃった江國香織の小説はわたしも好きな場面。読書というのは排他的な行為。
個人的には、雑に使えない場所(意訳)というのに納得。何度かフヅクエには足を運んだが、数日前からわくわくしつつ、「今日はフヅクエ行っちゃうぞ〜」そんな気持ちでいつも、ちょっと緊張しつつも行っている、そんな場所。
あとがきの、本と自分の記憶を書き連ねる部分には目頭が熱くなってしまう。わたしも今まで読んだ本とその記憶について思いを巡らせてしまいました。
これからも、ただでさえ楽しい読書をもっと、楽しんでいこう、そう純粋に思える本です。
Posted by ブクログ
fuzkue には何度も何度も行っているので、この本に書いてあることはとてもわかるというか、本書にも収録されている、あのメニューに書いてある内容をものすごく丁寧に細かくするとこの本になるんだろうな、という感覚で読んでいた。
前半は同意半分、ブックカフェの人などにちょっと同情しながら読んだのが半分。外で本を読める場所、それも確実に読める場所って基本的にないと思っていて。ブックカフェもそう、本のあるカフェ、という程度で、読める場所だなと思った経験はほとんどない。が、全国探せばきっとあるのだろう、読んでほしくてブックカフェやってる人もいるんだろうきっと、という思いで若干の同情がある。
後半はある種ビジネス本なんじゃないかなと思いながら読んでた。ミッションを決める。そしてそれにフォーカスする。というのは、よくある経営テクではあるけど、これほどにミッションフォーカスした事業ってないんじゃないかというぐらいフォーカスしている。「雑に使うことができないようにする」設計とかなかなかできないと思うんですよね。で、確かに雑に使えなくて、この店は行きたいけど行きにくいという変な矛盾を抱えている。これほどフォーカスするとかなりニッチな店になるんじゃないかとも思うが、それでも成功している(よね?)のが、ビジネス的に見習いたくもなってくるなぁと思うのです。
全体に静かな語り口ではあるけど、その実おそろしく堅い、堅くて熱い、強固な思いでやっているビジネスだなというのがとても伝わってくる本でした。