あらすじ
読書の楽しみを知れば、自然と本はたくさん読めます。著者の読書遍歴を振り返り、日頃の読書の方法を紹介。本書を読めば自分に適した読書スタイルがきっと見つかります。読書の達人による多読のコツを伝授。
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「わからないから読む」「無知を未知に」「読書は編集である,交際である」「本はノートである」「現状の混乱している思考や表現の流れを整えてくれるもの→整流」「すべての思惑も論理も表現も行動も連想で組み合わせられている」「キー本」「類は友を呼ぶ」「悪所は良書、良書は悪所」「狩野亨吉」「Google型の検索社会は私たちの連想力を落としている」「音読が黙読に黙読がデジ読に」「ナイーブ,フラジャイル・リーディング」
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読書術の類の本はいくつも読んできたが、これはその中でもダントツで面白かった。
松岡正剛氏(以降セイゴオ)の人となりも好ましく感じられる。言葉選びや思考から伝わってきて、この一冊で一気に好きになってしまった。
多読する上でのコツだとか考え方だとかを対談の形で解説してくれる。
この質問している人が誰であるかが明かされていないが、質問者の方との掛け合いも楽しい。例えば「この話題に関しては本筋から離れてしまうからこの辺にしておこう」とセイゴオが言っても「いや、詳しく話してください」のように否定したり突っ込んで尋ねたりするからだ。
途中で一度、「われわれ編集者は」と言っているので、編集者ということだが、編集者は基本的に黒子というのが持ち分であるから特定しないのだろうと思う。
本書から学んだ核心、とりわけ面白かったのは編集工学にまつわる部分だった。
これを読むまで、編集工学というキーワードを見聞きしていたものの然程興味をそそられなかったのだが、読書とは自己編集であり相互編集でもあると言い出したところでむむ、興味深いぞ、と思い、その心において編集工学が関わっていた。
読書は、著者と読者との間で行うコミュニケーションだ。その通りだと思う。
そしてコミュニケーションは、単に情報というオブジェクトを伝達しているだけではなく、その情報を介してお互いの編集モデルを相互作用するものである。この概念は全然自分になかったので目から鱗だった。
落合陽一氏が『脱近代宣言』において話していた「自分と自分以外のフィードバックループ」と共通する。
養老孟子氏は『バカの壁』において、インプットした情報(x)に対するアウトプット(y)を「y = ax」と表現した。これでいえば自らの編集モデルこそが個々人が持つaであり、私が持つaと著者の持つa’は異なるが、同じ文化、同じコミュニティにおけるなんらかの共通基盤がa≒a’と相互認識させているのだろう。
この共通基盤を、本書では「理解のコミュニティ」や「意味の市場」という言葉で言い表されている。
この「理解のコミュニティ」においては、相互にa≒a'と思える。コミュニケーションにおいてある程度意味が通じて会話が成り立っていると相互に実感できるが故に、例えば私の思う「赤」と他者が持つ「赤」の認識は同じものを指す、と暗黙的に定義づけられているのだろう。
セイゴオは、コミュニケーションにおいては情報交換というプロセスの中で編集構造の断片になりそうなものを交換していると言う。
その編集構造の断片、即ちaはダイナミックに変容していく。
記憶というのは非常に曖昧なものなので、y=axと聞くとなんだかaは定数のように感じられるが、動的に変化するaはとても定数とは言えない。
その意味でも、aが、xによって日々刻々と変化していく編集構造であると考えるのは納得しやすい。
流石、膨大な読書による膨大な情報を集約・凝縮した末に導き出されたものであるから話の密度が高い。
具体に対する共感は私も同様の作品を読んでいなければしにくいのだが、抽象部分から感じる説得力がとても魅力的で、セイゴオに対する憧れを喚起する。
とはいえ私は読書をそのまま活かせる仕事に就いていないし眠る時間を削ることもできないので真似するのは好手にあらず、あくまで参考として受け取るのがベストなのだと思う。
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読書。決まり決まったものがあるのではない。ひたすら読む。そして、考える。良い本、悪い本、とか言われるけど、何年後化には評価は変わる。自分の気持も変わる。受け取り方も。そういうことを、文書で学べた。
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すごい読書家さんがいるものだ。著者は「千夜千冊」(Webサイトと書籍)の執筆者。必要な情報だけを手際よくピックアップする読書術とは一線を画すような、膨大な知を体得している。読前、読中、読後の具体的な行動例から、そもそも読書とはどういう行為なのか読書の真髄に関する言及など、内容も多岐にわたっていて、徹頭徹尾飽きさせない。濃くて深い内容がインタビュー形式で書かれていて、とても読みやすい。
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実家にあった本は全部で二千冊あるかないくらい、けっして蔵書が多い家ではなかった、と著者は言うが、二千冊は十分多いと思う。
「無知から未知へ、それが読書の醍醐味です。」に同意。
本によって様々に読み方を変えるといい。場所や小道具、著者は服装まで変えるらしい。
読書の気分転換に別の本を読む、というのは私もよくしてる。いろんな本を併読してるのは間違いじゃなかった、と安心した。
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読むことは、食べること
とすると、
・食べる→運動により血肉化
・読む→書く、話すことにより血肉化
食べることと考えれば、読書は様々な食べ方があってよい。
これは、けっこういうは易し。往々にして同じ読書の仕方にはまってしまいがち。
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サクッと読めていい
年表をかくにしても、ノートをとるにしても、人に推薦してもらうにしても、どれも言えるのは、「リンクを増やしていく」ということだと思う
本をそれぞれのニューロンと思って、ニューロンひとつひとつじゃなくて、大事なのはいくつのニューロンとシナプスがリンクしてるか、ということ
そうしたリンクを強く複雑に意外にしていくと、インターテクストなネットワークの構造ができていく
そこに、「意味」が立ち現れてくる
人と人とのコミュニケーションは、情報でなくて意味をやりとりするものであって、そのネットワーク構造を編集しあってるということ
ってか。
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他の読書術本とは一線を画す、というより読書に対する考え方がそもそも異なる読書術。編集的視点ってそういうことなのかと勉強になる。
本をノートのように使う、年表を作る、辞書を引くというのをやってみようと思う。
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一言要約:読書とは、「間」を見つけ・繋ぐ「エクササイズ」である
そのこころは、多読の醍醐味は一冊の本への集中というリスク過多と肩が凝るような「行い」から脱し、幾つかの本に同時並行で向き合うリスク分散と気分転換、そしてその複数の本の間に違いや共通性を見出すこと、これこそが「読書の本質」であり、最大のポイントは、これをエクササイズの如く「楽しむ」ことだろうと、帰結した
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読み始めて、止まって、を繰り返しているうちに、著者の松岡正剛さんは亡くなってしまった。いつか会えたらと思っていたのに。書評はあまりにも膨大なので、すべて追いかけるのは無理だと諦め、この本を読んだ。まぁ書いてある事の半分くらいは飲み込めたかなぁ。私には難しかった。哲学の本とか少しずつしか読めないし。本に書き込むのも私には無理と思う。今後の参考にはしたい。だいぶ前の本だけど、全然気にならないし、何回も見たくなる本だった。
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こちらが無知だからこそ読書はおもしろいって書いてあって、ぶんぶん頷いた。
世界にある読みきれない本のことを思うと気が遠くなるが、それでも読みたい!
著者は、どんな時でも読む。その上で「どう読むか」に大きく重心を置いていた。眠い時にどう読むか、昂っている時にどう読むか、さらに日本文学を読む時には何を用意するか、科学書を読む時には…と、本と自分が重なり合う方へ積極的に向かう姿勢を真似したいと思った
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新年早々ヤマザキマリラジオに出演されていたのをたまたま聞いてすごく心を動かされたので、読んでみました。
NHKのサブカルチャー史にも出演されていました。
何冊も同時に読むことを自分も最近始めたので、達人にコツを聞いてみたいと思ったのだが、やはり、この人は並のお方ではない。
ジュリア・クリステヴァのいう「インターテクスチュアリティ」(間テキスト性)についての紹介
「本来、書物や知は人類が書物をつくったときから、ずっとつなかっている。書物やテキストは別々に書かれているけれど、それらはさまざまな連結と関係性をもって、つながっている。つまりテキストは完全には自立していないんじゃないか、それらの光景をうんと上から見れば、網目のようにいろんなテキストが互いに入り交じって網目や模様をつくっているんじゃないか」
「どんなテキストも自立的に思想的にかまえたものではあっても、何かと関連しあっているし、ちょっと緩めにソフトアイで本やテキストを見れば、その本やテキストは、その大きなインターテクチュアルな網目の一部として、いままさにここに突起してきたんだというふうに感じられるんです。」
その複線的で複合的な読みのネットワークの中で、「キーブック」というものが必ずあるという。確かに!と膝を打つ感じだった。その「キーブック」たちが結節点になって、柔らかい系統樹を示すという。
セイゴオさんの「キーブック」
宮本常一「忘れられた日本人」
ヘルマン・ヘッセ「デミアン」
フーコー「知の考古学」
モンテーニュ「エセー」
洋の東西を問わず、古典の方が断然きわどいものが多いという。まさに古典はリベラルアーツ。
さらに「千夜千冊」の巻立に従って「フランケンシュタイン」「嵐が丘」「地球幼年期の終わり」「時の声」「生物から見た世界」「パンダの親指」「幻想の中世」「アレゴリーとシンボル」「世界劇場」「パッサージュ」「かたち誕生」「アンナ・カレーニナ」
読まずに死ねるかという本が続々と…。
セイゴオさんの哲学は
読書は、第一に現状の混乱している思考や表現の流れを整えてくれるものであり、第二に、そもそも思考や表現の本質は「アナロジー」であり「連想」であるということ、第三に元気が出てくる源泉は「曖昧な部分」「きわどい領域」「余分なところ」であると確信しているということだと言う。
「暇と退屈の倫理学」で紹介されていたドゥルーズが語ったという「攫われたい」というフレーズ、ここでもセイゴオ先生が「本に攫われたい」と語っている。さすが達人は同じ境地に達するというわけだ、と納得。
その時代に悪書とされたものはのちの名作であるらしい。
その例としてマキャベリ「君主論」、「アラビアンナイト」「デカメロン」、スタンダール「赤と黒」、フロベール「ボヴァリー夫人」、マルクスとエンゲルスの「共産党宣言」、ディケンズ「オリバー・ツイスト」、ストウ夫人「アンクル・トムの小屋」スタインベック「怒りの葡萄」、フォークナー「サンクチュアリ」、ヘンリーミラー「北回帰線」パステルナーク「ドクトル・ジバゴ」、ジョージ・オーウェル「動物農場」バロウズ「裸のランチ」ナボコフ「ロリータ」を挙げている。
…何冊よめるか?
いい本に出会う打率は最高でも三割五分、普通は二割五分くらい。その打率を上げるために「駄本」を捨てるのではなく、むしろ三振したり見送ったのがあるという思いが重要だという。どんどん空振りして相手を褒めるつもりになった方がいいと。
セイゴオ先生は今癌の闘病中とラジオで話しておられた。まだまだ活躍してもらいたいと心から思う。
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本をたくさん読むということの理由を問うことはむなしい。読むことが読む人をどう変えるのか考えても仕方がない。
しかし、「世界」は読むことで変わっていくとを読んだ人は知っているはずだ。そういう頼りない期待を励ます本。
励まされて、読み始めれば、次の本、次の本、次の本・・・が待っている無間地獄かもしれない。
まあ、しかし、それは、それで、面白いじゃないか。この世にいて出会う無間地獄などたかが知れているに違いない。
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千夜千冊という単語を聞いたことはあったが、それがなんのことなのか松岡正剛氏が何をしてる人なのかは知らないまま本書を読んでみた。
これは、非常に面白い!多読術というより、松岡正剛氏の読書における哲学を語る本。
目次をしっかり読むこと、背表紙を眺めてる時から読みが始まる、読む時の状況、メモしながら読む、などなど自分の持っている読書哲学と同じような部分が多く共感しながら読み進めた。
そして松岡正剛氏のやっている千夜千冊が気になり、HPを見に行く…情報量に圧倒された。これはすごい。ちなみにいくつか読んでみたがなかなか難解で理解が追いつかなかった。『松岡正剛』という新しいジャンルに興味が湧き、これこそ「未知のパンドラの箱が開く」という読書の醍醐味を感じた。
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タイトルが「多読術」なんで、勿論、実践するための読書術の技法は書いてあるんだけど(ちゃんとやります)、私はそれよりも本や読書に対する意識?概念?が面白いと思った。
これから読む本はより楽しめそうです。
もし読書に停滞期が来たらまた読みに来ますね。
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「編集工学」の提唱者として知られる著者が、みずからの読書遍歴を振り返りつつ、編集工学の視点から読書の意義を語った本です。
読書を「自己編集」であり、かつ「相互編集」としてとらえる見方が興味深いと感じました。「読む」というのは、表面的には文字やことばの意味を追いかけることなのですが、それだけにとどまらず、イメージやメタファー、社会観、さらには生理感覚までも参与するような、複合的な活動だと著者はいいます。さまざまな情報を交換するなかで人びとが「意味」を編集しているコミュニケーション空間のなかに「読書」という行為を置き、著者のスタイルを「モデル」として理解しつつ、読んでいる自分自身の「モデル」をつくりあげていくような相互編集行為としてとらえようとしています。
編集工学の観点から「読む」という行為を見ると、こういうふうに見えてくるのか、と驚かされました。
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本はリスク、リスペクト、リコメンデーション(おススメ)の3Rで読む。読書は肩肘はらずに気軽にするべき。バレンタインにチョコより本を送るってのは良いと思った。読書はナイーブでフラジャイル。恋愛や交際の様に好きになったり嫌いになったりのアンビバレンツ感を楽しみながら読み進めるのが面白い。
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ワタシのパーソナルなアジェンダの中で、読書ノートをどうつけるかというのが実は長年の課題。試行錯誤を繰り返しつつ、未だにその方法が定まっていないのだけれど、この本でいいヒントをもらった。早速実行してみよう。
それから、ひとつ前に読んだ『閉じこもるインターネット』で指摘されていたことが、今から三年前に出たこの本で「知の平坦化」というフレーズで的確に取り上げられているのは興味深い。
それにしても、ちくまプリマー新書はページがめくりにくいな。
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いっぱい本を読みたい!と思い書店に行って、出会った一冊。
新書大賞2010に載っていたので読んでみた。(入賞はしてない)
何千冊も本を読んだことがある松岡さんが本の読み方について語っている。
さまざまな視点から読書が何かを提示してくれていて、新しい考え方を得ることができた。一方で、到底私には理解しがたい深い捉え方もあった。
・読書を高尚な行為であると思わないこと。読書の仕方にはさまざまなアプローチがある。食べるような感覚で本を読もう。
・言葉には限界がある。自分が言った言葉、書いた言葉が必ずしも完璧に当人の考えを表さないこともある。そういったことから、読書は編集行為であるといえる。
・いつも良書に会えるとは限らない。本を読むことは恋心のようなもので、 裏切りもあれば、毒もあり、リスクがつきものである。
・読書には連想性、多様性がある。本を読むときには3冊をひとまとまりとして考える。
読書って奥が深い!もっとたくさん読みたいと思った。
「言葉は嘘つきである」
という表現を以前どこかで目にして、意味分からなかったけど、
なるほど。って、分かったような気がした。
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過去に講談社現代新書の「知の編集術」(こちらの方が圧倒的に詳しい) 」を読んでいたので、内容はほとんど予想通りだったが松岡正剛の軽やかな対話が小気味良いので初めて読むなら丁度良い塩梅なのではないかと思う。
「多読術」であり「速読術」ではないため、早くたくさん読めるようになりたいといった願望には対応していないので注意が必要。
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松岡正剛(セイゴオ)氏による読書論。
筑摩書房の編集担当者が聞き手となり、セイゴオ氏から話を聞きだす形式となっている。対話形式なので、読みやすい。
語られているのは以下のようなことである。
・幼少期からの本との出会い。セイゴオ氏はどのように本と付き合ってきたか。
・どのように本を読んでいるか。
・どうすれば本をたくさん読めるか。
読書論は多岐にわたるが、『多読術』というタイトルなので、多読に関することをひとつ抜き出しておく。
書物を「良書」と「悪書」に分けるのはやめた方がいいとし、言い方を変えて次のように述べている。
理解できるかどうかわからなくとも、どんどん読む。(中略) 自分にあう本を探すより、敵ながらあっぱれだと感じるために本を読んだっていい。むしろ、そういうことをススメたい。(p76)
「いい本」にめぐりあう打率は最高でも三割五分くらい、(中略) ふつうは二割五分くらい。その打率を上げるために「駄本」を捨てるようにするべきかと言うと、むしろ三振したり、見送ったものがあるという思いが重要になる。どんどん、空振りして、相手を褒めるつもりになった方がいいんです。(p172)
つまり多読術のキモは、当たりはずれなどを気にせずに、本をどんどん読めということに尽きるのだろう。
自分に合った読書法は、結局は自分で編み出すしかない。こういう本はそのヒントになる。たくさん本を読む人に、お勧めしたい本である。
Posted by ブクログ
「読書をする人だけがたどり着ける場所」を読み終えたところ、タイムリーにRafmonさんが「多読術」を紹介してくれていました。少し前に近所の書店で松岡正剛さん追悼の帯を見た記憶が蘇り、駆け込み購入です。
どうやって本と付き合うのか、多くの本を読む方法に止まらず、最後はデジタルVS読書についても触れられています。
その中でも「読書することは編集すること」の章は全く新しい視点だった。書き手と読み手の双方向的な相互コミュニケーションの中で「意味の交換」を成立させている。一冊の本に出会って読書をするということは、大きな歴史が続行してきてくれた「意味の市場」や「理解のコミュニティ」でそのような体験を再現し、再生し、また想像していくということ。
読書=著者が「書くモデル」を作ったところへ読者は自分の持ち合わせているエディティングモデルを投げ縄のように投げ入れて、そこに「読むモデル」を括って自分の方へ引き上げ、何かを発見していくこと。
自分に合った読書スタイルの章
読書というのは平均的なことをするわけでは無い。自分の読中感覚をできるだけ多様にイメージする。「感読」「耽読」(読み耽る)「惜読」「愛読」「敢読」(あえて進んで読む)「氾読」「食読」「録読」「味読」「雑読」「狭読」「乱読」「吟読」「攻読」「系読」「引読」「広読」「精読」「閑読」「蛮読」「散読」「粗読」「筋読」「熟読」「逆読」
読書の未来の章は少し難しくなってきましたが、肩肘はらずにカジュアルに気分に合わせて様々な本を読む事がやがて多読につながると信じてこれからも読書ライフを楽しみます。
そうそう、カラマーゾフの兄弟は読みこなせていない自信が確信に変わりました笑
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部屋の整理の一環で、手放すかどうかを見極めるために、10年超ぶりに手に取った。結果、手放せない一冊になってしまった(笑)
本書を購入した時、私は自分の規格外の要領の悪さ、特に読むことと書くことが極端に遅いこと、をものすごくコンプレックスに感じていて、自分なりに試行錯誤しながら、その手の本を何冊も手に取った。しかし、どの本に書いてある方法を試してみても芳しい成果はなく、さらに複雑な迷路へと入り込んでしまった。
当時購入した「速読」や「文章の書き方」に関する本は、とっくにほとんど手放したけれど、本書をいまだに捨てきれず手元に残していたのは、ひとえに、松岡さんの読書の仕方がほんの少しだけ自分のと似ていたからだと思う。10年以上前に初めて読んだ時、世の中的には「邪道」とされる私の「読み方」「書き方」を少しだけ肯定してもらえたような、救われたような気がしたことを、今でも覚えている。
今回読み直してみて改めて感じたことは、自分なりに読書が捗る環境や方法が、たとえ世間一般には「NG」とされていたとしても、私自身がそれを否定する必要はまったくない、ということだった。むしろそれを出発点にして、「私の」読書世界をさらに広げていければ良い。これで堂々と寝っ転がって論文を読んだり、体調が悪い時にテレビを見ながら研究が出来る(笑)
もう一つ思ったのは、自分の中の「アナログ」を見直してみよう、ということだった。私は生来、デジタルより、断然アナログ派で、それは今もまったく変わっていないのだが、世の中の流れの速さにかろうじて付いていくにはデジタルの方が便利な場合が多いので、デジタルへどんどん偏っていく自分を許してしまっていた。松岡さんの思考法を拝見する限り、メモの取り方など、アナログとデジタルではやはり頭の働き方が違うので、恐れず、原点へ帰ってみようと思う。
自分の生活全般、人生丸ごとが出てしまうのは、読書も研究も同じ。良い機会なので、本書を参考に初心へ戻り、さらなる飛躍の糧としたい。
Posted by ブクログ
読書論的なものが総じて好きなので全体的におもしろかった。筑摩書房の編集・高田さんとの対談形式。あえてこうしたのだとか。会話調の文章を読むのは苦手だけどこれは読みやすいと感じる。
編集工学の部分は難しい、一度では理解しきれない。けどセイゴオさん自身、一回でわかるものではないと本書の中で言い切っているしそれはまた時期が来たら読み直そう。
どうしてもつきまとうのは、「セイゴオさんって、結局、すごい人なんでしょ」という気持ちかな。私は子どもの頃に文学全集もカラマーゾフも聖書も読まなかったし。それが偉いというわけではないけど、そんな漠然とした劣等感をいつか拭えたらいいなと思う。
Posted by ブクログ
千夜千冊の松岡正剛の書作。webサイトを読む限り、「知的で温かみのある文章」を書く人だと思った。私にとって面白い書き手とは、こういう人間味のあるものを書く人なんだと思う。その反面、無知なわたしはその高尚な内容についていけないことも多々ある。。
Posted by ブクログ
Webサイト「千夜千冊」の文章は難しく感じることが多いけど、この本はあえてインタビュー形式と言う形を取っており、わかりやすい。ただ、ある程度読書経験を重ねていないと実感するのは難しいかもしれない。
ある程度読書量が増えてくることで、セイゴウさんの言う「編集」の意味がなんとなくわかるようになってきた。軽い読み物のようでとても深いことを言っている。
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読書は堅苦しいものではなく、好きなものを食べたり、好きな映画を観たりする感覚で「知りたいことを知る」、「行きたい世界に行く」等という軽い気持ちで読みたい本を読めばいい。
Posted by ブクログ
20190318 内容を誤解してたようで買ってからしばらくは余り進まなかった。言ってる事がイメージつくようになってからは一気に読めた。個人的にはブッククラブに付いて興味が持てた。