【感想・ネタバレ】襲来 上のレビュー

あらすじ

安房国の港町・片海で漁師をしていた見助は、京の寺々に遊学していたという僧侶と出会う。僧はやがて日蓮と名を改め、鎌倉の松葉谷に草庵を構えて辻説法を始める。見助も鎌倉まで従い、草庵で日蓮の身の回りの世話をするようになる。その後日蓮は、他宗派への攻撃を強め「立正安国論」を唱える。幕府がこのまま邪宗を放置し法華経を用いなければ、国内の災難が続き他国からの侵略を受けると主張した。そして見助は日蓮の予言に伴い、九州の対馬に一人で赴くことになる。日蓮の目となり耳となるために。鎌倉から京の都までは陸路、京から博多さらに壱岐・対馬までは海路だ。遥か遠国の地への、見助の苦難の旅が始まった。

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Posted by ブクログ

## 書評:帚木蓬生著『襲来』―ネガティブ・ケイパビリティ)の視点から

帚木蓬生氏といえば、精神科医としての知見を背景に人間の内面に深く迫る作品で知られ、また『ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力』という著書を持つことでも知られています。この「ネガティブ・ケイパビリティ」とは、「どうにも答えの出ない、対処しようのない事態に耐える能力」であり、「事実や理由を拙速に求めず、不確実さや不思議さ、懐疑の中にいられる能力」を指します。それは何かを解決する能力ではなく、むしろ「そういうことをしない能力」とも表現されます。帚木氏は、この能力を知ってからご自身の人生や創作活動が随分楽になったと述べています。

この「ネガティブ・ケイパビリティ」という視点から、同じく帚木氏の歴史長編『襲来』を読むと、作品の持つもう一つの層が見えてきます。本作は、鎌倉時代、蒙古襲来という未曽有の国難に立ち向かう人々、特に主人公の見助と、彼が深く関わることとなる日蓮を中心に描かれています。

物語は、見助という赤子が壊れかけた舟の舳先で拾われるというシーンから始まります。彼は養父に育てられ、「いつか来る死の時に後悔のない人生を送るよう」諭されます。見助は若くして養父を亡くしますが、その葬儀に参列した清澄寺の若い僧侶、後の日蓮との出会いが彼の運命を大きく変えていきます。日蓮は見助に片海という生まれた土地から出るべきだと諭し、「見えるもの、聞こえるものの奥を見るべきだ」と教えます。

日蓮は国の安泰と民衆の幸せを願い、法華経の中に民を救う方策を見出した人物です。彼は不正な行いを前に黙っている僧侶を批判し、やがて蓮長から日蓮と改名し、日蓮宗を旗揚げします。そして、間もなく国中に天変地異が起こり、その後に外敵が襲来するという予言を放つのです。

この「**外敵の襲来**」こそが、まさに「**答えの出ない、対処しようのない事態**」 です。高麗が既に蒙古に征服されている、済州島の三別抄の軍が敗れた後が襲来の時期だとされる など、情報は断片的に入ってくるものの、鎌倉は西国の情勢が分かっていない、対馬の守護や地頭代も新参者である など、事態への対応は遅々として進みません。
人々の中には「起こって欲しくないものは、たぶん起こらないと思ってしまう」という心理も働きます。これは、まさに「不確実さや不思議さ、懐疑の中にはいられない」こと、つまりネガティブ・ケイパビリティの欠如が招く状況です。

そんな中、主人公の見助は、富木から日蓮を支える手足となってほしいと頼まれ、波乱の人生を歩み始めます。彼は日蓮の佐渡流罪、念仏者との論争や新たな著作活動、そして日蓮の死 を見守りつつ、対馬での攻防、壱岐の壊滅、石築地の築造 などを経験していきます。
見助の旅は長く、馬関から難波津までひと月かかるような道のりもあり、その肩にかかる笈は「経過した年月そのもの」 と感じられ、新しい宿に対して自分は古びてしまったと感じる描写は、彼が歴史の大波の中で多くの時間を耐え忍んできたことを示唆しています。

見助の強さは単なる肉体的なものではありません。雪山の中に一人でいても「ひとりではなかった」と感じ、たとえ艱難辛苦にあっても「とことん自分の道を進んで行くとよい」という言葉は、**答えの出ない状況下でも自己を見失わず、耐え、進み続ける精神的な強さ**、すなわちネガティブ・ケイパビリティに通じるものと言えます。
日蓮から受けた「**見えるもの、聞こえるものの奥を、見て聞けるようにならないといけない**」という教え は、不確実な状況を性急に判断せず、その奥にある真実を見ようとする、ネガティブ・ケイパビリティの精神と響き合います。

日蓮自身は、予言や活動を通して非常に能動的な人物として描かれますが、周囲は必ずしも彼の訴えを受け入れられません。得宗家でさえ日蓮を恐れているふしがある ことは、彼の「杭」が大きすぎる、つまり彼のスケールに対して、事態に対処しようとする周囲の「木槌」があまりに小さい 状況を示しているとも解釈できます。
「石と石の間には相性がある。相性が合わん石をくっつけても、すぐに崩れる」という比喩 は、人間関係や組織だけでなく、未曽有の事態に対して有効な対応ができない状況をも表している。

『襲来』は、単に蒙古襲来という歴史的な出来事を描くにとどまらず、避けられない破局に向かって進む世界の中で、人間がいかに「**答えの出ない事態**」を生き、耐え忍ぶかを描いた作品です。主人公の見助の視点を通して、読者は不確実性の中を歩む個人の内面と、歴史の大きなうねり、そしてその中で説かれる日蓮様の教えを追体験します。

「**これしきのことが夢であれば、夢はずっとずっと続きます**」 という言葉が象徴するように、人生や歴史には避けられない苦難や不確実性が存在します。

帚木氏は、『襲来』において、このどうにもならない事態を前にした人間の「耐える力」、すなわちネガティブ・ケイパビリティの有り様を、歴史上の人物と架空の人物を通して深く掘り下げています。これは、まさに著者自身が探求し、重要視している概念であり、本作を「ネガティブ・ケイパビリティ」という眼鏡を通して読むことで、歴史小説としての面白さに加えて、人間の内面的な強さや弱さ、そして困難な時代を生き抜くことの意味について、より深い洞察を得ることができるでしょう。

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2025年05月18日

Posted by ブクログ

上巻は見助が日蓮の耳目となって対馬に渡るところで終わるが、ひらがなで拙い手紙しか書くことのできない見助が、どこまで助けになるのだろうか。せっかく、当時の知識階級である僧たちと寝食をともにしていた見助なのだから、もっと読み書きを学ばせて欲しかった。日蓮そのものも、元は漁村の生まれなのだし、無理ではないのでは?
また、他の方たちも書いていることだが、他の仏教の宗派に対する攻撃が凄まじい。今も存在する宗派も多いのに、支障はないのだろうか?
下巻に続く。

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2024年11月02日

Posted by ブクログ

主人公の見助は、その名の通り、日蓮上人の耳目として対馬に赴き、蒙古襲来の際には惨状の目撃者に徹する。故に激しいアクションは一切無し。かの“神風”の後も、生き残った元の船団が逃げ帰るのを山の上から眺めているだけである。また、作中で日蓮上人は浄土宗をボロカスにこき下ろしていたけど、念仏宗をはじめとする他宗派への非難・攻撃がいくら史実とは言え、関係方面からクレームが来なかったのか、ちょっと心配になるくらいの内容だった。

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2023年09月19日

購入済み

日蓮上人伝記と鎌倉時代の旅日記

題名に反して上巻は、日蓮上人伝記と鎌倉時代の旅日記であった。同じ作家の「国銅」を思わせる出だしであったので期待したが、日蓮上人の活動の記述がどうしても敬意を払わざるを得ないようで、逆に小説としては平板なものになっていると感じた。見助の九州への旅の記述のほうが当時の様子がよくわかって面白い。

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2023年09月03日

Posted by ブクログ

長い間、敗戦後の占領政策で洗脳され、国内が経済的に発展すればそれでよいというようにのんびり暮らしてきた日本。「国防」というキーワードが意識されだしたのは、拉致事件が明るみに出た頃から強くなったのではと、わたしは思います。

鎌倉時代の世も昔のこととはいえ、やはり狭い国内でだけで覇権争いをしていた。そんな時代に日蓮というお坊さんが現れ「外敵が攻めてくるかもしれない」と予言、その諜報員のような働きをした若者の物語を通して、やんわりと国を守るということを解き明かされているような作品です。

主人公は千葉の先端で育った孤児の「見助」。「日蓮」に出会い、関わっていくうちにはるばる九州の沖の対馬まで旅をして行ってしまうというのが上巻。

時は鎌倉時代の後期、政府(幕府)は権力闘争に明け暮れ、そして疫病と天変地異、庶民は疲弊しておりました。そんな時には宗教が絡んでくる。世は念仏宗の「南無阿弥陀仏」と唱えてさえいれば幸せになれると、上つ方にも下じもも念仏宗一辺倒、そこに日蓮が警告的な説で異を唱え挑むのです。

蒙古襲来、歴史教科書での記憶ありますが、帚木さんの想像力と創造の物語は臨場感あります。

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2020年09月19日

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