あらすじ
精神科医が自分を振り返り自らに「発達障害」という診断を下したとき、自分というもののあり方、他者との関係や理解はどのように見えてくるのか。
ASD(自閉症スペクトラム)、ADHD(注意欠陥多動障害)、DCD(発達性協調運動障害)などの診断名で呼ばれる「発達障害」は病気ではないし、必ずしも「障害」ではない。脳のスペックの傾向であり、そのスペックに適した環境に置かれていないがゆえの不適応と考えるほうがはるかに実態に近い。
私のスペックは、たとえば精神科医、牡羊座、A型、DCD、右利き、日本人、大学教授などさまざまに表される。しかし、その中の一つに焦点をあて人としての本質として前景化した形で周りから名指されてしまうと、その「分かられ方」は自分からは切り離され、独自の存在として扱われることになる。
物事を認識すること、人を理解することにおいて、人間の思考の営みは常になにかを捨て去り、排他的に対象を輪郭づけようとするのではないか。ゆで卵が生卵からゆで卵に変貌する臨界点はどこにあるのか。
人工的に作られた名前が必ずしも「定義」から出発しているとはかぎらず、定義もまた定義づけられた瞬間からその「過不足のなさ」は揺らぐことになる。
人を了解すること、人を説明すること、それらの間にはなにか質的な違いがあるのではないか。また自分が自分を分かるということはじつは大きな謎であり、他人のことが分かることの謎へと連続的に連なっている。
本書は、著者による発達障害の自分史を事例としてつつ、「私」あるいは「私」と他者との関係の「分かり方」を考察する。名指すことによって分かるのでなく、繰り返し語らい合い、ともに眼差すことによって「分かる」ことへと接近するだろう道筋を探って。
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Posted by ブクログ
発達性協調運動障害であった精神科医の著者。
発達性協調運動障害とは、例えば、、、
・逆上がりが出来ない。
・とび箱が飛べない。
・球技が苦手。
・紐が結べない。
など。
実は、僕も全く同じで、
特に野球やバスケットボールなど、分担・役割が決まっているものは大の苦手でした。今なら僕も発達性協調運動障害と診断されるかもしれませんね。
僕は、それが影響してか、ずっと自信のない子ども時代でしたし、特に男性としては全く自信が無かったので、一生独身なんだろうと子どもながらに思い込んでいました(笑)。
まあ、こんな僕でも惚れてくれる女性が現れて、3人の子の親となれたのは、子どもの時の僕からすれば、夢物語に思えるでしょうね。
本書では発達障害のたとえとして、スポーツカーと普通車と耕運機が、高速道路と田んぼを走る場合について書かれています。
高速道路で耕運機を走らしたり、田んぼでスポーツカーを走らすと、それぞれの特性は障害となります。
動物は精子と卵子が受精する時に、必ずどちらの親とも異なる遺伝子の変化を起こし、種の多様性を作り出します。
この多様性が様々な環境変化の中でも、生き残る生物があり、進化をもたらします。
ヒトの能力には必ず凸凹がある。それは、その子が劣っているのではなく、多様性の一つなのだと理解し受容する豊かな人間社会が、いつかやってくることを望みます。
あと、本書のテーマは、発達障害や心の病気に対して、「診断すること」「了解すること」の是非についても書かれています。
心理やキャリアのカウンセラーの養成スクール等で、精神科領域での様々な病名について教えていますが、この診断と了解について教えていないのはとても危険な事だと考えています。
そもそも診断とは何か?
異常と正常の線引きとは何か?
診断(線引き)はどんな時に必要で、患者(クライエント)にとって利益となり不利益となるのか?
そして、患者(クライエント)が了解する事にどんな意味があるのか?
これを考えずに、人の心の専門家となるのは、時に自分が言葉というナイフを振り回している事に気づいて欲しいと思います。