あらすじ
西欧諸国の法律にならって作られた明治の法体系と、現実の国民生活とのあいだには、大きなずれがあった。このずれが今日までに、いかに変化し、あるいは消滅しつつあるのか。これらの問題を、法に関連して国民の多くがどのような「意識」をもって社会生活を営んできたかという観点から、興味深い実例をあげて追求する。
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Posted by ブクログ
明治期に10年足らずで急いで西洋由来で形成された法は、西洋的な法意識とは異なっていて、日本人の生活の実態とかけ離れていた。権利や裁判という基本的な概念さえ、西洋人の意識や感覚とは異なっている、というのが趣旨。前半は読みやすく後半で具体例を説明する感じだが、今日の日本人の感覚を考えても全く古びないところがすごい本。
西洋的な文書文化ではなくて、契約書も必要なときに話し合って解決しようとしたり、和の精神を大事にしようとしたりするのが日本人で、西洋的な厳格さが言語のレベルで日本人と違うというところも論点にあって、とても興味深い。
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例示を厚く記載してくれているので、とても読みやすい本だった。
集団の和を重視し法を曖昧にゆとりを持って解釈しようとする日本の法意識と、個人の権利を重視し法を明確・厳格に解釈しようとする欧米の法意識の差異がよく分かった。
現代法の概念は欧米で生まれたものなので、欧米の法意識の方が適切に思える一方で、曖昧さやゆとりを持つ日本の法意識から生じているメリットも間違いなくあるのではないかなと思う(自身の仮説ではあるけれど、日本の犯罪率の低さの要因の一つもここにあるのではないかなと思う)。
必要な場面(特に国際的なビジネスの場面など)では、信頼獲得などのために法意識を変えていく必要があるとは思う一方、日本人同士の争いについてまでも西欧のような法意識への転換を図る必要はないよなと思った。
Posted by ブクログ
法学者にとって必読だと言われていたので読んだ。
日本人の法意識は外国のそれとは違う。その文化的背景に触れつつ、日本人にとってふさわしい紛争解決手段について述べられている。
確かに、私たちは道徳的な観点から法律と疎遠になることが多い。しかし、その事に漬け込んで、日本人の価値観が介入できないように細かく定められた法律もある。それは日本人の特性を無視したものである。それはまた、法律制定者の利益にのみとらわれてしまっている。個人的には、権利義務の話が面白かった。日本人には、その意識が薄い。
Posted by ブクログ
日本人の法意識
これまで70刷を誇る名著。大学時代からの積読で常々読みたいと思っていたが、なかなか読む機会がなく、やっと読むことができた。
日本は開国以降、不平等条約改正のため、近代国家として当時の列強諸国に認められる必要があった。日本における法制度は、土着的なルールから端を発するものではなく、近代化の要請において、急速に取り入れられたものである。そのような歴史的は背景から、日本人を語るうえで、法制度を仔細につまびらかにする以前に、日本人がそもそも持っている法というものへの意識を考察することが、第一義ではないかという問題意識をもとに、所有権や契約などの考え方について、西洋的な法の概念と日本における法意識を対比して述べられていく。
まず、そもそも、法の言葉というものは元来確定的・固定的であり、一義的にとらえられる必要があるが、そもそも日本語の言語体系として「明確に限界づけられた意味内容を伝達するのではなく、伝達使用する内容の中の中心的な部分を表明することばを用いることにより、それに伴う他の種々の意味内容はそのことばによって示唆され、その結果伝達される意味内容の周辺は不確実なものとなり、伝達の受け手によって変化しうる」ものである。これをして日本語の含蓄という場合もある。
日本における法の言語が不確定的かつ流動的であると同時に、日本人のルールに対する意識も当初の西洋的な法意識とは異なる。日本人は理想と現実についての境界をそれほど厳密にとらえていない。法が現実にあっていない場合、現実へのなしくずし的な妥協が公然と行われ、もはやそれをもって融通が利くという美徳になっている部分がある。
根本として、日本人は権利と権力に対する誤認識がある。本来、権力はもともと立場の強い人間が持つ、他者への強制力であり、権利とは権力に対抗するために、立場の弱い人間が持つ力である。権利に対してなしくずし的に妥協にしてしまえば、元の立場の強弱が支配している空間に逆戻りしてしまう。ゆえに、西洋においては一度得た権利を、権利を得た側がなし崩し的に妥協するということは絶対にない。しかしながら、日本では権利と権力はしばしば混同され、同一視すらされている場合がある。典型的な例が、雇用における権利である。従業員を雇っている人(≒社長、役員)は従業員に対して、権力を持っている。一方、従業員は社長や役員に対して権利を持っているのである。日本における雇用概念もまた、丁稚奉公のような形より始まっており、従業員の権利意識は極めて低い。具体的な例も出したが、このように、日本における権利意識や法への意識というものは、法や権利を最初に定義されたときのような切迫感などはまるでなく、極めて曖昧にとらえられている。
こうした考え方が、しばしば政治意識にもむずびつく、日本人は政治行動においても従順すぎる。未だに、政府のことを「お上」と言う人がいるが、これは政府に対して、我々が選挙で選び、そしていつでも政府に対して抗議し、変えることができるという意識の欠如を明確に物語っている。
日本人の法意識を物語る最たるものは契約意識である。日本人は契約に関しても、もはやネガティブなイメージすらある。のらりくらりと関係性を保つことを美徳として考え、契約書面を取り交わしたいというだけで不機嫌になる人もいる。さらに、仮に契約を締結したとしても、契約を軽視した言動もすくなくない。「それは契約上の話であって、実際には、、」と言う文句はしばしば使われるが、この言葉が日本人の契約観を如実に物語っているだろう。さらに、日本人は契約を軽視することと表裏一体であり、契約以上のことを当然の如く期待している場合がある。こちらも非常に奇妙なことであり、契約になくてもやってもらって当たり前と考えている次元があることは、日本人の特色であるだろう。
上記の法意識に関する考察は、私のように保険を扱う者であれば強く共感する部分があるのではないか。保険は万能であり、保険はお守りであるという感覚は、実際には一般的である。ただ、保険は何よりもまず契約であるがゆえに、保険契約にない場合の事故や事象には保険金は払われない。これは保険募集人の説明不足の問題も実際にはあるが、保険金支払いで揉めるのは基本的に上記のような契約意識が契約者側に極めて希薄だからである。さらに、よく地場代理店などでは、保険会社に対して「融通が利く」ことを求める傾向にある。法への意識をなし崩し的に考えているからこその姿勢である。昨今では、海外ともやり取りも増えたが、日本人が契約締結後、特に事故時にネゴシエーションするのに対して、当たり前ではあるが、海外は契約締結前の最もネゴシエーションする。いかに権利を守り、有利に契約するかということを極めて重視する。だからこそ、一度契約が成立すれば、契約は絶対に守る。この契約を遵守するという意識が全く異なるのである。一方、これも重要な点であるが、彼らは契約を守ると同時に、契約の範疇以外であれば言葉通り「なんでもやる」。ここが怖いところでもある。
Posted by ブクログ
行政法の教授に勧められて読んでみた本。
我が国の制定法が想定する社会規範と日本人特有の法意識からくる社会規範のズレを深い考察をもとに端的に指摘している。
「一般の人向けに書かれているため、堅苦しすぎず読みやすい」という評価が多かったのに、読み始めはすっごい読みづらかった。途中からリズムをつかんだのかスラスラ読めるようになったから、ただ単に自分が堅苦しい本を読みなれていないだけかもしれないけれど。
法律の役割は主なものとして、トラブル時における解決の基準と、トラブルを防ぐための人々の行動規範がある。本書は後者に焦点を当て、日本人特有の法意識から必ずしもそのような機能が十分に果たしているとはいえない現状を指摘する。例えば、自分の権利を主張するために裁判に持ちこもうとするなら「融通のきかないやつ」として白い目で見られることはあると思う。この本が書かれて50年は経つが、未だに当てはまる部分が多いことに驚かされた。
また、日本人にはもともと「権利」意識が無いという指摘にはまさに目から鱗だった。法学を学ぶ者はとにかく法の想定する社会規範のみを意識しがちだが、実際の法の捉えられ方を再認識するのに本書はとても意義あるものだと思う。
Posted by ブクログ
何の疑問を持たずに空き地で遊んだことのある人。
あなたの「法意識」は典型的な日本人タイプです。
明治維新、昭和の終戦、と大きな社会変革を経験し、近代的な法体系を発達させてきた日本。法律は西洋に勝るとも劣らない立派なものになっていったが、日本人の「法意識」は前近代のまま。
「権利」概念の欠如、使用者・労働者(あるいは発注者と請負業者)の封建的関係、白黒付けることを嫌う精神性、喧嘩両成敗的思考、内容が不確定な契約書、聖徳太子以来の「和の精神」、などなど。
一応著者は、戦後20年を経て日本人の法意識が大きく変わりつつあると指摘している。本書の初版発行は1967年だから、それからさらに40年余がたった現在は、当時よりも近代的法意識は成熟しているのだろう。
しかし著者が挙げる具体例には「確かにそうかも」と思い当たるフシが多い。俺の法意識も、やっぱり「日本人的」なんだなあ。
Posted by ブクログ
これはもうめちゃくちゃ面白いので、法律好きの方や日本人論の好きな方にはぜひ読んでもらいたい一冊です。
法意識、などというととても大げさなようですが、実際に書かれているのは、もう笑っちゃうくらいの「日本人の実態」です。特に面白いのは所有権に関する話で、日本人にとって所有権なんてものはあってなきがごとし、他人のものをチョイと平気で使うことになんの咎めもない、そういう民族だということに改めて気付きます。
そしてそんな「日本人らしさ」が、実は根底では西欧近代の法感覚とは根本で相容れないものであるということを、見事に示している。そういう本です。
Posted by ブクログ
「権利」「所有」「契約」「裁判と民事訴訟」といったキーワードについて、「各々明文化された法(及びその源流である西洋法思想)」と「日本国民の生活」のズレを説明している。
具体的には例えば第4章「契約」の内容、即ち「日本では売買契約による所有権の移転が確定的ではなく、売った様な預けた様な関係がある」の様に、
「西洋=境界線(法律上の権利義務・所有権など)が明確⇆日本=境界線が曖昧」といった切り口の議論が主な内容である。
この法意識の現れ方の一つの例として「民事訴訟では白黒を付けずに調停する」事であると書かれている。だがこの本が書かれた年(昭和40年)から40年以上経った現在でも日本企業同士の取引契約締結時には、この曖昧さが原因で交渉がこじれるケースが日常茶飯事。平凡なビジネスパーソンでさえ頭を悩ませる様な根の深い問題を扱ってると感じました。
Posted by ブクログ
これは面白い。法学の先生が書いた本だから固く抽象的な部分も多いが、具体的な事例が非常に興味深く、まるで民俗学の話を聞いているかのよう。宮本常一「忘れられた日本人」と似た面白さがある。
Posted by ブクログ
1月?(かつて?)文系大学生が読むべき本といわれる第二弾である。
[内容]全体を通しているのは、本書冒頭に提示された筆者の問題意識―西ヨーロッパの先進資本主義国ないし近代国家の法典にならって作られた明治の近代法典の壮大な体系と、現実の国民の生活とのあいだには、大きなずれがあった。そのずれは、具体的にどのようなものであったか―というものである。その問題意識に基づき各論が展開されている。第二章では、権利にかかわる意識を扱っている。従来徳川時代以来「権利」という固有の日本語にはなかった。そして伝統的に言われていることは、日本人は「権利」の観念が欠けているということである。また、権利、権力を区別し、日本人の権利に関する意識、また西洋人の場合の意識を具体例を交えつつ対比している。そして、権利を巡る憲法の持つ意味もわかりやすく解説してある。第三章では、所有権に関し、筆者の経験なども交えつつ指摘されていることは、所有者は、所有物の独占排他的な支配を持っているということの意識がない(あるいは弱い)、第二に、所有物が所有者の現実の支配をはなれ、他人の現実の支配下に置かれている場合には、所有者の「権利」が弱くなりそれに反比例するように、非所有者の現実支配の正当性を持つようになるということである。第四章では、契約についての意識を一般的な取引の観点、身元保証契約の観点から論じている。その双方で共通しているのは、契約の成立、内容などに明確さを求めないということである。もし、問題が起こったら、「話し合い」を通じ解決するということを予定するという。第五章では、前章で話題になった「話し合い」という話題に関し、日本人は、訴訟を避ける傾向があるという指摘し、「仲裁的調停」を用いることが多く、一方で裁判となった場合でも、被告に全面的に責任を負わせるのを避け、原告にも責任を負わせるよう努力する傾向もあると判例を交えて、述べている。
[感想]
非常に面白かった。そしてわかりやすかった。それは自分自身が日本人であるから共感しやすいということに加えて、筆者が直接直面した多くの具体例が多用されていたからであろう。本書を読んで法学には、二方向のベクトルが存在していなければならないということを考えた。一つは、社会から理論への方向、そして理論から社会へ。上部構造と下部構造とも言い換えることもできるかもしれない。本書の中で「社会的地盤」という言葉が出てきたが、法律は社会的地盤に建っていなければならないと思う。それゆえ、日本人の法意識を知るということも大切なことだ。
Posted by ブクログ
日本の伝統的な法意識は、権利・義務は「あるような・ないようなもの」であり、それが明確化され、確定的なものとされることを好まない、という著者の主題を、権利・法律・契約・民事訴訟の観点から明らかにする。
著者は一流の民法学者であり、その手による本書は法社会学の名著であって、実例も交えていることもあって非常に説得力に富む。
それでも最後は、日本人もやがて権利をつよく意識して主張するようになる、対個人、対政府でも法的関係を意識するようになる、歴史の進行はその方向に進む、と予言されている。この昭和40年代初めになされた予言が当たっているかどうかがすごく気になる。
むしろ、現在は、著者のいう権利・義務は「あるような・ないようなもの」という法意識はなお根底にありつつも、中途半端に「権利」のみが主張されて、世の中ギスギスしている気もする…。
一般の読み物としても面白いが、最後の「民事訴訟の法意識」の章は少し論文チックかもしれない。
Posted by ブクログ
第1章は言い回しが読みづらいのですが、第2章以降だんだん読みやすくなってきます。
第2章~第4章は、権利、所有権、契約について扱っています。
西洋的な権利義務関係では、権利の有無をはっきりさせて、裁判で白黒付けようとします。
この点、日本の法律は西洋に倣っているため、法文上は西洋と同じです。
しかし、前近代的な権力関係から引き継がれた法意識が、権利を内容不確定・未確定なものとして扱おうとするため、実際の運用においては法文とのズレが生じてしまう。
1967年刊行の本なので、現代よりも前近代的な法意識を前提としています。
とはいえ、何か争いがあって落とし所を探すとき、本書にいうような法意識を幾分用いているときもあるので、全く無用というわけでもない。
むしろ、自分の考え方のルーツを分類するのに、役に立つかもしれません。
第5章は、民事訴訟とりわけ調停の話。
民事訴訟法を勉強する際に調停についても習うわけですが、民事訴訟法自体が眠くなりがちなのに、調停はなおさら興味を持てなかった記憶があります。
それは訴訟自体よく分からないのに、調停はもっとよく分からないからで。
本書では、この調停について戦前からの来歴を学ぶ上ことができるので、社会学寄りな視点で興味を持つことができるようになると思います。
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丸山真男の日本の思想と並び、日本人という未開の土人について学べる良書。
他の見方も出来そうな部分もあるが、まるっきり的外れな事は書かれていない。
Posted by ブクログ
昭和の法社会学の泰斗・川島武宜の1967年の著作。岩波新書のロングセラーの一冊。
本書の問題意識は、「前近代的な法意識」の克服である。
著者は、日本人の歴史的な国民性を、聖徳太子の十七条憲法の第一条「以和為貴(=和を以って貴(とうと)しと為す)」から連綿と続くもので、「日本社会の基本原理・基本精神は、「理性から出発し、互いに独立した平等な個人」のそれではなく、「全体の中に和を以て存在し、・・・一体を保つところの大和」であり、それは「渾然たる一如一体の和」」だといい、それが「前近代的な法意識」の背景にあるという。
そして、所有権、契約、民事訴訟などの具体的な事例を引きながら、西洋諸国の法体系に倣って作られた大日本帝国憲法下では「権力」関係であった(=国民が国を訴えることは事実上できなかった)国と国民の関係が、日本国憲法によって「権利」の関係に転換したものの、日常の暮らしの中では旧憲法的発想は生きており、国民が憲法上の権利を知り、それを守り、維持していく努力をしなくてはならないと説いている。
本書発刊後50年経ち、日本人の法意識は変化しつつあるとは思うものの、瀬木比呂志が近著『ニッポンの裁判』(2015年)で書いているような裁判(所)の問題の根本は、本書で指摘されている前近代的な考え方が依然として残っていることにあると強く感じさせる。
(2005年12月了)
Posted by ブクログ
書かれた法と実生活でいきる法のズレを指摘する本。出版されたのは1967年なので多少の古さがあり、そこから今に至るまでにますます近代法的意識が浸透したとはいえ、完全にはなくならない日本人の義理の感情。私自身はそういった日本的な感情は割と好きなのだけど、その感情が全ての法律行為に適するわけではもちろんないし、グローバル社会とのすり合わせという課題があることも考えさせられる。
Posted by ブクログ
近代法と日本人の法意識とのズレを考察した、数ある日本人論の中でも横綱級の名著。
20年前に大江健三郎のノーベル賞受賞講演「あいまいな日本の私」が話題となったが、本書においても徹頭徹尾問題とされているのはこの「あいまいさ」である。融通が効くことが美徳であり、杓子定規であることが悪徳とされる日本社会においては、決まりごとはなるべくあいまいに済ます傾向が強い。そのことは具体的には、(霞ヶ関文学に見られるように)法律の内容をあいまいにすることで恣意的な運用の余地を残したり、あるいは欧米のものと比べて極めて簡素な(あいまいな)契約書などに見出すことができる。「すなわち、契約内容の不確定性は、西洋の人には不安感をあたえるのに対し、日本の人には安心感を与えているのである」(p.114)。こうした日本人の法意識は、互いに権利義務を主張して争いに白黒つけるという欧米のやり方とは異なり、権利義務をうやむやにして(あいまいにして)互いの顔を立てつつ争いを丸く納める日本社会の伝統に由来するものであることをいくつかの事例を挙げて説明する。
欧米と日本という半ば強引な二項対立を措定することによって、日本人の特異な法意識を炙り出すというその手捌きは、(今日から見ればいくつかの問題点を指摘することはできるだろうが)やはり鮮やかだ。
著者は、民主化や近代化の進展に伴って、こうした日本人の伝統的な法意識が徐々に近代的な法意識に移行していくだろうと予測しているが、果たしてどうだろうか。社会の変化によって法が現実と齟齬をきたすようになったとき、欧米においては法改正が行われるのが常であるのに対し、日本では法解釈によって調整されるとする指摘(p.37-42)は、幸か不幸かいまだに生きている。次の文章の「法律」という文言を「憲法」に置き換えてみたとき、そのアクチュアリティーに感心すると同時に呆然としてしまう。
「あたかも法律の条文ーー条文の文言がどのようなものであれーーは、どのような結論をも生み出すところの『打出の小槌』であるかのごとくである」(p.42)
Posted by ブクログ
「『文字の次元における法律』と『行動の次元における法律』とのずれ」(198頁)→ズバリ本書を要約する言葉の一つだと思う。
西洋から取り入れた法律と(当時の)日本人の意識とのズレについての考察が、本書で繰り広げられている。
46年前当時の考察であること(1967年に発行)を差し引いても、著者の指摘は根本的で的を射たものだと感じた。
また、訴訟社会アメリカとの対比で日本の訴訟の少なさが指摘されることが多い印象があるが、この印象に違和感を特には抱かないのは自分の中にも少なからず「和の精神」があるからでは…と思った。
以下は目に留まった記述についてのコメント・引用
30〜31頁:
「『法』と『権利』とは、同一の社会現象をそれぞれ別の側面から観念したものにすぎない。」から始まる記述は興味深い。フランス語の"droit"に「法」や「権利」があることに繋がる話。
34〜36頁:
日本語の特質と英語のそれとの比較。これらが日本における社会規範と密接
45~46頁:
法律と人間の間には絶対的な関係ではなく妥協が本来的に予定されている、という指摘。「交通安全週間」と「交通"危険"週間」はよくよく考えてみればおかしな話。
49〜58頁:
注目したのは、旧憲法下では政府と国民との関係は「法的関係」ではなく「権力関係」であったという指摘。実際の裁判の例が少し紹介されていて、これを読む限り(個人的には)恣意的に過ぎる判決ばかりな印象…「権力」と「権利」の区別に関する指摘(22〜23頁)が浮かんだ。
79頁:
本を貸した相手に、返してと言い辛いことは自分にお思い当たる節がある。依然として所有権はこちらにあるにも関わらず…
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日本を代表する法学者による、明治以降日本人が「法」をどのように理解し、法制度の次元でどのように行動してきたかを概説する取り組み。「近代的」法意識と「前近代的」法意識とが対置され、明治以降制度上は近代法体系が輸入されたが、しかし人々―市井の人々から法実務に携わる人々まで―の法意識は、以前前近代的であったとされる。そして最後に、戦後の法改正以降、日本人の法意識にも近代化の傾向が見られることをもって閉じられる。この著書で使われる、「近代」対「前近代」という図式そのものに対する批判的吟味はこれまでも数多くなされてきたが、様々な具体的事例が非常に明快に説明できているという点で、今日でもなお興味深い研究だと言えるだろう。
Posted by ブクログ
法律や訴訟は,1967年と比べれば身近になっただろうな。
同時に,法ないし権利の意識も,進んできたんだろう。
しかし,憲法についての意識は,発刊当時とそんなに変わらないのではないか。
58頁の中曽根康弘発言と同じようなことを言っている人は今でもいるよね。
時節柄,少し気に留まった。
以下メモ。
・法文の明確性と法律解釈についての意識(39頁)
裁判の予見を目的とする研究よりも、法解釈に熱中する法律学。
・落とし物が返ってくるのは、日本においても,当然ではなかった(73頁)
・トラックと過失相殺の裁判例批判(144頁)は、何か違う気がするなぁと。
Posted by ブクログ
日本人の法律や権利、義務の意識について考察した古典的名著。既に40年以上前の本である。
郷原信郎『思考停止社会』でも触れられていましたが、日本人にとって法律は「伝家の宝刀」のようなものだ、という言葉がある。これは法律の非日常性と、フェティシズムの対象と化していることを物語る。
道路交通法、労働基準法が破られるのが日常茶飯事なのは今も昔も変わらず。思えば日本では法律論を持ち出すと、「杓子定規」、「融通が利かない」、「心が冷たい」、とよく言われる。
特に明治憲法下では国家権力が法の拘束の外(臣民の権利は法律の範囲内)にあったので、今から考えてみれば、法律に関する意識は欧米諸国に近づいたと見てよい。この本では消防車が人を引き殺しても、軍の火薬庫が爆発しても、官立大学の教授が手術ミスで患者を死なせても、判事が故意に間違った判決を下しても責任を問われなかった例が紹介されている。
日本人は権利意識も弱いとされる。例えば狭い車道から広い車道に車が入ろうとしている状況について、海外の法律は「通行優先権を持つ車に道を譲れ」="Yeild Right of Way"という権利の側の視点から述べられているのに対し、日本の法律は「狭い道から広い道に入る車は気をつけなければならない」という義務の視点から事例を想定する。
また、昔から「最近の日本人は義務を果たさずに権利ばかり主張する」という意見が根強く残る。権利をあまり主張しなかった(できなかった)からこそ年功序列、終身雇用を前提とした日本的経営=家父長的(家族的)労働関係が成立し、高度経済成長の原動力が生まれたと言える。 その一方で障碍者や女性の権利が以前よりも幅広く認められるようになったのも、権利を主張し続けてきた歴史があったためである。
日本人は所有権の独占排他性になじみが薄い、という指摘もその通りだと思いました。それは自己の管理下の他人物を私有物と混同しがちということ。例えば他人の貸借物をそのまま自分のものにしてしまうことが挙げられる。
権利内容の不確定・不定量性の指摘も興味深い。はじめから妥協が予定されていて、なし崩しに連続している。だから、役得的背任、横領があっても、当事者に罪の意識がないことがよくある。そのまま有耶無耶にされることも同じ。
概して言えば、日本人は現実に法律を一字一句そのまま適用するよりも、その場の雰囲気や現状に応じて良く言えば臨機応変に、悪く言えば恣意的に曲げて適用しがちということ。それがわかったので読む価値はあったと思う。
Posted by ブクログ
[ 内容 ]
西欧諸国の法律にならって作られた明治の法体系と、現実の国民生活とのあいだには、大きなずれがあった。
このずれが今日までに、いかに変化し、あるいは消滅しつつあるのか。
これらの問題を、法に関連して国民の多くがどのような「意識」をもって社会生活を営んできたかという観点から、興味深い実例をあげて追求する。
[ 目次 ]
[ POP ]
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☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
Posted by ブクログ
内田先生おススメの一冊。
読みながら、「ははあ、あるある」と思い当たること数々。
著者は、日本人には「権利』観念が欠けていると述べているが、近年のやたらな「権利意識の振り回し」は、まさに権利の観念の欠如が齎しているものと思ってよいのであろう。
Posted by ブクログ
ものすごく掻い摘んで言うと
西洋・・・進んでる
日本・・・遅れてる という内容
しかし、目的合理的法意識と価値合理的法意識の対立であって、西洋内部でもある対立なのではないかという批判がある
ただ、日本人がどういう法意識を持っているかを知る上では、おもしろい本
Posted by ブクログ
1967年の本なので掲載データは古いが、エッセンスは現在でもほとんど通用するのであろう。
現行の日本の法典は、明治期に西洋から日本に「移植」された。当時の起草者は、西洋の法意識が本来の日本の生活秩序とは異質であることを承知していた。その上で、列強に伍して「文明化」を促進するためやむなくそうしたのである。
しかし、法の執行はその社会状態を離れてはありえない。それゆえ著者は、日本人が法をどのように扱おうとしてきたかを、「法意識」として分析する。
「権力」は実力を持って強制できる力であり、「権利」とは異なる。明治以降、日本人に権利、所有権、契約、訴訟の意識は希薄であった。
Posted by ブクログ
内田氏推薦の本。古い本なので、今の本と比べて読みずらい。当時はわかりやすい本だったと思う。
法意識は当時と今では変わってきており、その辺についてしることが出来てよかった。
法が社会に与えるインパクト、影響速度など興味が出てきた。
Posted by ブクログ
『日本人の法意識』と題しているのでひろーい考察かと思いきや、
「この調停事件の経験 - 西洋的法思想に立脚する私の法意識にショックをあたえた……(中略)……調停委員の発言 - は、私をして、調停制度の歴史やそれを支える法意識の探究にむかわせた……(後略)。」(p.192)
この一文から明らかなように、日本に蔓延る調停至上主義を解明するのが本書の狙い。多分。
--雑な要約--
明治以前から日本には仲裁と調停とが未分化の方法で紛争を解決することがあったらしい。調停と仲裁とはともに第三者の介入がある点で似ているものの、調停はあくまでも紛争当事者双方を最終的に相互合意させることが目的であるのに対し、仲裁は当事者の合意関係なく第三者が決定を下してしまうことに一番の違いがある。筆者のゆう仲裁的調停の定義は正直よくわからないが、恐らくは、第三者が決定を下すものの、当事者も空気を読んで最終的に合意する、とゆうことが言いたいのかと思う。
さて、仲裁的調停は徐々に調停的性質に傾き、明治8年に「勧解」とゆう名で調停が制度化されると、14年には勧解が最下級の裁判所である「治安裁判所」の業務として定められ、関聯規則などが制定された。
23年に民事訴訟法が制定されたことに伴い、裁判所の業務から勧解すなわち調停は除かれ、裁判所はより西洋的な、白黒つける場としての性格を強めた。しかし、大正期にかけて社会体系に変化が起こり、協同体から個人主義へと社会が変容したことで、日本国民の間に自己の権利をもとめる動きがひろまると、それまで紛争を丸く収めてきた有力者(名主や地主)の存在を以てしても国民の権利要求を抑えられなくなり、これを国家の根幹を揺るがす事態と受けとった政府は、種々の調停法を定めて再び調停を制度化した。
大正11年から陸続と出てきたこれらの調停法の狙いは、紛争を権利義務の観念から切り離す、つまり法に依らない解決を図ることであり、したがって、双方の言い分に白黒つけるのではなく、丸く収めるのが目的であった。それを有力者の代わりに、調停委員会に委ねることで、調停は再び裁判所の管轄となった。
ところで、明治憲法が狙いとしたのは日本人の頭に法治主義を植えつけることではなく、列強に対抗するために治外法権と関税自主権の恢復を図ることであり、憲法や民法などの制定もあくまでも西洋の法治国家の体裁を身につけることを狙いとしたため、法治主義はひろく農民や労働者に普及しなかっただけでなく、立法の立場にある為政者の中にも法を蔑ろにする者が少なからずいたそうな。そもそも当時の日本はスメラミコトを頂く体制であり、裁判もスメラミコトの名の下に行われていた。
明治政府が手本とした西洋では、法は法、現実は現実として、あくまでも法の絶対を支持し、また権利と法とはコインの表裏のような関係で、権利を守ることは法に従うことであった。しかし日本ではそもそも協同体の一部としての生き方が強制されていたために自己の権利を要求することは社会から白眼視される行為であり、権利を求めることが社会的に許されない以上、法ももはやあれども無きが如きであった。それゆえに、日本では白黒つける裁判も有名無実となり、調停が制度化されるに至る。
そうした日本の紛争解決への姿勢は現代にも引き継がれた。優先道路を走っていた車と脇道からでてきた車とが衝突したとある事故で、裁判官がくだした判決は痛み分けともいえる内容であった。西洋の裁判では、優先と定めている以上は優先であり、脇道から出てきた車が悪いとゆうことになるが、日本では、優先道路を走っていた車にも、速度を落とすなど、し得ることがあったのにしなかった点で責任があるとしてしまう。
契約書の約款は細かければ細かいほどよいとされるのが西洋流だが、日本では「誠実協議円満解決条項」とゆう風刺の効いた条項が必ず契約書に盛り込まれ、それ以外の条項にかかわらず、いざとなったら話し合って丸く収めましょう!とゆうことで締めてしまう。
こういった種々の日本独自の紛争解決観念を筆者は「法意識」と呼んでいるらしい。(知らんけど。)
ただ、個人主義も長くやっていると板についてくるものなのか、最近は国民の間にも調停によらず裁判でケリをつけたり、契約書に米粒大の字でびっしりと約款を書いた契約書が増えてきたりと、少しずつ西洋化の傾向がみられるとゆう。
--要約おわり--
鉤括弧(「」)、長い横線(---)、傍点(文字の上につける点)などが頻繁に使われすぎていて、赤線やマーカーで線を引きすぎた教科書みたいになっている。非常に読みにくい。
「二. 近代法の『私所有権』の特質」(p.68-78)の所有権の話は色々とひっかかった。地代を徴収する権利を所有する者と、地代を払って耕作する権利を所有する者と、というように一つの耕作地に何層にも何重にも所有権が成立し得るのが中世であったという例を引いて、筆者は昔はいまほど所有権が独占排他的でなかったと説くが、少なくとも後者のは現代では耕作権と呼ぶのでは……。権利を所有するから所有権と呼ぶとゆうのなら、この世の権利は全て所有権になってしまうのでは……。
更に、その所有権は当時の中央や幕府によって制限を受けていたのではなく、本来的に制限されていたのであるから、すなわち所有権の性質がそもそも違うと説くが、本来的にどうして制限されていたのかが説明されていない。
「三. わが国における所有権の法意識」(p.78-94)に紹介されている修学旅行の例も、学生が旅行先でタダ飯を食ったり、土産物をパクッたりしたという事例を引き合いに出して、これを窃盗とは思っていないところに、窃盗に対する心理抵抗がみられないと括っているが、引率の先生がそれをやったとゆうのならともかく、学生がやったこと(引率とは別行動中)をその例に挙げるのもどうかと思う。それとも、フランスやドイツの学生にはそうゆう手合いはいないのか。全体にもやもやする事例と、「……と思う」ばっかりで、歯切れが悪い。
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近代社会と伝統的社会のエートスの違いに眼を向け、単なる法制度を論じているだけでは見えてこない、日本人の法に関する意識について、多くの実例をあげながら考察をおこなっています。
著者自身は近代主義の立場を取っていると思われますが、そうした著者の立場に賛同できない読者にとっても、法制度の背後にあるエートスについて考えるための手がかりとして読みなおすことができるのではないかと思います。
Posted by ブクログ
不平等条約下の屈辱的な列強との関係を一日も早く正常化するために、慌てて法律が用意された。
このことが、日本の前近代的な意識とあまりにかい離している法の体系を作った。契約とか、裁判とか、権利とかが、骨身にしみて理解されていない。
いまなら日本人論の古典というところでしょうか。ちょっと苦手な文体でした。
Posted by ブクログ
久方ぶりに読みましたが、あれっ、物足りないなという感じ。
具体例は確かに面白いのだが、それで何を言いたい?という感じ。
岩波新書の位置付けから考えると本書は岩波新書を代表する一冊と断言するが、当方も経験を重ねたか、少々次の一手を要求してしまう(とやけに偉そうに書いてみる)。
あとどうでも良い感想ではありますが、時代ですな、マルクスって感じを文章の端々に見て取れます。
色んな意味で大学の教養課程における必読書じゃないでしょうか。
Posted by ブクログ
探している「法は人間のためにある」という定義は、この本の中にはなかった。
ただし、以下2つの論点が面白かった。
法は西洋においては権利と同一の概念だが、日本には伝統的に義務はあっても権利の概念はなかった。
理想と現実をはっきりと二元化してとらえる西洋の考え方に対して、日本では現実への妥協が「なしくずし」的に行われる。
日本でのコンプライアンスを考えるにあたって、非常に興味深い。
以下、1~2章
前近代的な「法意識」について
「社会行動の次元における法」と「書かれた法」との間の深刻重大なズレ
法律は、政治権力の発動に関する一定の思想ないしイデオロギーの表明である
法律は社会生活を現実的にコントロールしている
しかし、人々の社会行動・社会秩序を100%法律によって規制し維持しているという社会はない
法による社会統制の程度は、時代により国により非常に違う
現実の社会党生の課程において方がどのように機能するかと言うことは、法をめぐって人々が現実的にどのように行動するかによって明らかになる
伝統的に日本人には「権利」の観念がかけている
西洋では「法」と「権利」は同一の事物(現象)を別の側面からいっていること
法は、歴史上、「実力」の行使を抑制するための社会的メカニズムの一つ。争いを「実力」行使によって解決する代わりに、一定の「客観的な判断基準」による評価によって解決することを目的とする
すなわち、法は、Bがある行為をする義務を負っていることについてAが持っている利益を、AとBとの事実上の力の強弱にかかわりなく承認し保障することを目的とする
その判断基準は、個人の考えを超えた事実(慣習や法律)に根拠を持っているべき
しかし、大社会には種々の異なった判断基準がある
判断基準の正当性の信念をつくり維持するための工夫が行われる
西洋:「法」と「権利」と同一の言葉
日本:「権利」についての法意識の欠如。「権利本位」ではなく「義務本位」
法律は、権利義務に関する重大な政治権力の強制力が発動される内容を定めるもの
西洋:法律の言葉の意味を確定的・固定的にする努力をしそのように意識する社会
日本:法律の言葉の意味を本来不確定的・非固定的なものと意識して承認する社会
法律にすでに含まれていることの発見を「解釈」という
法律に含まれていないが判断基準にされるのが、慣習法や条理
西洋では、法律の理想と社会生活の現実の二元ある
日本には、理想と現実を厳格に分離する思想はない。現実への妥協はなし崩しに行われる