あらすじ
ハイデガーは二○世紀最大の哲学者として、またきわめて難解な思想家として名高い。一方ナチスへの協力者として、その言動は厳しく糾弾されてきた。ここでは主著『存在と時間』の精緻な解読を通じて、ハイデガーの存在論や哲学史観の全貌を描く。と同時にその作業を通じて、なぜナチスに加担したのか、その理由をさぐり、思想の核心に迫る。
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Posted by ブクログ
↓僕なりの理解
現存在は、現存在自身をも含む存在を存在者たらしめ、世界を構築する意識的な現場である。存在は無意識で知覚され、存在者は意識で認識される。この存在了解=存在投企は、自然現象的に起こる出来事であり、現存在はあくまでその座として出来事を眺める。その意味で、存在は現存在に先立つ。
ソクラテス以降の哲学は、存在を本質存在(-である)と事実存在(-がある)に分節し、ニーチェは存在を力への意志と永劫回帰で捉え直し、哲学は極地に至る。個体は、この混沌と秩序を志向する力としての二つの存在が拮抗し、その結果として表現される存在者である、ということだろう。しかし存在は、本来分節していない自然(ピユシス)なものであり、哲学の外部にある。名詞的な現前として分節する(非本来的時間性)のではなく、動詞的な瞬間として捉える(本来的時間性)ことでしか、形而上学を乗り越え実存を捉えることはできない。言葉は無意識(存在)の表出のひとつだが、あくまで意識的なものである。形而上学、つまり存在忘却、故郷喪失の時代にいる我々にできることは、思索や詩や芸術を通して、失われた存在を追想しつつ待つことである。
作品を端緒として、クローズアップされ分節され再構成された存在者を見ることで、その背景にあるコミュニズム的世界が開かれ、現れ出る。この世界を含んだ存在者をソクラテス以前のギリシア人は自然(ピユシス)と呼んだ。ある作品=被制作物=存在者(神殿)を通じて、それまで混沌であったところに世界の明るみ=ピユシス(太陽、潮騒、生物たち)が開かれる。その現成と同時に、暗みにある故郷とも呼ぶべき基底としての大地が初めて姿を現す。ここで、世界と大地は闘争の関係にある。つまり、大地=混沌と闘争しながら存在者が存在者として立ち現れ、それらの相互作用から世界が開かれるという無意識の過程こそが真理の実現態であり、芸術作品は、形而上学の外部にある、この自然(ピユシス)な存在と無意識の深みにある感性との交響を、増幅し具象化して追想させる存在論的機能をもつ。
Posted by ブクログ
ハイデガー関連の書籍初挑戦。にしては、木田元著作のものを選ぶのは無謀だったかな、と読み終えた後の理解度を鑑みて少し後悔している自分がいる。
そうはいっても、諸学者向けの網羅的な作品としてではなく、ハイデガーの「存在の思索」に思い切って焦点を絞った作品として自分の心づもりを変換すれば大変興味深い読書体験ということができる。本書の内容を要約するには力及ばず、なので付箋をした過去の自分を信じ引用箇所にコメントするに届め、個人的なおさらいとさせていただこう。
<存在了解>という用語の説明。<存在企投>という用語に言い換えているが、観念的な話でどうもふわふわとして腑に落ちない難解さがあるな。
P83:<存在企投>とは、現存在がいわば<存在>
という視点を投射し、そこに身を置くことだと考えればよい。つまり、<存在>とは現存在によって投射され設定される一つの視点のようなものであり、現存在がみずから設定したその視点に身を置くとき、その視界に現れてくるすべてのものが<存在者>として見えてくる、ということである。
ハイデガー流の「現象学」の定義。私はもちろん、現象学に対しても学びが足りないので、へーそうゆうものかという程度の感想で不甲斐ない。
P99:<存在>というものがけっして存在者に属する何かではなく、人間において正起するある働きだということを原理的に解き明かし、その働きを体系的に解明することが現象学の使命だと言っているのである。
アリストテレスとプラトンの存在概念を対比させながら、その二つの起源的な根源的存在を解き明かさねばならないというののがハイデガーの主張だと理解。プラトン・アリストテレス解釈のまとめとしては以下の引用か。
P124:古代・中世・近代にわたる伝統的存在論のうわべの多様性が解体され、そこにはプラトン/アリストテレスのもので形成された<存在>概念がさまざまに歪曲されながらも一貫して受け継がれていること、そしてそれが<存在=現前性=被制作性>という存在概念であることがみごとに明らかにされる。
前期の<存在了解>から後期の<存在の生起>への「思索の転回」。「存在」というものが現存在(人間)が主体か、自然が主体かの重心の変化かなと理解。
P143:この転回を、<現存在が存在を規定する>と考える立場から<存在が現存在を規定する>と考える立場への転回ということができるのかもしれない。
ハイデガーによるプラトンの存在論への評価。繰り返しになるが、これ以降本書内でアリストテレスと対比されている。
P164-165:つまり、存在を自然として捉える立場と、存在をイデアとして捉える立場は、<存在する>ということを<発言し現れ出る>ことと見る点では違いはないのだが、ただその視線を向ける先が違うのである。前者はあくまで現れ出て存続しつつあるその動きに目を向けるのに対し、後者はすでに現れ出たものが外からをそれを注視する働きに対しおのれを提示するその姿だけに目を向け、これを超自然的存在に高めてしまう。こうして、後者の視線のもとでは、。その目撃される存在の外観によって示されるその「何であるか」、つまり<本質存在>が表立ってきて、それに対して、それから取り残されたものとして<事実存在>が区別される。
プラトン/アリストテレスの存在観の対比を端的に述べている個所。ここから始原の単純な存在=自然としての存在が押しやられ、忘却されてしまう「故郷喪失」という時代が今なのだとうまとめかな。
P173:つまり<被制作性>と同義である。ただ、その際プラトンは、その作品がいかなる<外観>を提示し、<それが何であるか>にもっぱら目をとめ、つまりはその制作を導いてきた<イデア>の現前性に優越的な存在を認めたのに対し、アリストテレスは、あくまで個物が作品として眼前に現れ出ているその現前性、<それがある>としての現前性、<現実態>としての現前性を第一義的なものと見るのである。
後の章で技術・芸術論に踏み込んでいるが、ここはより詳細な説明を求むかな。著者本人も概略だけを説明するに留めるてきなことで、簡便なものにまとめているので。
Posted by ブクログ
最近、木田元の哲学書をいくつか漁り読みしたので、木田元のハイデガーへの思い入れと「存在と時間」の解釈について大分わかってきたので、それを補強するための適書。形而上学を否定するハイデガーの企てには恐れ入るが、そもそも形而上学ってリアルな人生において何の意味があるかが分かっていない自分には理解できない。まあヨーロッパに生まれ育たないと理解できないようなので、日本人である私にはわからなくて当然なのでしょう。哲学は所詮は、時代・場所・文化に深く根ざしているものなのだから。
Posted by ブクログ
ウィトゲンシュタイン「神秘的なのは、世界がいかにあるかではなく、世界があるということである」『論理哲学論考』p78
【3つの命題】p82
①現存在が存在を了解するときにのみ、存在はある(エス・ギブト)
②存在は了解のうちにある(エス・ギブト)
③現存在が存在するかぎりでのみ、存在は<ある>(エス・ギブト)
<世界開材性>とか<世界内存在>というのは、人間がそうした<世界>という構造を構成し、それに適応しながら生きる生き方、存在の仕方を指すと考えてよい。このような高次の機能によって、現存在が現に与えられている環境から身を引き離すその事態を、ハイデガーは<超越>と呼んでいる。現存在は、<生物学的環境>から<世界>へと超越するのである。p86
ハイデガー「あらゆる存在者のうちひとり人間だけが、存在の声によって呼びかけられ、<存在者が存在する>という驚異のなかの驚異を経験する」p89
<存在=現前性=被制作性>というアリストテレス以来の伝統的存在概念は、ハイデガーの考えでは、非本来的な時間性を場としておこなわれる存在了解に由来する。p139
ハイデガー「ピュシスとはギリシア人にとって存在者そのものと存在者の全体を名指す最初の本質的な名称である。ギリシア人にとって存在者とは、おのずから無為にして萌えあがり現れきたり、そしておのれへと還帰し消え去ってゆくものであり、萌えあがり現れてきたっておのれへと還帰してゆきながら場を占めているものなのである」『ニーチェ』p156
ハイデガー「<力への意志>という名称は、存在者がその<本質><仕組み>から見て何であるかを告げており、<等しきものの永劫回帰>という名称は、そうした本質をもつ存在者が全体としていかにあらねばならないかを告げているのである」p182
【存在が言葉になる】
すべてに先立ってまず<ある>のは、存在である。思考は、人間の本質へにのこの存在の関わりを仕上げるのである。思考がこの関わりをつくり出したり惹き起こしたりするわけではない。思考はこの関わりを、存在からゆだねられたものとして、存在に捧げるだけのことである。この捧げるということの意味は、思考のうちで存在が言葉となって現れるということにほかならない。言葉こそ存在の住居である。言葉というこの宿りに住みつくのが人間なのである。思索する者たちと詩作する者たちは、この宿りの番人である。彼らがおこなう見張りとは、彼らが語ることによって存在の明るみを言葉にもたらし言葉のうちに保存するというふうにして、その明るみを仕上げることにほかならない。『<ヒューマニズム>についての書簡』p201
Posted by ブクログ
[ 内容 ]
主著『存在と時間』の精緻な解読を通じて、ハイデガーの存在論や哲学史観の全貌を描く。
と同時にその作業を通じて、なぜナチスに加担したのか、その理由をさぐり、思想の核心に迫る。
[ 目次 ]
序章 一つの肖像
第1章 思想の形成
第2章 『存在と時間』
第3章 存在への問い
第4章 ハイデガーの哲学史観
第5章 『存在と時間』の挫折
第6章 形而上学の克服
第7章 ハイデガーとナチズム
第8章 後期の思索?言語論と芸術論
終章 描き残したこと
ハイデガー略年譜
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[ 参考となる書評 ]