あらすじ
戦後思想史に独自の軌跡をしるす著者が、戦中・戦後をとおして出会った多くの人や本、自らの決断などを縦横に語る。抜きん出た知性と独特の感性が光るこの多彩な回想のなかでも、アメリカと戦争の体験は哲学を生きぬく著者の原点を鮮やかに示している。著者80歳から7年にわたり綴った『図書』連載「一月一話」を集成。
...続きを読む感情タグBEST3
Posted by ブクログ
鶴見さんの作品を読むのは初めて。いろいろすごい思想と文章を積み重ねて、80代のときにたどり着いた表現という印象を受ける。平易な言葉でくり返し同じエピソードがつむがれる中に、ドキッとするような一文がまぎれこんでいる。
中でも大江健三郎のことを描いた「内面の小劇場」は圧巻。内面のせめぎ合いなしに、何かを主張することはできない。迷いながら、問い直しながら、生きていきたいと思った。
Posted by ブクログ
重いキーノートをバックに美しく複雑な音楽を聴いたような読後感。凄まじい知性と感受性。受けとる側(私)が未熟なため受け止めきれていない感があるが。
Posted by ブクログ
80歳を超えた思想家が、自らの人生を振り返るエッセイといっていいのだろうか。雑誌の短い連載をまとめたものということもあってか、少し断片的な感じがあり、同じ話が何度か出てくるものだから、思想家の人生を問わず語りに聞かされているような、恍惚の人、夢うつつな感覚もなくはない。それでもしっかりと芯を感じさせるのは、やはり著者の生きざまゆえだと思う。
Posted by ブクログ
不良少年として生きる……国家と個人との関係を思考し続けてきた鶴見俊輔氏の力強い回想録。
「くに」にしても「かぞく」にしても、それは現象として仮象的に存在するものにすぎず、モノとしての実体として存在するわけではない。しかし、誰もが一度は「くに」や「かぞく」を巡って「引き裂かれてしまう」のが世の常だろう。戦後思想史に独自の軌跡をしるす哲学者・鶴見俊輔さんは「不良少年」としてその歩みを始めた。名家・後藤新平の孫として生まれるが「不良少年」は日本を追われるように15歳で単身渡米、ハーバード大学へ進学して哲学を学ぶ。日米開戦とFBIによる逮捕、そして交換船での帰国と軍属の日々……。
本書を著した時点で氏は88歳、自身の経験した出来事や人々との交流、そして印象的な書物の思い出を率直に綴っている。
鋭利な知性と人間味溢れる感性が光る多彩な回想のなかでも、北米体験と戦争経験は、著者の思想的原点を鮮やかに示している。そしてみじんも変節がないことには驚くばかりだ。
戦前、友人と日米開戦はあり得るのかと議論になったという。そのとき氏は次のようにいう。「日本の国について、その困ったところをはっきり見る。そのことをはっきり書いてゆく。日本の国だからすべてよいという考え方をとらない。しかし、日本と日本人を自分の所属とすることを続ける」。国家と個人の関係を正視眼で思考し続けてきた氏ならではの重みある言葉だ。
しなやかな知性とは、神の眼をもつことではない。たえず揺れのなかで自己を鍛え上げていく事なのではないだろうか。そのために必要なのは「私は、自分の内部の不良少年に絶えず水をやって、枯死しないようにしている」ことだろう。
社会の不条理に苛立つことは避けられない。そんなとき本書をゆっくり読むことをお勧めする。読むごとに目を閉じ、その言葉を噛みしめることで、もう一度歩み出す勇気をもらうことができる。
Posted by ブクログ
言葉が、心にしみいる感覚がたまらない
一気に読んでしまいました。あふれでる言葉が少しの抵抗もなく、心にしみいる感覚が好きです。ほんとうに文章を読むことの心地よさを充分に味わいました。この一年間に何度も読み返しています。たしかになによりも名文ですね。知人、友人に幾度となく一読することを進めています。ひとつのエッセイに千文字ほどの文字からあふれる言葉から、文章に含まれた普通の人生哲学が、ふっと湧き上がるのを感じます。疲れた気持ちを解きほぐすエネルギーが、かすかに力強く満ちてくる息遣いを感じ取るのです。戦前戦後の日本と世界について、良きも悪いもすべてをはっきりと見据えた個人としての思考が著者の八十年におよぶ経験と行動において、静かなうちにも脈々とわきでる生命力にあふれんばかりです。淡々とつづられた言葉をまたあらためて読みなおしています。今日もまた、先輩の知人に一読するようにうっかりつぶやいてしまったしだいです。
Posted by ブクログ
著者、鶴見俊輔が80代で連載していたエッセイを纏めた本。著者は、ハーバード大の哲学科卒の哲学者であるが、文章は平易で読みやすい。
青年の頃にアメリカに留学(放逐された?)した経験もあり、日本への視点も鋭い。その主義・主張・軸は加藤周一に通じるものがある。
この主義・主張・軸は明治を知り、戦前、戦中、戦後を知る者の感性から生まれてくるものであり、現代社会の我々も心に留めておきたい。
(引用)
・ベネディクトが日本文化を「恥の文化」としておおざっぱに規定したのに対して、作田啓一は、日本文化の流れに恥とは別に「はじらい」の感覚があることを、太宰治の作品の分析をとおしてくり広げた。
・「〇〇は古い」は、明治以来百五十年で最も長持ちしている文化遺産かもしれない。・・・文明はエスカレーターに乗っているように二階三階と進んでゆく、というまぼろしが日本の近代史にはあり、それは敗戦をはさんで復活した。・・・・温故知新は、新知識の学習とともに、私たちの目標としてあらわれる時がくる。
・なぜ、日本では、「国家社会のため」と、一息に言う言い回しが普通になったのか。社会のためと国家のためとは同じであると、どうして言えるのか。国家をつくるのが社会であり、さらに国家の中にはいくつもの小社会があり、それら小社会が国家を支え、国家を批判し、国家を進めてゆくと考えないのか。
・心は自分以外のものを見ていないと、正気を失う。アウシュビッツの強制収容所に閉じ込められたフランクルは、おなじ仲間の老女がいきいきと毎日を過ごしているので、どうしてかとたずねた。すると、彼女は道に見える一本の樹を指して、「あの木が私だ」と言う。
・日本の大学は、日本の国家ができてから国家がつくったもので、国家が決めたことを正しく正当化する傾向を共有し、世界各国の大学もまたそのようにつくられていて、世界の知識人は日本と同じ性格をもつ、と信じている。しかし、そうではない。若い国家であるアメリカ合衆国においても、ハーバード大学は1636年創立、アメリカ合衆国の建国は1776年で、そのあいだのしばらくの年月は、米国の知識人の性格に影響を与えてきた。
・2百年前の渡辺崋山、高野長英、百五十年前の横井小楠、勝海舟、坂本龍馬、高杉晋作、百年前の児玉源太郎、高橋是清、さらに夏目漱石、森鴎外、幸田露伴たちは、大づかみにする力を、その後の人たちにくらべてもっていた。
・日本の国について、その困ったところははっきりと見る。そのことをはっきり書いてゆく。日本の国だからすべてよいという考え方をとらない。しかし、日本と日本人を自分の所属とすることを続ける。
以上
Posted by ブクログ
その時代(戦中)を生きたインテリの方の思い出で、
とってもリアルな感じでよかったです。
著者と年の近い実家の父(数年前に死去)に読ませてあげたら、
さぞ面白がったことでしょう。
Posted by ブクログ
心がささくれ立つようなことがあった日、鶴見さんの文章を読むと,なんとほっとすることか。
書き始めの一文で,そうなんだと思い、2行目で妙に納得する。
お肌には美容液だろうが,私の,乾いた心の何よりの美容エキス。
週末、ゆっくり味わいたいな♪
Posted by ブクログ
戦中からの戦後へと。著者の経験が語られ、出会い、影響を受けた本、体験。著者の記憶を追体験しながら、読み手も過去に出会い、鶴見俊介に影響を与えた構成要素に触れていく。
登場する本の一部を書き出してみる。
『余白の春』『何が私をこうさせたか』『詩人の愛』
『ゲド戦記』『釈迦』『反動の概念』
『おだんごぱん』『星の牧場』
『思い出の作家たち』、漫画の寄生獣なんかの話も出てきて、大正生まれの著者の読み物として、その柔軟さと共になんだか嬉しくなる。
言葉は読み、なぞり、発し、いつの間にか自分のものになる。染みつき、思考化し身体化される。そんな要素が伝わってくる。
例えば、金子ふみ子。
ー 今この時は永遠の中に保たれるという直観、キルケゴールの永遠の粒子としての時間という直観と響き合う。
内山節。鶴見俊介はこれに感動した。
ー 1950年代から狐にばかされる日本人はいなくなった。大陸から仏教が日本に伝わった時、年月をかけて本地垂迹説現れ、山や川、草木自然が村の信仰となり、狐はその一部であった。狐にばかされなくなったのは、それまでの信仰が消えたということ。
トクヴィル。
ー 自分の富の増大と地位の向上を目指すことが、人間の使命だというような精神が社会を覆っていた。
読み手には二次的な影響だが、しかし、大正時代から生きた人間の語りには少なからず真理が含まれ、それは古典のようでもあり、ありがたく読んだ。
Posted by ブクログ
感想
本を読むだけでは知識人は作られない。肌に触れ耳に入ったものから多くのものを吸収し血肉とできる人。一朝一夕でできると勘違いしてはいけない。
Posted by ブクログ
氏の思想の基層を成しているのは、5歳のときに号外で知った張作霖爆殺と米国による日本への2発の原爆投下という歴史であるように思えました。並外れた知性と感性から語られる言葉のひとつひとつに強い共感を覚えました。また、この書で触れられているピアズ・ポール・リード著『生存者-アンデス山中の七〇日』や水木しげる著『河童の三平』を読んでみたいと思います。
Posted by ブクログ
・驚くべき博識、柔らかい感受性、抑制の利いた名文。まさに範とすべき珠玉の文章群だ。しかし、そのような賛辞ですら本質的ではないと思えてしまうのは、氏が本物の思想家であるからだろう。
「この戦争で、日本が米国に負けることはわかっている。日本が正しいと思っているわけではない。しかし、負けるときには負ける側にいたいという気がした」(p34)
「日米交換船に乗るかときかれたとき、乗ると答えたのは、日本国家に対する忠誠心からではない。なにか底に、別のものがあった。国家に対する無条件の忠誠を誓わずに生きる自分を、国家の中に置く望み」(p225)
・その「気」や「なにか別のもの」について、氏は、「ぼんやりしているが、自分にとってしっかりした思想」(p34)という曖昧な表現を与えるのみで、明晰に語ろうとしない。おそらく、明晰に語ることによって、思想が思想でなくなることを深く自覚しているからであろう。氏ほどの文筆家が、「言葉にならない思い」を大切にしているという、この一事を以って、私は氏を本物の思想家と見なす。
・惜しむらくは、過去の著作との重複が多かったこと。
Posted by ブクログ
「自分にとってしっかりした思想」という話が印象に残った。
「この戦争で、日本が米国に負けることはわかっている。日本が正しいと思っているわけではない。しかし、負けるときには負ける側にいたいという気がした。」という一文。
Posted by ブクログ
岩波の「図書」で読んだはずだが,記憶のない話もかなりあった.でも,哲学者というのはものを考える基本が異なっている感じがする.
膝を打つ話が満載だ.
Posted by ブクログ
戦中、戦後を通して出会ってきた多くの人、本、出来事について語る。歯に布着せぬ物言いで読んでいて心地よく、簡素な文体であるにもかかわらず非常に滋味溢れている。気が利いたこと、本質を突くようなこと、その鋭さは、二人は全く違ったタイプの人間であるが小林秀雄先生を思い起こさせた。
吉本隆明の『追悼私記』「三島由紀夫」には、こうある。
「知行が一致するのは動物だけだ。人間も動物だが、知行の不可避的な矛盾から、はじめて人間意識は発生した。そこで人間は動物でありながら人間と呼ばれるものになった。
<知>は行動の一様式である。これは手や足を動かして行動するのと、まさしく同じ意味で行動であるということを徹底してかんがえるべきである。つまらぬ哲学はつまらぬ行動に帰結する。なにが陽明学だ。なにが理論と実践の弁証法的統一だ。(中略)こういう哲学にふりまわされたものが、権力を獲得したとき、なにをするかは、世界史的に証明済みである。こういう哲学の内部では、人間は自ら動物になるか、他者を動物に仕立てるために、強圧を加えるようになるか、のいづれかである。」
他方著者は今もって三島について感想をまとめられないという。三島の自死のしらせを聞いたときのうろたえがまだのこっているのだと。
追悼の言葉は日常の言葉とかわらない。まにあわないことがあるのだ。と
そして今日、アップルのCEOであるジョブズの死の知らせを聞いた。追悼の心はある。しかし感想はまとめられない。
言葉がいま感じているその心に足りないこともある。
Posted by ブクログ
[ 内容 ]
戦後思想史に独自の軌跡をしるす著者が、戦中・戦後をとおして出会った多くの人や本、自らの決断などを縦横に語る。
抜きん出た知性と独特の感性が光る多彩な回想のなかでも、その北米体験と戦争経験は、著者の原点を鮮やかに示している。
著者八十歳から七年にわたり綴った『図書』連載「一月一話」の集成に、書き下ろしの終章を付す。
[ 目次 ]
1 はりまぜ帖
2 ぼんやりした記憶
3 自分用の索引
4 使わなかった言葉
5 そのとき
6 戦中の日々
7 アメリカ 内と外から
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
Posted by ブクログ
名前も知っているし、原稿を読んだこともある。
けれども、自分にとっての読み時があると言うのか、
突然、その人の文章が身体に沁み込んでくる感覚がある。
鶴見俊輔『思い出袋』を読む。
岩波の雑誌「図書」に著者80歳の時から
7年かけた連載をまとめた新書である。
鶴見はハーヴァードの哲学科に学び、
戦時中はシンガポール、インドネシアで短波放送の解読や
幹部向けの新聞づくりなどの任務を果たした。
後に鶴見がベ平連の活動として
良心的兵役拒否の米兵を助けたことは
幼少から大学時代、そして戦時中の体験に連続した行動であった。
僕が鶴見に共感するのは、
国家から意識の距離を置き、国家の過ちも見逃さないことと
それでも国家に属することを受け入れる個人を貫く生き方だ。
本書はそうした鶴見の考え方、生き方が
平易な文章で書かれている。
難しいことを平易に書くのが真の知性である。
自分の中に生きる不良の自分に水を枯らさぬようにする
と断言する80代。
鶴見の全著作と時間をかけて対話したいと僕は思った。
昨日は若手同僚の結婚パーティに出席した後、
電車を乗り継ぎ、西太子堂の会員制角打ちKに寄り道した。
うまい酒と簡素なつまみで鶴見の著作と対話してみたかった。
Kの親父がで愛を込めて綴る
名酒「小左衛門超活性にごり」は季節ものだけに
店にあるうちに味わっておきたい。
親父や常連らしき客が「あわあわ」と呼ぶのがこの酒だ。
家族経営のこの店で「チーズ盛り合わせ」を注文すると、
忘れかけた頃合いにおばあちゃんが運んできてくれる。
わずか300円のつまみと侮るなかれ。
4種のチーズ(ブリー、ほうれん草、トマト、クリーム)
と軽く焼いたプレーン・ラスク3枚が小皿に並ぶ。
これが日本酒に実に合う。
親父の日頃の研究成果の一端を披露するつまみなのだ。
テーブル代わりの酒樽に酒とつまみを並べ、頁を繰る。
いい感じに酒が回り始めて、
鶴見の言葉がするりするりと身体に入ってくる。
にごりは気づくと腰を取られるから用心が要る。
が、この「あわあわ」、もう一合だけ飲んで帰りたい。
家までちゃんと帰れるかな?
(文中敬称略)
Posted by ブクログ
著者の本はお初。哲学者、思想家とのこと。
御齢80を超え、自身の戦中戦後の過去を通じて、知り得た知識や思索を重ねてきた思いなどを、自由闊達に語り尽くす。「一月一話」という連載ということは、月に1話、年間12話。それを7年間にわたり綴った、ある意味「知」の結晶だ。
2015年に亡くなられているので、最晩年の著者の、遺志に近いものだろう。
「少しずつもとの軍国に近づいている今、時代にあらがって、ゆっくり歩くこと、ゆっくり食べることが、現代批判を確実に準備する。」
「ところが歴史のない国、正確には先住民の歴史の抹殺の上につくられた開拓民の国アメリカでは、「金儲けの楽しさ」は妨げるものをもたずに展開していくことになる。」
2010年の著作、連載時期はさらにその前ではあるが、まさに現代に対する警鐘のような言葉が綴られていることに驚く。
〈もうろく貼〉という備忘を付けているという話も興味深い。からだの衰え、忘却のかなたへ消えゆく記憶と、いかに折り合いをつけて老いてゆくかの感慨も綴られる。
教育への不安と期待は、後世に送る切なる思いであろうとも思う。
「大学とは、私の定義によれば、個人を時代のレヴェルになめす働きを担う機関である。」
と、横並びの、金太郎飴しか作らない日本の教育への懸念はそうとうなもの。
「もし大学まで進むとして、十八年、自分で問題をつくることなく過ぎると、問題とは与えられるもの、その答えは先生が知っているもの、という習慣が日本の知識人の性格となる。今は先生は米国。」
青年期に米国留学もした著者ではあるが、今のアメリカの存在にも、要注意と語りかける。
Posted by ブクログ
とても、おじいちゃまが書いたとは思えない、するする読める文体でした。
失われた時を求めて。百年の孤独(さらば孤独)など、さらに気になってしまいました。