あらすじ
20世紀初頭まで、政治や知的活動への参加は一部の特権階級に限られていたが、後の社会変化で門戸は大きく開かれた。それは人びとのリテラシーを高め、新たな啓蒙の時代を招来するはずだった。ところが今、これほど多くの人が、これほど大量の知識へのアクセスをもちながら、あまり学ぼうとせず、各分野で専門家が蓄積してきた専門知を尊重しない時代を迎えている。ゆがんだ平等意識。民主主義のはき違え。自分の願望や信念に沿う情報だけを集める「確証バイアス」。都合の悪い事実をフェイクと呼び、ネット検索に基づく主張と専門家の見識を同じ土俵に乗せる。何もかも意見の違いですますことはできない、正しいこともあれば間違ったこともあるという反論には、「非民主的なエリート主義」の烙印を押す。これでは、正しい情報に基づいた議論で合意を形成することは難しく、民主主義による政治も機能しない。原因はインターネット、エンターテイメントと化したニュース報道、お客さま本位の大学教育。無知を恥じない態度は、トランプ大統領やブレグジットに見るように、事実ではなく「感情」に訴えるポピュリズム政治の培養土となっている。または逆に、知識をもつ専門家による支配、テクノクラシーを招く恐れもある。本書が考察しているアメリカの状況は対岸の火事ではない。専門知を上手く活かして、よりよい市民社会をつくるための一冊。
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Posted by ブクログ
専門知の軽視と陰謀論の跋扈は、特にコロナ禍を機に一気に広がった認識がなんとなくあった。それらに関する書籍もいくつか読んだが、2017年のコロナ禍前にしっかり書籍化され問題提起されていることに驚きつつ、問題の根は既にしっかりあったのだと思った。
皮肉っぽい語り口調は読んでいて飽きない、面白い
Posted by ブクログ
私が子供の時にはすでに「大学のレジャーランド化」が言われていたが、アメリカもそれほど変わらないようだ。平成に入ってからの日本の停滞は、大学が人材育成機関として機能しなかったことの証左であると思われるが、アメリカもそうなるのだろうか。
Posted by ブクログ
もちろん、専門知は必要だという立場の本である。
アメリカの本だが、日本もそう変わらない。最近、当該分野では自明とされていることや少し考えれば分かりそうなことを指摘すると、クライアントが感情的になって拒絶反応を起こすことがあった。それも一回や二回ではない。
インターネットの影響で色々な情報にアクセスできるからだと思っていたが、もっと根深い問題のようだ。
「確証バイアス」、自分にとって都合の良い情報を集め、意に沿わない情報を取り入れないという心的傾向があることは聞いたことがあった。この傾向をもとに、大学、インターネット、メディアがそれぞれ一般人の反知性主義、ナルシズム、冷笑主義を助長した。
政治的には一人一票で平等であっても、一般人の意見とその分野の専門家の意見が平等であるわけがない。
当たり前といえば当たり前の指摘だが、もはや「非民主的なエリート主義」の意見だとして、そう理解してもらえない現状がある。
専門家の軽視は結局は一般人にも不利益になる。
一読の価値はあると思う。読みやすいし。
Posted by ブクログ
本書を読むような人は本書の言っている事にとても共感できるのだろうけれど、
本書を読まないような人に本書の内容を受け入れてもらう方法を考えると途方に暮れてしまう。
本書はアメリカの話だが、日本にもほとんどそのまま適用できるだろう。
Posted by ブクログ
アメリカにおける専門知の現状について。現代のアメリカ人の知的水準の低下の問題について考察する。
昔は、高度な知識を持ち訓練を受けた専門家が、知りたい人々の要請を受けてサポートしていた。そこには知識、経験の有無に明確な一線があって、専門家の役割が明確だった。しかし、様々な情報メディアの発達により、全くの素人でも専門的な知識が入手できるようになった。それは良いのだが、メディアから誤った知識を修得したり、自称専門家が増えて、本職の専門家の人達を攻撃するようになった。非常に質が悪い傾向になってきている。(日本も同じ傾向だが)専門家の役割が小さく,或いは軽視されるようになってきた。果たして専門家は不要なのか。
読んでみて、著者はこの傾向に問題提起しているが、でもおそらくこの流れは継続すると思う。学問の世界もビジネスライクな風潮が強くなっている。専門家を育成するというよりも、学費を払えば学位が撮れ専門家を名乗ることができる。自分の周りにも自称・専門家やプロという人達がいる。ネット上の論文を読んで結果を鵜吞みにし、根拠を問うと最新研究だからと知識の正当性を主張する。論文を読むことが専門家の証というが、系統立てた知識や実践経験が無いため、雑学的で信頼性が低い。プロ或いは専門家とそうでない人の差は、知識の有無だけではなく実践経験の有無だと思う。専門家を称するなら、然るべき経験が必要だろう。
Posted by ブクログ
Chat GPTが使いこなされるようになると、恐らく専門知に対する社会の中での扱いは、更に変わってくる。ハルシネーションを見抜けず、しかし、自分も議論に参加できる資格を得たようなつもりになり、やることなす事批評したがる層が増えるだろう。中野信子の講演で、こうした自粛警察的な人間の行動は脳科学的に解明されているものとの話があった。コロナ禍以前にも直面していたが、更に傾向が強まっている。
民主主義社会は、あれこれ意見の出る公共空間があり、常に既成の知識に挑戦しようとする特徴がある。熟議の責任を負うのは、その結論を導いたマスである。孤独な正解者を社会的にリンチした後、それを知らずに呑気に破滅していく世界も、実は我々と隣り合わせだ。それだけ、民主主義や数の暴力は危うい。新聞の購読率は高齢者の消費傾向に救われ急激な低下はしていないが、新書のベストセラーは日本人口の1%、読解し、思考する層はその程度で、多くは与党と野党のマニフェストの違いや税金の用途さえ知らず、必死に働き、のんびりエンタメコンテンツを浴びる日々を送る。
専門知は必要だが、それが開放され、ネット経由で気軽に取得でき、大衆が大好きなお喋りやリンチへの参加券を手にし易くなった事には相応の危険がある。そもそも専門知とは定義を絞り込む過程で専門用語への置換を何層にも重ねる事で、原理、法理のフォーミュラを美しくした結果、醸成されるという性質を持つ。限定合理的な参加券の発行枚数が増え、数の暴力で査読を経た論説を覆しながら、反知性が市民権を得ていく事は恐怖だ。
Posted by ブクログ
表紙は最高。考えないことをめちゃくちゃ馬鹿にしてる。
専門家の立場で書かれた本なのに、感情や推論で書かれていた大半にはなんとも。もともとブログだったものに加筆したらしく、勢いは伝わってきた。それだけ怒ってるってことみたい。
専門家の定義で強く賛同できたところとして、「自分の専門における最悪のミスとその避け方を知っている」「非常に狭い分野でありとあらゆるミスを経験した」人間。ものごとを多少知ってる人間を専門家と見なすことのおかしさは、考えるべき。
考えることをやめると、飛びつくのは陰謀論。物事のつながりが理解しやすいし、秘密を分かった気にもなれるし、何より面白い。けど大切なのは、社会ってそんな単純な構造はしていないってこと。