あらすじ
20世紀最大の哲学者マルティン・ハイデガーが第二次大戦後に行った「技術」をめぐる三つの講演。瓶(かめ)や橋、家屋といった身近な物から出発し、それらの物がどのようなあり方をしているのかを考え、ついには「世界」に到達する講演「物」と「建てること、住むこと、考えること」、そしてモノとヒトを資源として用いながら膨張を続ける現代技術のシステムを問う「技術とは何だろうか」。第一級の研究者による決定版新訳!
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Posted by ブクログ
哲学の門外漢ですが、ハイデガーの技術論を勉強したいと思い本書を手に取りました。薄い本ですが読み進めるのにだいぶ時間がかかります。しかも1回読んだくらいでは、彼の主張が半分くらいしか理解できていない気もしました。本書では「物」「建てること、住むこと、考えること」「技術とは何だろうか」の3篇が収録されています。(間違っているかもしれませんが)ハイデガーがいわんとしているのは、技術とは(ものであれ人であれ)その本質を現前させることである、ということでしょうか。これを読んで、禅で有名な鈴木大拙がどこかの本で述べていた「自然(じねん)」という概念をふと思い出しました。つまり鈴木大拙風に言えば、存在を自然(じねん)たらしめる行為こそが技術なのでしょうか。
さらに技術には、本書でも指摘されているように創造性も関係します。クリエイティビティの研究者であるチクセントミハイは、自分が好きなことをしているときは、時間に束縛されず、いわゆる「フロー状態」になると指摘しています。もくもくと仏像を彫る彫師、一心不乱に何かを書く小説家などは、ある意味クリエイティブな「物」を作っていますが、まさにその彫る所業や書く所業そのものが、自身のありのままの姿を現前させるという意味で、ハイデガーのいう「技術」なのではないでしょうか。
他方ハイデガーは、近代資本主義によって、これまで論じてきた「技術」とは異なる、単なる道具的な意味の「技術」が一般的になってしまったと論じます。彼は近代資本主義を「総駆り立て体制」(これは名訳だと思います)と呼び、もはや人間が自分の本質に出会う場所などない、と断言します。つまり自分の本質を顕現させるような行為とは全く関係のない労働を多くの人が強いられているということです。その意味では、技術の本来的な意味を取り戻すべき時が来ている、すなわち人々の「ウェルビーイング」あるいはeudaimoniaを実現するものこそが「技術」ということではないでしょうか。
Posted by ブクログ
感想を一言。「難しい」
150pていどであっさりと読めると思ったが、想像していたよりもずっと難しかった。ハイデガーの著作はこれまでいくつか読んできたが、その経験を踏まえずに軽はずみで読んでしまったのは少し後悔している。
「物」「建てること、住むこと、考えること」「技術とは何だろうか」の3つの講演で構成されており、どれも後期ハイデガーを理解するには欠かせない内容となっている。
講演のうち最初のふたつは有名な「四方界」という概念について言及されている。「物」講演のはじめにハイデガーは、現代社会でラジオやテレビの発達など、次々と時間的空間的「距離」が「除去」されていることについて語る。そしてこのような事態は、「近さ」が生じているわけではないのかもしれない。ハイデガーは、通信技術はむしろ「近さ」を生じさせるのではなく、「隔たり」を取り去っていることに注目する。では、「近さ」とは何だろうか。ここでハイデガーは、ふだんわれわれの近くにあるはずの「物」について語りはじめる。
「物」とは何か。それは計測で大きさを測ったり、何がしかの原子によって構成されているものと見ることが可能かもしれない。しかしそれでは、むしろ「物」本来にある本質を見過ごし、「物」を虚無化させてしまうのではないか。
ここで「四方界」という言葉が持ち出される。ハイデガーは古代の言語を引用しながら、またわれわれがふだん扱う「物」を綿密に分析しながら、この概念は「大地」「天空」「死すべき者たち」「神的な者たち」がお互い組み合わさることによって単一化される。例として持ち出される瓶という「物」は、注げられて捧げられるはたらきをするものとして、考えることができる。注がれるのは水であり、水は「天空」から降り、その雨を貯める「大地」の岩盤から汲み出される。そしてそれを瓶に注ぐのは「死すべき」人間。そして「神的な者たち」に捧げられるというのだ。
そしてその4つが単一化したとき、世界がその本質を発揮する。「物」は、こうして四方界を宿らせるとハイデガーさ語っていく。我々が「物」の本質をこうして労ってこそ、「近さ」が生じてくるのだと。
同様の説明は、以降の「建てること、住むこと、考えること」にも登場する。しかし、正直を言えば、まったく理解ができない。こう書いているときでさえ、ハイデガーの伝えたいことと合っているか不安になる程だ。後期ハイデガーは秘教的と言われるが、こう言われるのも仕方がないだろう。しかしその分析の手順、方法には学ぶところが大きいと思える。
最後は「技術とは何だろうか」という講演だが、ここでは「総かりたて体制」という、またもやハイデガーを理解するのに不可欠な言葉が登場する。
かいつまんで言えば、現代技術(発電所など)は地上からエネルギーを「挑発」し続けていくことで維持されている。つまり、大地から地層を暴き、地層から石炭を暴き、石炭から熱エネルギーを暴き、火力発電にしていくように。ここでは人間が技術のヘゲモニーを振るうことはない。むしろ人間もまたこの体制に組み込まれ、「人材」として搾取・挑発されていく。ここでは存在の真理は忘却されてしまう。
ハイデガーはここで芸術を持ち出し、この体制からの救出を考える。現代技術が猛威を振るう時代で、真理を開示させる芸術にハイデガーはひとつの可能性を見出そうとする。
本書ではこの講演が最も理解しやすいと思える。抽象的ではあるが、四方界よりかは首肯できるはずだ。しかしそれは前2講演がだめだ、と言いたいわけではない。ハイデガーが「物」講演で言ったことをここで引用しよう。
「原子爆弾の爆発とは、物が虚無化されるという事態がとっくの昔から生起してしまっていることを確証するあらゆる粗暴な証拠のうちの、最も粗暴な証拠でしかありません。」
理論物理学者のハイゼンベルクと会談したとき、ハイデガーは物理学について完璧に理解していて、同席した専門家を驚かせたという。
「技術とは何だろうか」で、彼が総かりたて体制について語ったときも、念頭には常に現代技術による真理の忘却があった。最初の2公演では、こうした事態を物の虚無化とし、そこからの救い出しが目され、結果として四方界が扱われている。たしかにこの言葉はひどく神秘的で理解はほとんど追いつかない。しかし彼は、あらゆるものが物理学や技術によって虚無化・挑発された現代で、ふたたび物や世界との関係を問い但し調停させようとしたのだろう。
「四方界」は、もっと詳しく見れば古代の人間社会を思いださざるを得ない。ハイデガーは別にそうであるべきと言うつもりはないと言明しているが、読者としてはついそう考えてしまう。「建てること、〜」の講演で、ハイデガーは建てることの本質を語るとき、田舎風の家屋を例に出す。長くてここでは引用できないが、そのとき読者が思い浮かべるのは、ハイデガーが育ったと言われる故郷のメスキルヒの村の風景だ。現代技術の理論が吹き荒れ、原爆投下や原発事故による災厄を目の当たりにした日本で、改めて技術と人間の関係を考えるとき、実はハイデガーの見出したこうした風景や、神秘的な言葉の裏に、問題の答えが隠れているのかもしれない。
Posted by ブクログ
15
瓶の姿かたちを呈している容器が何であるか、かくかくの瓶状の物としての瓶が何であり、またいかにあるか、といったことは、姿かたち、つまりイデアという観点を持ち出したところで、決して経験できませんし、ましてや、事柄にそくして思索するなど無理な話です。現前的にあり続けるものの現前性を、姿かたちのほうから表象して立てたプラトンは、それゆえ、物の本質を思索しなかったのです。
★本質、構成物でなく、姿形が先にあり、そこに現実を収めようとする。
16
注がれるものは、空の瓶のなかへ流れ込んでこれを満たします。この空洞が、納めるはたらきをする容器の部分なのです。空洞、つまり瓶のこの無の部分こそ、納めるはたらきをする容器としての瓶の本体にほかなりません。
★瓶は注がれる液体があって初めて瓶となる。家も椅子も傘も着るものも。物は物としてそれ自体で自立するのか?物の誕生と同時に必ず対象物がある?人間の身体だって酸素と二酸化炭素が通る空洞でエネルギーの生産工場、魂の容れ物。ちくわみたい。
26
死すべき者たちとは、人間のことです。人間が死すべき者たちと呼ばれるのは、人間は死ぬことができるからです。死ぬとは、死を死として能くすることです。死ぬのは人間だけです。動物は生を終えるのみです。動物は、死を死としてみずからの前にも後にも持つということがありません。死は、無の聖櫃です。というのも、いかなる観点においても決してたんなる存在者ではないもの、しかしそうはいっても本質を発揮しているもの、それどころか存在それ自身の秘密として本質を発揮しているもの、それが無だからです。死は、無の聖櫃として、存在が本質を発揮しているところを内蔵しています。死は、無の聖櫃として、存在を守蔵する山脈なのです。
★死は無の聖櫃。
69
現代技術において支配をふるって顕現させることは、一種の挑発することです。つまり、自然をそそのかして、エネルギーを供給せよという要求を押し立て、そのエネルギーをエネルギーとしてむしり取って、貯蔵できるようにすることです。しかし、このことなら、昔ながらの風車も当てはまるのはでないか。いや、そうではありません。風車のつばさは、たしかに風で回りますし、風が吹くままにじかに任せられています。しかし風車は、気流のもつエネルギーを開発して、そのエネルギーを貯蔵する、などということはしません。
これと違って、ある地域が開発されて、石炭や鉱物が採掘されるようになります。今や、地表が顕現させられて炭鉱地区となり、土地は鉱床地帯となります。畑の様子も一変します。かつて農夫が畑を耕していたときの、その耕すことはまだ、世話する、面倒をみる、という意味でした。農夫のこの営為は、耕地をべつに挑発しません。穀物の種を播いては、種子の生育力にゆだね、その生長を見守るのです。しかしいつしか、土地耕作も、自然をかり立てる別の種類のベシュテレン、つまり徴用して立てることに吸い込まれてしまいました。こちらのベシュテレンは、挑発するという意味で自然をかり立てるのです。農業は今や、機械化された食糧産業なのです。大気は窒素の放出に向けてかり立てられ、土地は鉱物に向けて、鉱物はたとえばウランに向けて、ウランは原子力に向けてかり立てられます。その原子力は、破壊または平和利用のために放出されうるのです。
自然エネルギーを挑発するこのかり立てることは、二重の意味において促進することです。それが促進するのは、開発し、挑発することによってです。しかしながら、この促進はあくまで、別のものを促進することに向けて、すなわち、最小の費用で最大限の効用が得られるように前へ押し進めてゆくことに向けて、あらかじめ派遣して立てられています。炭鉱地区で採掘の形で促進された石炭は、たんにそもそもどこかに客体的に存在するために、かり立てられるのではありません。石炭が層をなして存在しているとは、石炭の中に貯蔵された太陽の暖かさを徴用すべく位置についている、ということなのです。太陽の暖かさは熱に向けて挑発され、熱は蒸気を供給することへ徴用され、蒸気圧が伝動装置を駆動させ、それによって工場が操業を続けることができるのです。
72
山林で伐採された木材の測量に従事する森番は、見かけ上は、彼の祖父の頃と同じようにして同じ森の小道を通っていますが、今日では、本人が自覚しているか否かにかかわらず、木材活用産業によって徴用して立てられているのです。森番は、セルロースの徴用可能性へと徴用して立てられており、セルロースはセルロースで、紙の需要によって挑発され、その紙自体は、新聞やグラビア雑誌用に配送して立てられるのです。では新聞雑誌はといえば、世論をかり立てては印刷物をむさぼり読むようにさせ、徴用された世論がお膳立てされるのに向くように徴用可能となるのです。
★社会はやっぱり生き物だ。人間を動力にしてうねうね変化している。人間は、言論や世論という情報によって行動させられ、社会を進化させるための資源なんだ。鉱物なんかと同じ資源だ。自由は可能性の海の中にある。社会には大いなる意志があるけど、それをつくってるのは自分たちで、無間地獄みたいだ。
75
現代技術の本質は、長い間隠されてきたのであり、それは、すでに動力機械が発明され、電子技術が軌道に乗り、原子技術が進展している場合でも、相変わらずそうなのです。
現代技術の本質だけではありません。本質を発揮しているものはすべて、至るところでとっくの昔から隠されたままになっています。にもかかわらずそれは、支配のはたらきに照らしてみれば、あらゆるものに先行する当のもの、つまり最も先なるものであることをやめていません。ギリシアの思想家が次のように述べたとき、彼らにはそのことがもう分かっていました。すなわち、支配をふるっておのずと現われ出ることに関して、より先なるものは、私たち人間にとって、後になってようやく公然とあらわになるのだ、と。原初をなす先なるものは、人間には、最後になってはじめて正体を現わすのです。それゆえ、思索の領域においては、原初的に思索された事柄をなおいっそう原初的に思索し抜こうとする努力は、過ぎ去ったものを新しいものにしようとする馬鹿げた意志などではなく、来たるべき先なるものを目の当たりにして驚嘆する用意のできた沈着冷静な構えなのです。
★現代物理学が量子力学であるように。量子は原初からあったが、今になって顕現した。
78
自由は、明け開かれたもの、すなわち顕現させられたものという意味での自由な広野を、つかさどります。顕現させるという出来事、すなわち真理という出来事は、自由が最も近くて最も親密な親近性を保っている当のものです。およそ顕現させることはすべて、匿って隠すことに属しています。ところで、隠されているもの、つねにおのずと隠れるものは、自由に解き放つもの、つまり秘密なのです。およそ顕現させることはすべて、自由な広野からやって来て、自由な広野へ出て行き、自由な広野へもたらします。自由な広野の自由たるゆえんは、恣意的自由の拘束のなさにも、たんなる法則による拘束にもありません。自由とは、明け開きつつ隠すもののことであり、その明け開きのうちをたなびく、かのヴェールは、どんな真理の本質を発揮しているところをも覆い隠し、当のヴェールを、覆い隠すものとして現われさせます。自由とは、顕現させることをそれぞれの道へ赴かせる運命の巧みな遣わしが形づくる領域なのです。
★見えないものは見ようとしていないだけ。最初からそこにあった。ヴェールは認識?
81
人間が今日、自分自身に、すなわち自分の本質に出会う場所など、じつは、もはやどこにもないのです。人間は、もうすっかり総かり立て体制の言いなりになっているので、このことを何らかの要求として認知してはいませんし、自分自身が要求されている者だということを見逃しています。
★情報に徴用されている。
徴用することが支配するところでは、顕現させる他の可能性は一掃されてしまいます。とりわけ、総かり立て体制によって隠されてしまうのは、ポイエーシスという意味での、現前的にあり続けるものをこちらへと前にもたらして現われさせる、かの顕現させるはたらきです。
★ただそこにあるだけで善いもの。社会に有用性のないもの。芸術、猫、哲学。社会の役に立たないものこそ、世界の本質なのでは。