あらすじ
「いのちがけ」の事態を想定し、高度な殺傷術として洗練されてきた日本の武道。幕末以来、武道はさまざまな歴史的淘汰にさらされ、それに耐え、そのつど「変身」を遂げつつ生き延びてきた。本来の意味は失われても、「心身の感知能力を高め、潜在可能性を開花させるための技法の体系」である武道には、今こそ見るべき叡智が満ちている。達見の武道論。
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Posted by ブクログ
武道とは何か。生きる知恵を教えてくれる本。
ブログの纏め直しなので殆ど既読の気もするが、この本のテーマ別の編み直しはすっと頭に入ってくるのでよかった。
武道家は入れ歯が一発で合うと言う。それは、「ありもので間に合わせる」から。これは、結婚にも通じる。配偶者は、入れ歯と同じ。自分にとっての異物であい「本来合わない」ものである。だから「合う配偶者を求める」のではなく、「配偶者に合わせる」リソースを優先的に備給できるのが武人。
Posted by ブクログ
まず驚いたのは、著者の内田樹氏は合気道6段だということ。
ずっと社会学系の教授だと思っていたのでかなりびっくりしました。
著者の考える武道の目的は、「生き延びること」だといいます。
それは単に戦場でだけという話ではなく、生活全般の話としてとらえられております。
例えば、江戸時代の武士は、余計なリスクを負わないために用事のないところへは出かけなかったそうです。
また、歴戦の戦士であった東郷平八郎は、「わずかな兆候から次に起こりそうなことを予見する能力」に秀でていたそうで、目の前の道に荷馬がいるのを見て道の反対側によけて通ったといいます。
それを見とがめた同僚が、「武人が馬を恐れて道を避けるとは何事か」というと、東郷は、
「万が一馬が暴れてけがをして、本業に障りがあれば、それこそ武人として目も当てられない」
といったそうです。
このように本書では、著者の武道に対する考えや、他の専門家との対談での気づき、その他社会学的な考察など、いろいろな話が1コラム3-4ページ程度でまとめられています。
著者の「避けられる争いは避ける」というスタンスはしなやかで興味深いと感じました。
本書の中では、白黒つけなくてもよいものを無理に決めつけることの危険性について何度か言及されているように思えました。
例えば、死んでいるけどまだ死に切っていない生死における第3の状態としての葬儀の重要性であったり、グローバル化した世界においてもう未知の領域は存在しないとする考え方に対する警鐘だったり、相手に妥協しないアメリカの外交戦略であったり・・。
あんまり正論が過ぎると生き延びる確率が下がるから気を付けようというのが著者のメッセージだと自分は感じました。
Posted by ブクログ
その中から気になった箇所を無作為に…
★武道は伝統文化であるという人は、明治以降私達が本来の武道というものをどのように破壊してきたのかの歴程を確認するという恥辱的な作業からまず始めなければならないだろう。
★日本の武道史上最大の失敗は、生き残るための政治的工作をしたことではなく、政治的工作をしたことを隠蔽したことである。
★本来、先人達が発明工夫した身体技法というのは、「他者との共生」を「生き延びるための必至の技術」として骨肉化することで向上するように構造化されている。
ゲーム性の強いスポーツの場合はそれが前景化しにくいだけだ。
★あらゆる人間的営為を悉く数値化・定量化し、それを格付けするという操作に日本人がこれだけ熱中したことはかつてあっただろうか…?
★身体能力にもたらされる変化は本質的には計量不能である。
世界の深みや厚みを計量出来ないのと同じように…
それを、デジタル化した数値の変化でしか確認出来ない今の現状は極めて危険な兆候と言わざるを得ない。
★「うつろなひと」は
人間的営為の全ては計量可能であると信じる計量主義者であり
リソースは厳密に個人の能力に応じて分配されるべきと考える能力主義者であり
自分に本来帰属する筈のリソースは「無能な他者によって不当に簒奪されている」と考える奪還論者である。
そのような人々で日本は今埋め尽くされつつある。
★「空腹」と「大食い」の違い
空腹は身体が何を求めているかかを示す大事な感覚であるが、それ自体は余り大事に思われない。
だから「空腹選手権」は存在しないが(断食大会はあるかもしれないが、それは空腹の度合いを競うのではない)、大食い選手権は存在する。
何故なら大食いは数値化出来るからである。
★武道的思考が興味を示すのは、身体の求めているものを知ることである。
そしてそれらが総じて、どのように生きたいか、そしてどのように逝きたいかなど生きることに関わる様々な訴えを高い感度で察知しようとするのである。
★基本的にTVは数値化出来るモノをテーマにしたがり、二元的に語ることを得意とする。
何故なら、「身体の震え」のようなものを誰にでも判りやすく報道することはかなり難しいからだ。
��Vが面白くないのはそのためである。
★ほんとうの身体機能というのは「ある時間上の点」から「次の時間上の点」まで移動する時に、どれだけ「細かく」その時間をコマ割り出来るかにかかっている。
★存在しないものとのコミュニケーション
中国で君子の学ぶべき学問として「礼・楽・射・御・書・数」の六芸が挙げられる
礼:葬儀の作法
楽:音楽の鑑賞と演奏
射:弓
御:馬術
書数:読み書き、算術
書・数以外は時間の中での考察であるが、今の学校では教えられていない。
(※一応音楽は科目にあるものの、現在の音楽教育は時間を軸として考察されてはいないし、弓道は選択科目)
つまり今の私達は「超越的なもの」とかかわる術も、時間の流れを行き来する術も、自分自身の身体と対話し異類の人々と交流する術も、どれも体系的に習得する機会に恵まれていない。
特に「礼」が人間が他の霊長類と区別出来る重要な要件であることが現在全く重要視されていないのが危険な状況である。
★武道的な動きには「自由に動けるが、同時にある種の秩序内にあることが最適な精度を維持するための条件である。
★「マイクロ・スリップ理論」の基本は、「運動の精度を上げるために出来るだけ決定を先送りすること」
ex:イチローの打撃スタイル
★合気道は「身体女情報の送受信速度を最大化すること」を目的としているので、稽古漬けになるとテレビのようなノイズの多いモノは「痛い」と感じるようになる。
★自分をスキャンする能力
cf:ミラーニューロン
★押し付けられた定型から逃れることは容易でるが、自分で選んだ定型から逃れることは難しい。
自由に振舞っているつもりの若者が、僕らから見れば定型から全然逃れきっていないように見えるのはそのためである。
★哲学者の哲学者性とは、畢竟するところ、自己の脳内に於ける無数の考想の消滅と生成を精密にモニターする能力に帰す。
同じルーティンの繰り返しは、そういう意味でも意義がある。
★「武道的」というのは、ぎりぎりまで削ぎ落とされた合理性のことである。
使えるものは何でも使う。無用なことはしない。生き延びるチャンスを高める選択肢は躊躇わずに掴む。心身のパフォーマンスを下げることはしない。
しかし、このような合理性は今では全く顧みられていない。
殆どの人は、身を削って権力にしがみ付き、金を稼ぎ、情報に翻弄され、無用な努力でストレスを貯め、結果何に対しても不機嫌になっている。
…
今の世の中には余りにもノイズが多い。
そうでなくても五官を研ぎ澄ますことは稀なのに、携帯や音楽プレーヤー、ゲーム機などで更に自身の感覚器官を塞いでしまっている。
そういう世の中だからこそ、武道的思考は「武道」のみならず日々の暮らしでも重要な思考なのだと僕は思う。