あらすじ
穂村弘推薦! 1980年代に彗星の如く現れ、突如姿を消した天才ゴス歌人。
その謎に満ちた生涯を、彼の作品と関係者の証言で追う、異色の伝記小説。
1990年に亡くなった紫宮透(しぐう・とおる)という歌人がいて、友人だったんだけど----。
歌人が遺した31首の短歌から紐解かれていく彼の生涯。
虚構と現実が入り乱れた作品世界で、「私」が見つけた真実とは。
1980年代の日本を舞台に繰り広げられる、当時の若者文化と短歌が混ざり合った「ザ・文化系」の青春グラフティ。
『ゴシックハート』『不機嫌な姫とブルックナー団』の著者、待望の書き下ろし長編小説!
●穂村弘・推薦文
極度に文系な魂のための青春のバイブル、ただし80年代限定版。
著者プロフィール
高原 英理(たかはら えいり)
1959年、三重県生まれ。小説家、文芸評論家。立教大学文学部卒業。東京工業大学大学院博士課程修了(価値システム専攻)。1985年、小説「少女のための鏖殺作法」で幻想文学新人賞受賞(選考委員は澁澤龍彦・中井英夫)。1996年、三島由紀夫と江戸川乱歩を論じた評論「語りの事故現場」で群像新人賞評論部門優秀作を受賞。著書に『怪談生活』『ゴシックハート』(立東舎)、『不機嫌な姫とブルックナー団』(講談社)、『うさと私』(書肆侃侃房)、『ゴシックスピリット』(朝日新聞社)、『抒情的恐怖群』(毎日新聞社)、編著に『リテラリーゴシック・イン・ジャパン----文学的ゴシック作品選』(ちくま文庫) など。
感情タグBEST3
Posted by ブクログ
満ちきたる波の大きを見上げたり見上ぐるままに溺れてゐたり (紫宮透)
本作はあくまでフィクショナルな人物として1980年代を活躍した「天才ゴス歌人」こと紫宮透の、短く、そしてはるかな生涯を追っていく作品です。メタ的な読み方は慎むべきですが、それでも、本文中の紫宮の短歌からそれに関する批評から註釈までが、著者である高原さんから産み出されたのだと考えると圧巻ですよね。実在の人物や歴史的背景に造詣があるからこそ、本作のような「極度に文系な魂」のこもった素晴らしい作品が出来上がったのだと思います。
ここからは作品自体の感想ですが、本作、何よりも紫宮透という人物の魅力が間然とすることなく際立っています。 紫宮透の歌人としての出発点が塚本邦雄というところが、まさしくゴス的かつ高原さんの他著(特に『ゴシックスピリット』)にあるようなイメージを体現させるようであり、高原さんの著作の耽読者である私からみて、とても魅力的なキャラクターでした。本作では彼の歌を初期のものから順番に繙いていくわけですが、晩年に向かうにつれ、初期にあった物々しさやおどろおどろしい作風がガラリと変化したり、解脱を思わせる感性の作品が増えていくところなどは、なるほど「その手」の作家たちの生涯と似通っている部分もあって頷ける部分もあり…とにかく80年代のゴス作家の雰囲気が余すところなく伝わってくるのです…。
彼岸と此岸を彷徨い、あっけなくその存在を晦ませてしまった紫宮透の生涯は、短くもやはりはるかな、永遠のものとなりました。それはまるで、満ちてきた大波のような、力強く刹那的な生命の奔流…。本作と彼の歌とを通して、私もまたひとつの永遠に溺れることができたように思います。
Posted by ブクログ
ゴス歌人・紫宮透という架空のニューウェーブ・アイコンを中心として紡がれる80年代サブカル曼荼羅。
別に「エモコア水墨画」とか「グラムメタル演歌」とかでも良かったのかもしれないが、別の時代では咲きえなかった徒花として「ゴス」の刹那性に説得力がある。
人生の終え方が「らしいなぁ」と思わせる。
Posted by ブクログ
穂村弘が帯にいわく「極度に文系な魂のための青春のバイブル、ただし80年代限定版。」
豊崎由美が書評にいわく「1960年代生まれのサブカルクソ野郎が泣いて喜ぶ仕掛けがたっぷり」
作者1959年生まれ、ほむほむ1962年生まれ、トヨザキ社長1961年生まれ。
自分の母親の世代なのだなー。
作りとしては、
・ある作家、による、プロローグ(とエピローグ)。
という枠物語の間に、
・評伝作家、による、代表的な和歌の紹介と、脱線多めの記述。
・各回、評伝作家が行ったインタビューや、歌人自身の文章を引用。
という各章が挟まれる、という構成。
下段の注釈の情報も豊富。(という点では、田中康夫「なんとなく、クリスタル」っぽくもある)
だんだんと歌人の年齢が上がっていくが、伝記小説と単純には言い難い。
ボツッと出てきてブツッと途切れた伝説的歌人、というには、先行研究多すぎじゃねという疑問が浮かんでしまう。
また謎としての歌人を浮かび上がらせるには、カバーイラストはむしろ邪魔なのではないかと思う。
とはいえ深甚なる謎を提示するというよりは、ポップで軽薄な時代と、そんな中でゴシックを体現しようとした人物とを、折衷的に描いている、ということなのだろう。
各章が断片的すぎて深みがない、と思ったが、その浅さこそに意味がある作品なんだろう。
……と、いまひとつ乗り切れなかったが、それは自分の現状に拠るから、とは判る。
著者の近刊「詩歌探偵フラヌール」にも手を伸ばしたい。