あらすじ
平凡無垢な青年ハンス・カストルプははからずもスイス高原のサナトリウムで療養生活を送ることとなった。日常世界から隔離され、病気と死が支配するこの「魔の山」で、カストルプはそれぞれの時代精神や思想を体現する特異な人物たちに出会い、精神的成長を遂げてゆく。『ファウスト』と並んでドイツが世界に贈った人生の書。
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この小説は私にとって非常に大切な作品です。私の「十大小説」を選ぶとすれば『魔の山』は確実にその中に入ることでしょう。それほどこの作品は力強く、強烈なインパクトがあります。とにかくスケールの大きな作品です!
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100分で名著で現在説明されている。昔読んだような気がするが定かではない。結核患者の従兄に会いに病院に行ったところ自分も具合が悪くなり、そこに逗留するようになったところまでが上巻である。5章で病院の人々と自分がかかわっていくことが説明され、ここが上巻の半分ぐらいを占める。
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1924年刊。スイス高原のサナトリウムで療養生活を送ることとなった、青年ハンス・カストルプの精神の軌跡。
20世紀三大小説家のひとり、との声もあるトーマス・マンの代表作。年配の某文学系YouTuberの方が、『魔の山』はトーマス・マンの中では亜流で『ブッデンブローク家』こそ正統派だ、とおっしゃっていて、なるほどそうなのか~と思いつつも、やはり有名なので先にこちらを選んだ。何よりも、「今読みたい」と直感が働き、これがドンピシャだった。
というのは、本作で主人公の青年ハンスが、過去に想いを寄せていたプリビスラウとの関係を引き合いに出しながら、ロシアの婦人への恋心をひそやかにしつつ、あまりにも控えめな行動力で陰キャ的なやり取りをする描写に、たまらなく共感を覚えるタイミングだったからだ(汗)。
P250 「現実的に、いまのひそかな関係以上の交渉は持てないという確信、二人のあいだには越えられない深淵が横たわっていて、彼女と一しょでは彼の承認しているどんな批評にも及第できないという確信」
絶対に越えられない壁がある相手に恋をしてしまったら、こうするしかないだろうな、という行動をハンスがとるので、恋の行方が気になり、それが引力となって読み続けられた。
したがって、自分は本作の上巻をほぼ恋愛小説として読んだのだが、もちろん下のレビューや各所で言われているように、本作は20世紀初頭の思想や医学などについてつらつらと書き綴られた教養小説というやつで、読んでいて退屈な部分は確かにある。あまりにも変化のないサナトリウムの生活は、実は死と隣り合わせで、いやでも思索的にならざるをえない環境でもあり、こういった議論や語りが続くような小説には格好の舞台といえる。
しかし、数多い個性的な登場人物と人間関係の描写はなかなかに面白く、高原の景色も趣に富む。物語というよりも、こういった光景を楽しむ小説として考えていると、いつしかハンスと共に自分自身もその場にいるような不思議な感覚すらわいてきた。章の間にいくつもの節で区切られているためコツコツ読むには向いていて、この小説に取り組んでいる数日間ずっと手元のそばに置いていたので、サナトリウムの世界にどっぷりつかっていた感じが強い。その他、時間感覚についての考察は興味深い。
上巻ラスト付近の急展開は楽しくて仕方なかった。ハンス君やらかしすぎ(笑)。つくづく自分には合う小説だなぁと。下巻はもっと長いようだけど、全然イケそう。
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「ノルウェイの森」でキーとなる物語。サナトリウムに入院している従兄ヨアヒムを、学校出たてのハンス・カストルプが尋ねて、そこで7週間のつもりが7年も過ごすことになる。大学工学部を出たばかりの世間知らずなところがなんともリアル。セテムブリーニが御託を並べるところがウザイが、経済的な後ろ盾が無く困窮している彼と、従兄弟達の恵まれた生活とが第1の対比をなす。下巻に第2の対比がある。たっぷり頁を使ったショーシャ夫人との恋愛沙汰がどうなるのか。閉じた空間に医者、患者ら多彩な登場人物がいて、読んでも読んでも飽きない。
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大学時代に購入して、何度も何度も挫折しながら読み進めた本。スイス高原にあるサナトリュウムでの奇妙な療養生活を描く。時間感覚や死の神聖化など哲学的な内容を多く含む。一生かけて付き合って行きたいと思う本。
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マンの超大作の前半部分。中心的な登場人物は、ハンス・カストルプ、ヨーアヒム・チームセン、セテムブリーニとマダム・ショーシャ。
ヨアヒムの付き添いで結核療養所に入院したハンスの「成長」の物語。結核療養所という特異な空間において、セテムブリーニとショーシャとの関係がハンスに複雑な「成長」を遂げさせる。セテムブリーニはハンスを理性的に成長させる。だが同時に、ショーシャとの神秘的な関係を通じて、ハンスは理性的には解決できない自己のありかたに直面する。
ハンスとマダム・ショーシャの神秘的な関係に心底魅了された。
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カラマーゾフ読んでたら、無性に魔の山を詠み返したくなったのでのっけてみた。でも再読してないので、詳しいことがさっぱり言えない(笑)
カラマーゾフ2巻読んでたら、コレは結局のところ人間群像が織り成すユーモア小説かいな?って感じがしてきて、ユーモア小説だったら、なんつっても魔の山だろー!!と思ったんで。カラはまだシリアスに話が展開するんだろうか?ってのが読めなくって、どうもその中に差し挟まれるキャラのお茶目ぶりの処理がよく分かってないんですけど、魔の山は全編渡って皮肉な笑いに満ち満ちてる。
隔絶されたサナトリウムに集う特権的なイっちゃった人たちが、ひたすらなんの特にもならない世間になんの寄与もしないアイロニーに満ち溢れた会話を延々繰り広げる話、だろうか。(てかだったっけ)
とりあえず主人公のハンスくんがもってもてで、色気おばはんショーシャ夫人とか、ホモおっさんとかに取り合われる話。だけど本命はいとこくん。って、そんな話だったかと・・・。
ショーシャ夫人とそうなるとこの描写がまたセクシーだった気が。
ラストは壮絶。デミアンは叙情に溢れてたなあ・・・。
とりあえず全編多少分かんないとこがあろうが、ユカイ小説として楽しく読める。
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時々、こういう長い長い小説を読みたくなる。
主人公ハンスが山上のサナトリウムに到着し、そこでの慣習を笑い、自分はそうならないと言いつつ少しずつ慣れ、染まっていく上巻。
ハンスがショーシャ夫人のことをつい気になって見つめてしまう描写を、「不潔な関係」と表現する辺りが好き。不潔なプラトニックさってあるよね。
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生とは、死とは、愛とは、理性とは。思考の実験採択と病の誘惑に溺れ、魔の山の虜になったハンス・カストルプ。感心するほど“単純さ”を貫き通す彼の姿を、ユーモアとアイロニーをたっぷりこめた目線で描いたこの作品、素材の小難しさを超える文章の面白さが楽しめる。全二巻。
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ハンス・カストロプみたいな境遇にあった当時過剰に感情移入して夢中で読んだ。隠遁に近い生活の中で彼は何を見、何を知ったか。全てが非人間的なまでに高速処理される社会において一見何の役に立ちそうも無いこういった経験を、多角的に見つめなおす事ができる稀有な書。
Posted by ブクログ
だいたい、ハンスの行動は最初から変だった。
普通の健康な人間にとって、病や病者とは通常禍々しくて遠ざけるべきものであって、誰も病者の群れの中に三週間も身を置こうなどとは考えないだろう。
そんなことを考えるのは、早すぎた父母の死(二人とも【彼の五歳ど七歳のあいだに死んだ】)から類推して、自らの体内にもすでに死が育ちつつあるのではないかとの不安を抱いている者だけになし得ることではないだろうか?/
【音楽は時間の流れを、きわめて特殊ないきいきとした分割法によって目ざませ、精神化し、貴重なものにします。音楽は時間を目ざまし、私たちが時間をきわめて繊細に享受するように目ざましてくれます‥‥その点で音楽は倫理的です。芸術は目ざますかぎり倫理的です。
しかし、その反対の場合にはどうでしょう?音楽が私たちを麻痺させ、眠りこませ、私たちの行動と進歩とを阻害するとしましたら?】/
前段はロシア・フォルマリズム※1のシクロフスキーの文章を思い出させる。
【生の感覚を回復し、事物を意識せんがために、石を石らしくするために、芸術と名づけられるものが存在するのだ。知ることとしてではなしに見ることとして事物に感覚を与えることが芸術の目的であり、日常的に見慣れた事物を奇異なものとして表現する《非日常化》の方法が芸術の方法であり、そして知覚過程が芸術そのものの目的であるからには、その過程をできるかぎり長びかせねばならぬがゆえに、知覚の困難さと、時間的な長さとを増大する難解な形式の方法が芸術の方法でありー以下略ー】(ヴィクトル・シクロフスキー『散文の理論』)/
【イメージの目的は、その意味をわれわれによりよく理解させることではなくて、対象の独得な知覚を創造すること、つまり、対象を《知ること》ではなくして、《見ること》を創造することなのである。】(同上)/
※1:ロシア・フォルマリズムは、1910年代半ばから1930年代にかけてのロシアの文学運動・文学批評の学派。
日常的言語と詩的言語を区別し、(自動化状態にある)事物を「再認」するのではなく、「直視」することで「生の感覚」をとりもどす「異化」の手法を提唱した。/
トーマス・マンは1875年生まれで、『魔の山』は1924年に書かれており、シクロフスキーが「異化」概念を成立させるべく著した2つの小論、「言葉の復活」と「手法としての芸術」は、それぞれ1914年と17年に発表されているが、当時のマンに、はたしてロシア・フォルマリズムの影響があっただろうか?/
【「(略)あなたは人生の厄介息子です。】/
突然、名前を呼ばれた。/
【ハンス・カストルプは、(略)機会あるごとに不幸な(略)夫人をいくども訪ね、(略)面倒をみてやるようにつとめた。たとえば、粥を食べるときにスプーンを注意ぶかく口へ運んでやり、食物が喉につかえると、吸呑みから水を飲ませ、ベッドで寝がえりをするのにも手をかしてやった。(略)ハンス・カストルプは、食堂へ行く途中や散歩からの戻りに、ヨーアヒムに(略)一足さきに行ってもらい、彼女の部屋を訪ねて、世話をしてやり、ーー世話をしながら胸がひろがるような幸福感をおぼえたが、】/
認知症の母を介護していた頃が思い出された。/
◯ 後部座席の ドアを開ければ 立ちあがる 母と暮らした 黄金の日々/
◯ なにひとつ まともに出来ぬ 者なれど 老母は吾を 頼りていたり/
◯ 生きるには あまりに弱き 者なれど 老いたる母の 世話に生かさる/
【墓地は形が不規則で、初め南に長方形にのび、それから左右へ方形にひろがっていた。いくども拡張する必要にせまられて、隣接する田畑を編入したことが一見してわかった。(略)石碑も十字架も質素なもので、あまり費用のかかったものではなかった。碑銘についていうと、(略)さまざまな名前があったが、数字はどれも同じように若くて、行年(ぎょうねん)はだいたいにきわめて数が若く、誕生から死亡までの年数はどれもほぼ二十年、もしくは、それをあまりこえていなかった。】/
増殖する新しい墓のイメージが、ロシアの墓地を呼び出した。/
◯プーチン発言:
《ロシアのプーチン大統領は25日、「特別軍事作戦」と称するウクライナ侵攻に出征した兵士の母親代表者らと会合し「誰もがいずれは死ぬ。交通事故死も3万人だ」と述べた。
プーチン氏は「近親者、とりわけ息子が死ぬのは大きな悲劇だ。だが交通事故、あるいはアルコールが原因でそれぞれ年間3万人ほどが死ぬ。われわれは神の下にある。大切なのはどう生きるかだ」と出席者に説いた。》(2022年11月27日、産経新聞)/
どうやら、プーチン・ロシアにおいては、生き方と同様死に方までをも国家が決めているらしい。
犯罪者は国のために死すべきであり、少数民族も、貧者も同様である。
これは、プーチン式「生政治」※2であり、いわば「死政治」とでもいうべきものではないだろうか?
そして、それは明らかに全体主義の一つの貌である。/
※2:フーコーの「生政治」:
《私が「生政治」と呼ぶのは、人口として構成された生きる人々の総体に固有の諸現象、すなわち健康、衛生、出生率、寿命、人種といった諸現象によって統治実践に対し提起される諸問題を、十八世紀以来合理化しようと試みてきたやり方のことである。》(ミシェル・フーコー『生政治の誕生』)/
【「道徳?(略)ソウネ、ワタシタチハ考エルノヨ、ワタシタチハ道徳ヲ徳ノナカニ、ツマリ理性、秩序、良風、誠実ナドノナカニモトメルベキデハナクテ、ムシロ、ソノ反対ノモノ、ツマリ罪ノナカニモトメルベキダト。危険ナモノノナカニ身ヲ投ゲコミ、危険ナモノ、ワタシタチヲ破滅サセルモノノナカヘ飛ビコムコトニヨッテネ。ワタシタチハ、一身ノ安全ヲハカルヨリモ、一身ヲ破滅サセ、損傷サセモスルコトガ、ズット道徳的ナコトダト思エルノヨ。偉大ナ道徳家ハ、有徳ノ士ナドデハナクテ、悪ノ、悪徳ノ冒険家デアッテ、悲惨ノマエニキリスト教的精神カラ跪クコトヲ教エテクレル偉大ナ罪人デアッタトネ。(以下略)」】/
思いがけないタイミングで、マドンナ、ショーシャ夫人の口から核心に触れるような言葉が発せられる。/
訳文は「うさんな」「ハシナイ」などの言葉に見られるように、しばしばやや古風でしゃちほこばって響く。
これから読まれる方には他の訳の方が読みやすいのではないか?
Posted by ブクログ
とにかく長い。退屈。特に何も起きないまま上巻が終わる。ちょこちょこ動きはあるのだけれど。サナトリウムでの様々な人々との交流を通した青年の成長物語、とでもいうのかしら。病気、死、宗教、戦争、いろんなテーマを登場人物を通してひたすら討論していく場面が続く。しんどい。下巻、盛り上がりを見せてきたところで終わってしまう。しんどい。小説というよりも哲学書のような。しんどかったけど達成感はあった。これを読めたらもう何でも読めそう。ハンスが遭難しかけて生と死について開眼していくところは繰り返し読んだ。あの部分のために他を読んだのだと言ってもいいレベルで沁み入った。結論、しんどかったけど読んでよかった。しんどいけど読んだ方がいい。
好きだった箇所をメモしておいたので貼っておく。
「人間は死よりも高貴であり、死に従属するには高貴すぎる、頭脳の自由を持つからだ。人間は生よりも高貴であり、生に従属するには高貴すぎる、心の中に敬虔さを持つからだ。」
Posted by ブクログ
これは読むのに苦労したなー…
なぜならば終盤のハンス青年の
ほのかな思いが成就するときに
他の言語でしゃべっているのを表現するために
カタカナ混じりの会話になってるのよ。
平凡な位置青年であるハンスが
いとこの療養に付き合いうために
3週間の期限付きでサナトリウムに
行くことになったけれども…
…がつく通りでお察しです。
それとページ数で。
結局彼も発熱により
サナトリウムから降りられなくなるのです。
平凡な彼は
やがて様々な患者に感化され
心の成長を遂げていきます。
人体に興味を覚えたり
恋というものを覚えたり
そして、それが成就したり。
下巻、すごく気になるのよね…
Posted by ブクログ
上巻は3日、下巻は読み終えるのに1ヶ月半もかかってしまった。
なんと切り口の多い作品。。
まだ完全には消化しきれていない状態でこの文章を書いている。
こういった間口の広い作品は、
フィニッシュをどこに持ってくるかという問題があり、
巻末の解説でも書かれているように、
実は作者自身も明確にはそれを決めずに書き始めて
流れに身を任せたようだが、
個人的には最終章の決闘のシーンが終わった時点で
充分な満足感が得られ、
あとはどう結論をつけても何らかの片はつくだろうと感じたので、
それだけに、このフィニッシュには少々不満が残った。
他の人はどう感じたのか気になったので色々とレビューを読んでみたが、
まあ「時間の扱いが見事な作品」「精神論の教養小説」などと
評する人の多いこと。。
これだけ切り口の多い作品に対して、特に印象に残ったのがそこ?
感性が拙いとしか言いようがない。
そのような中学生の読書感想文レベルの感想にしか消化できないような
内容の薄い作品では決してない。
まず、舞台設定の見事さだろう。
標高1600メートルの山上にある高級療養施設。
抑圧の強い地上の現実世界から隔離されていて、
病気と死がいつも隣り合わせ、建物の周辺は自然に恵まれ、
気候変化が激しく四季に捕われない季節感があるという、
筆力次第で様々な非現実性を創出しやすい舞台。
見事な設定だ。
また、この作品を難解と感じさせる要因として、
第6章のセテムブリーニとナフタの激しい会話のやり合いがある。
精神と自然、病気と死、革命と伝統、自由と秩序。
色々詰め込んでいるが、
メルヴィル「モービィ・ディック」のような、
ただ単に詰め込んだだけで、
その事が全く何の効果も成していない駄作とは違い、
この作品は「詰め込み」が作品と綺麗に調和し、
芳醇な広がりを演出している。
しかし何と言っても、この作品の一番の読ませ所は
各シーンの起承転結のつけ方だろう。
過剰なまでの精神論、政治論、宗教論の応酬、
気まぐれに表情を変える美しい自然の描写、
音楽の与える高揚感、
様々な方法を駆使してクライマックスまで持っていき、
感情が最高潮にかき立てられた所ですぱんとシーンがカットされる。
この切り方が実に見事で、この読後感だけでも
読んで良かったと思わせるものが充分にある。
こういった粒ぞろいの各章を全体として俯瞰したとき、
上記「時間の扱い」「精神論」が作品に与える深みにも
唸らせられるのであって、
この作品を「時間に関する小説」「教養小説」などと単純に
一面的な部分を切り取って断定するのはナンセンスである。
Posted by ブクログ
上下巻合わせて1200ページ余りながら、不思議な物語と精神論・宗教論が混ざり合い、非常に難解な物語でした。
読み進めることが、まさにタイトルのごとく「魔の山」を登ることのようでした。。。
と冗談はさておき、
本書は、主人公ハンス・カストルプの結核を中心に、病気という面から「生と死」の考察と、サナトリウムという療養所のある平地と隔離された街を「時間」の考察という、2つの大きな主題から成り立ちます。
主人公のハンス・カストルプは、優柔不断というか、自己主張の少ない青年で、従兄弟のヨーアヒムを見舞うために、3週間の予定でサナトリウムを訪れます。しかし、サナトリウムで結核と診断され、長期療養を言い渡されるも、主人公のハンスはそれほど抵抗なく、療養を受け入れます。そして、時間的に孤立した療養所に留まることになるのです。
病気が人生観を変えたという話は、聞いたことがあると思います。病気は生と死の中間にあるものとも言えますが、病気は生の方向を良くも悪くも修正できる力をもつものなのかもしれません。
もう一つの主題である「時間」についてですが、この時間の魔術は、私達の時代でも容易に想像できるものなのではないでしょうか。普段の社会生活の中でも、時代の潮流に乗れていないと感じたり、世のトレンドとは無縁なコミュニティしか持ち合わせていなかったりと。。。
ある種、ゲーテとは異なる教養小説。
Posted by ブクログ
訳もわからず、政治談議などはすべて飛ばすという荒技で読みとおした。
よく分からないがものすごい衝撃を受け、これこそ生涯の一冊だと心に決めてしまった。
多分、この本の中に世界があると感じたんだと思う。「mondo libro」だ。
勢いに乗って、ドイツ語版まで買ってしまった。
しかし最初の一文を読んで、(私にとっては)入り組んだシンタックスに恐れ入ってしまい、それっきり読んでない。もうちょっと読まないと元が取れないなあ。
Posted by ブクログ
山頂のサナトリウムで、共に暮らす知人が次々に結核に倒れていく中で、議論し恋愛する現実離れした登場人物たち。
衣食の心配なくこんなところで人生論ぶちかましているなんて、いいご身分とも思ってしまう。
ハンス・カストルプがあっという間にスキーが上達したのに驚いた。雪の中の単独行のシーンは幻想的だった。
ヨアヒムが亡くなったのも悲しかったけど、幽霊が出てきたシーンはもっとぐっときた。
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山の上の世界と下の世界。
平凡に育った若者が隔離状態にある山の上で急進的な政治思想や哲学、覆った道徳・宗教、性、友情、死、自然に触れある種の光明を見出すまでの話。青春小説でありながら完璧な教養小説。政治・哲学・宗教についてはやや難解。社会全般に係る普遍的主題を全て盛り込んだ長大な小説は「実際的なファウスト」といった印象。
Posted by ブクログ
まさに魔の山
いろんな意味で!
一人の青年が就職の前に少し休養するつもりで訪れたサナトリウム
従兄弟が長い間療養していたため
ほんのお見舞いのつもりで‥
はじめは会う人それぞれの病状をまさに人ごととして捉え、同情し、自分とは違う世界のこととして馬鹿にしたような態度をとる
が、しかし
彼もまた同じように病んでいたのだ!
そしていろいろなものに影響されていく
死を間近に見て、人々やドクターとの関わりから
生命を、人体を学びはじめる
そしてそしてさらに恋も!
もう大丈夫?って思うほどの思いつめかたをして
支離滅裂になっていく姿は怖い
狭い世界の中で
心までも病んでしまいそうな日々
はたしてこの後どうなるのか?
日常に戻れるのか?
かなり時間がかかる読書となったけど
じっくり読まないと理解できなくなるので
また下巻もじっくり読みたい
また時間がかかるんだろうなあ
魔の山に取り憑かれた自分がいる
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ひょんなことから滞在するようになったサナトリウムで出会った人物や風景、出来事の細かな描写のすごいこと。 当時の人間も今と変わらず思案を巡らせ感じていたのだと改めて思う。
Posted by ブクログ
『100分de名著』を見て読み返すことにした。40年前以上に読んだ記憶はあるが、ほとんど覚えていなかった。
しかし、翻訳が悪すぎてストーリーが頭に入ってこない。小黒先生の話を聞いていたからかろうじて理解できた。まるで機械が翻訳したような直訳調、不自然な会話文。翻訳研究が進んでいなかった戦前に翻訳されたことを思えば致し方ないのかもしれないが、1988年の改訳ではいったい何を改めたのだろうか?すぐれた文学作品であるだけに残念。読み始めてしまったから下巻も読むしかないのだが、新潮文庫の高橋訳にすべきだったと後悔している。
Posted by ブクログ
長い上に難しい言葉も多かったので若干読みにくかったです。注のところも多くて読み返すのが大変でした。ですが結末が気になるので下巻も読もうと思います。
Posted by ブクログ
山上にあるサナトリウムを訪れた青年ハンス・カストルプが自らも結核を患っていることが発覚し、3週間の滞在予定のはずが魔の山にて長い時を過ごす教養小説…なのだが、上巻を読む限りでは主人公は小説内で流れていく時間そのものではと思えてしまう。時間と空間というのは世界の特性ではなく人間の意識の特性によるものであり、時間が持つ主観的な相対性に対して自覚的な言及が興味深い。病院内の過ぎたようで遅々として進まぬ退屈な時間と停滞しているように見えて瞬く間に過ぎ行く時間、そうした対比が小説内の構造として表現されているのだ。
Posted by ブクログ
村上春樹のノルウェイの森にでてきたので、購入したと記憶している。
西洋の宗教観、歴史観等を理解していないためか、登場人物の台詞にまるでついていけなかった。(二年前)
ので評価はいまいちつけがたい。
Posted by ブクログ
学生から職場に勤務するようになる直前、ぼんやりと無気力に陥っているハンス・カストルプは、気晴らしと療養を兼ねて、従兄弟の居る山奥のサナトリウムに滞在することを勧められる。
魔の山では下界と違った時間が流れ、病人たちが日々独特の生活を送り、その大抵のものは長く留まりすぎて下界に帰るところをなくし、魔の山の住人となってしまう。
山を下りたがる者、山を出入りする者、山で死ぬ者、山で諭す者、あらゆる登場人物がそれぞれ教訓となっている。教養小説と言われてますが、正直難しかったです。大半は山で繰り広げられるドタバタコメディーだと思って軽く読めます。
Posted by ブクログ
フリーメイソン会員やイエスズ会の人が重要人物として登場しているが、その辺の西洋の背景知識を持たないわたしには読み解けなかった。前提がわからなくてもお話として楽しめたが、内容は理解していないので評価できないです。
Posted by ブクログ
実はこれもまだ読んでない。いっつもナフタ出てきて暫くしたあたりで止まっちゃうのは何でだろう。つーか新潮で買えば訳者高橋義孝だったんじゃないかそっちのがよかったな・・何でこれに限って私岩波の買ったんだろう。いつも紐しおりのついている新潮文庫をこよなく贔屓にしている私なのに。オオ。