あらすじ
日本で一番信者数の多い浄土真宗。宗祖・親鸞の浄土教信仰は、法然から教えられたものではあったが、あくまで出家の立場を保ち、しかも戒律を厳格に守った法然は自らの生き方のモデルにはなり得なかった。六角堂に籠もる以前から、あるいはその時点から、聖徳太子に対する信仰が親鸞に存在したなら、非僧非俗の聖徳太子こそが親鸞の生き方のモデルといえる。80歳を超えてから、親鸞は法然の教えを『西方指南抄』につづるとともに、聖徳太子を讃える和讃を作り続けた。それは、自らの信仰の根本を改めて認識する作業だった。親鸞の信仰は、法然からだけ与えられたものではなく、日本仏教の基礎を築いた聖徳太子こそ、その核心に位置づけられていたのだ。親鸞が残した和讃や妻・恵信尼の手紙、『本願寺聖人伝絵』などから、浄土真宗の源流は聖徳太子にあることを読み解いていく。
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Posted by ブクログ
ご存じだろうか
親鸞は晩年、聖徳太子を讃える和讃を詠んだ
師である法然の教えを西方指南抄にまとめて
宗教家として信仰の根本を再認識する為には
天台宗開祖の最澄が日本最初の法華経理解者
としてとらえている「聖徳太子」を抜いては
日本仏教を語れないのだろう
【知っておきたい聖徳太子】
母の間人皇后の口中に救世観音が入って入胎
厩の前で産み落とすと赤・黄色の光が差込む
2歳で合掌し「南無仏」と称える
6歳で百済の僧が持つ経論を見たいと望む
16歳で物部守屋と戦う(四天王像の加護)
26歳、百済阿佐王子と面談し眉間から白光
27歳、愛馬黒駒で富士山登頂(3日で帰還)
37歳、魂で前世修行時の経典を持ち帰る
42歳、片岡山伝説(聖の聖を知る)
近年の研究では冠位十二階と十七条憲法を定
めたのは間違いないことが分かった(´・ω・`)
(用語などで後世疑義→内容精査で同一思想)
「厩戸王」は戦後になって仮に想定された名であって古代の文献には見えないこと、都の飛鳥と斑鳩を斜め一直線で結ぶ太子道は幅20メートルもある広壮なものであった事実が発掘でわかったこと、現在の法隆寺の前身である斑鳩寺は彩色壁画で飾られた最先端の大寺であったこと、その他の新しい研究成果を認めず、「いや、実在したのはぱっとしない厩戸王であって、聖徳太子はいなかった」と主張し続けているのが、
大山誠一「聖徳太子は実在しなかった」
この男を覚えておこう(トンデモ歴史家)