あらすじ
お母さんライターが、日本の「道徳」のタブーに踏み込み、軽やかに解体!歴史をさかのぼり、母性幻想と自己犠牲への感動に満ちた「道徳観」がいかにつくられたか明らかにする。
2018年、小学校で道徳が正式教科に……!
歴史を遡り、日本の「道徳」がつくられた過程と、母性幻想と自己犠牲に感動を強いる「道徳教育」の問題点をあぶり出す。
『女の子は本当にピンクが好きなのか』著者最新刊、いま誰もが読んでおくべき、日本の「道徳」解体論!
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Posted by ブクログ
タイトルに惹かれて読みました。二児の母でもある著者が、既存の教育や「道徳」の価値に疑問をもち、異議申し立てる?内容です。私はしがない一公立中学校の教員で、教科化された「道徳」の授業を行いながら「なんだかなぁ…」といつも思っているので、同意できる部分がたくさんありました。
現在の学校教育、国語教育、道徳教育が、なぜ今のようであるのか、歴史を紐解きながら分析している。
要するに、学校教育というものは国家権力により「こんな国民を育てたい」と思って方向づけられるものであるから、戦時中なら国のために犠牲になる精神を良しとし、そのような人をたたえて感動をあおるようなお話をみんなに読ませてきたわけだし、逆に戦後は個人を大切に~と言いながらも社会規範から逸脱しないような教材を選定してきたわけだ。
で、子どもたちの心のよりどころとして「神」も「国家」も「天皇」も不適切となったこの時代、「母への感謝」ならば大抵の子どもにあてはめられるから、「母性と自己犠牲」がもてはやされ、様々な教材となって国語や道徳の教科書に掲載されている。
新見南吉の「ごんぎつね」や「スーホの白い馬」は教科書の定番だが、この作品についても著者ならではの鋭い視点でツッコミを入れていて興味深い。
本書は2018年刊行だが、2025年現在、著者が「問題だ」と言っているような巨大組体操はもう行われていないし、PTA活動もどんどん縮小され、入らなくても良くなっているし、「2分の1成人式」も流行りが終わったみたいで我が子の学校では実施されなかった。部活動も地域移行が進みつつある。PTA活動は男の偉い人が「母親を教育すべし」と考えて始めたもの、組体操は軍事教練の一環だった、など、なぜこういうものが生まれたのか歴史をたどってみれば、これが今でも「伝統」とされるおかしさに気づける。
運動会のありようについても、子どもたちの一生懸命な姿をいちばん真正面から見ることができる場所に「来賓席」が設けられて、肝心の保護者は正面から見ることができない…というおかしさも、なるほど~運動会って昔こういう理由で始まったから、地域の人に見せる必要があったのね…となるので、今はもうなくして良いのでは?と思った。(来賓席なくせって、教育委員会に提言しようかな)。
著者のように「なんか、流行っているけどそれって本当に大丈夫?感動の強制じゃない?」とか物申してくださる方がいて、世界はより良い方向に向かっている、と信じたい。
↓以下引用
自我を捨てて子どもに尽くす「母」は美しい。だからこそ恐ろしい。戦後、愛国心には警戒が払われるようになったが、母性幻想は無批判のまま生き延び続けて少子化を招いている。母性幻想に取り巻かれる現代の一個人が再びファシズムに巻き込まれないためにできることは、自我や自意識がまったく美しくなく、みっともなくて目が当てられないものだとしても、そういうものだとして面白がって愛し、他人のそれもまた愛することではないだろうか。私たちは皆それぞれに自我がある個人で、黙るのでもなく黙らせるではなくぶつかり合いながら、どうにか調整して生きるしかないのだ。「母親だから」と母性幻想の持ち主に自己犠牲を求められたら、ふてぶてしく突っぱねて、女や母親にも自我があることに慣れていただこう。それが世界平和への道だと考える次第だ。
Posted by ブクログ
著者とママ友になりたい。知識教養のレベルについていける自信はないが、話が絶対おもしろい。
昔から好きな童話作家であった小川未明について、別の視点を得られたのが良かった。
学校や大人によってこどもが「感動統治」されるって分かるなー。仕事ある事を言い訳に、学校の事にはあまり深く関わってないんだけど、知ったらいろいろ不満や疑問が増えそうだ。
あと、道徳、春休みこどもがやたら「家族」行動を推してくんな、と思ったら、通信簿(と今は呼ばないのよね)によると、なんやら家族で助け合う云々を学んだとか書いてある...多分道徳だろう...一体何を話したのか、少し前あれだけ話題になった道徳の教科入りも、何も話されなくなったけど、この本を読むと、きっと今の学校教育の道徳も、ツッコミどころあんだろうなー、むしろツッコめなきゃ、まずいなって思う。
著者の、古い話ばっかじゃなくて、現代の問題を含んだドラマや漫画を通じて、こどもが個として何が善いのか、を考えられるように、っていうのは、親として気をつけていきたいとこ。
cakes 連載のコンテンツであったとあとがきで知る。Twitterやめてから遠ざかってたんだけど、こんな面白いコンテンツあるなら、またチェックしてみようかな。
感想は以上でーす!
Posted by ブクログ
国民意識が芽生えた明治〜今の道徳感について。
Q「ごんぎつねが栗やマツタケを運んだのは何故ですか」
A「性器のメタファーだから」(以下略)
…これでまんまと最後まで読まされてしまったw
が、以降は真面目なものだった。
(自メモに詳細記載)
◆1章 読書と道徳
明治初年代の儒教濃い時期には、小説を読むと破滅したり死ぬと信じる知識層が珍しくなかった。
明治12年に自由民権運動の反動で儒教教育が復活、女子の裁縫必修と男女別学となって男子小学生が増えた。
明治21年、少年誌『少年園』創刊、以降冒険物が人気。
明治32年には中等教育男子に相応しい良妻賢母育成のため高等女学校令が発布される。
明治35年頃から少女誌が創刊される。従順or死というイエ制度維持の「婦徳」だけでなく、家族から「愛され」ようとする思想が三輪田真佐子より寄せられ、後に、少女は冒険はできずとも主体的に家族以外にも「愛され」るようになるべしという文化が受け入れられていった。
明治36(1903)年に16才のエリート青年、藤村操が遺書を残して自殺、「煩悶青年」として社会問題となる。
イエ共同体に従属するしかない自由の無い時代が終わり、教育を受け共同体の外を知れる時代となると、「男は立身出世、女は良妻賢母」という国民道徳を内面化できなかった若者は、異なる価値観を他に求めるしかなく、強い自我を抱えて文学に向かわざるを得なかった。
文学は自我を解放するロマンチックな恋愛も教えた。
存在意義を獲得するには恋愛が一番手っ取り早い。
大正11(1922)年『近代の恋愛感』で対等な恋愛と結婚を結びつける思想が掲げられ女学生の憧れとなったが、先進的な都市部であっても、大日本帝国憲法下では妻に一切の権限がなく、対等である結婚は無理だった。
で。
段々と大衆の識字率もあがり、娯楽要素の強い俗悪な雑誌も増え、カウンターとして道徳的な良書が求められるようになった。。。
◆2章 道徳としての母
自己犠牲の「母性」は大正デモクラシーからであり、
江戸や明治は「公に尽くす母」が人気だった。
庶民農家は家業家事に忙しく子供は子守へ。子守唄の歌詞も家長目線の口減しが当然で、母性的と言い難い。
大正期に入り、資本主義の進展と富国強兵の衰退によってホワイトカラーの主婦が増え、父兄にとって代わって母が子の教育責任を負うようになり、漢文より童話童謡が好まれるようになる。
対等な恋愛結婚がままならず、その都市文明である近代思想が幻滅されたために、「母の無償の愛」「郷土」「自然」「伝統」と結びつく北原白秋の「童心主義」が、守るべき「純真無垢な子供像」を造形していった。
大正5(1916)年『母と子』を女子修身教育家の下田二郎が刊行し、昭和5年までに23刷を超える大ヒットとなった。
ここではキリストの犠牲と菩薩の慈悲が、うけられなくなりつつある儒教に変わり、女性に忍従を促した。
母の犠牲によって成功する個人は増えていったが、古い共同体に閉じ込められたままの母に後ろめたさを感じざるを得ない。個人は罪悪感を持たないために母性幻想が必要だった。
恋愛に自我を求め伊藤野枝も結婚したが、「新しい男」は働きたがらないし、子供ができても家事育児も当然しない。破綻した恋愛結婚は新しい男に見切りをつけさせ自己犠牲の「母性愛」に自己確立を見出すのだった。
これ幸いと、母は自我を捨て子供に尽くすべきであり、母は権利を要求すべきでないという福島雅雄も現れる。
大正12(1923)年の関東大震災後、愛国主義が子供を戦争に送り出す愛国詩に結びついていく。何故か。母も子も自我を捨て祖国のために1つになれば、全員が無垢で健気な日本人になればどんなに安心できるだろうか。美しい日本という幻想が、自己犠牲が、国家主義に転化し感動を誘った。
国家的母性、ファシズムに巻き込まれないには、自我や自意識が全く美しく無く、みっともなくて目が当てられなくても、そういうものだと面白がって愛し、他人のそれも愛することではないだろうか。
私たちは皆それぞれに自我のある個人で、黙るでもなく黙らせるでなくぶつかり合いながら、どうにか調整して生きるしかないのだ。女や母親にも自我があることに慣れていただこう。
◆3章 感動する道徳
略
◆おわりに
自他の権利を尊重するふるまいや、それらを心外しようとするものに抗う方法も、知識として習得させたい。そうでなければ足の引っ張り合いで、みんなでジリ貧になるだけだ。
せめて個々の保護者は道徳以外にもさまざまな価値観があることを伝えてゆきたい。
『社会はなぜ左と右にわかれるのか 対立を超えるための道徳心理学』を読んでみたいと思う。
Posted by ブクログ
常識を常に疑うこと。正しいことは何かを自分で考え、自分で決め、修正していくこと。そういったことが大切だなと思ってはいるけど、道徳さえも疑うということはあまりしたことがなかった。
その点は目からうろこな情報がたくさんな本。いかに道徳が都合よく作り上げられてきているか、そしてその普及が推し進められているか。特に母性幻想については完全に自分の考え方の根底に植えつけられてしまっていることに気づかされた。子供に対しての母の自己犠牲ってどうしても感動してしまいがち、、、
日本の学校教育、つまらんね。
息子よ、染まるなよ。すべて自分で考えろ。
Posted by ブクログ
「自我を捨てて子供に尽くす『母』は美しい。だからこそ恐ろしい。戦後、愛国心には警戒が払われるようになったが、母性幻想に取り巻かれる現代の一個人が再びファシズムに巻き込まれないためにできることは、自我や自意識がまったく美しくなく、みっともなくて目も当てられないものだとしても、そういうものだとして面白がって愛し、他人のそれも愛することではないだろうか。私たちは皆それぞれに自我のある個人で黙るのでも黙らせるのでもなくぶつかり合いながら、どうにか調整して生きるしかないのだ。『母親だから』と母性幻想の持ち主に自己犠牲を求められたら、ふてぶてしく突っぱねて、女や母親にも自我があることに慣れていただこう。それが世界平和への道だと考える次第だ。」p179
Posted by ブクログ
去年の2月頃炎上しただいすけお兄さんの歌「あたしお母さんだから」に現れる、”お母さんとは我慢、忍耐すべき存在”幻想を産んだ日本の土壌を明治以降の歴史を紐解き解説したジェンダー論。その歴史は浅く、大正デモクラシーの「新しい女」達が自己の解放を求めこぞって自由恋愛に走った結果、敗北したことが起因だった。
何よりも「自由恋愛」相手の日本人男性の精神が追いつかず、結果として女達は家事育児を一切合切背負いこみ、自身が苦しむ羽目に陥る。敗北を認めないためにも自己解放の先を「子供を産み育てる母性」なるものへの賛美にすり替えていく、、、
この頃の女達の使えない夫とワンオペ育児への呪詛が、現代のSNSを賑わすネタに相通じていたことに戦慄。
平成も終わろうとしているこの時代においてもまだまだ日本の母なる存在幻想は変わっていないのだ。