あらすじ
お母さんライターが、日本の「道徳」のタブーに踏み込み、軽やかに解体!歴史をさかのぼり、母性幻想と自己犠牲への感動に満ちた「道徳観」がいかにつくられたか明らかにする。
2018年、小学校で道徳が正式教科に……!
歴史を遡り、日本の「道徳」がつくられた過程と、母性幻想と自己犠牲に感動を強いる「道徳教育」の問題点をあぶり出す。
『女の子は本当にピンクが好きなのか』著者最新刊、いま誰もが読んでおくべき、日本の「道徳」解体論!
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Posted by ブクログ
手に取った時と読み終わった後では全く違う印象を残す本。
一冊で教育の系譜から「やんちゃ」への解き筋を丁寧に追うさまは、その点と点ひとつずつでもなるほど~!となるのですが…
こと三章目、これらを繋げていき結ばれる結論には唸りました。一人の母として、現在の不可解さの成り立ちを知れたことは良かったなあと。
終盤で引用されるかこさとしの文章には胸が熱くなりました。
それにしても、一行しか出てこないにも関わらずパンチの強い石原慎太郎…。文化においての功績と功罪の大きさたるや。
Posted by ブクログ
知らなかった真実や著者の考察による、言葉の洪水に、気持ちよく押し流され、読書の楽しみを感じる1冊でした!
特に興味深いページにフセンを貼ろうと思ったら、フセンだらけになったので、途中で断念。
Posted by ブクログ
面白かった!!!
明治大正期まで遡って、文学の歴史による思考の流れとジェンダーへの意識をユーモア交えて説明していて、とても読みやすかった。
参考文献がいっぱいで学んだことも多かったので一読で全て吸収したとは思えないが、何度も読み返したいと思うくらい参考になる本だった。
Posted by ブクログ
いわゆる日本社会の「全体主義」的な息苦しさを
学校に通う児童を持つ母の目線で、道徳の授業の
内容や、1/2成人式(つまり10歳を祝う)
なる不思議な学校行事を通して、「なんかオカシ
クね?」とライトに突っ込む本は、もっとたくさん
出ていいと思います。
前半は大まかに「そもそも道徳ってどういう内容
が”正しい”道徳として、人々の間でとらえられて
きたのか」
答えってあるの?
後半は「自己犠牲を強いる母性っていつから定着
したの?」という「同調圧力」を醸成しそうな
テーマを扱っています。
道徳なんて型にはめないでも「もっと自由に感じ
ていいじゃん」と、まっとうな社会のアンチテー
ゼを唱える一冊です。
Posted by ブクログ
教育がこうも息苦しく、感動やら絆やらがもてはやされる理由がよく分かった。
小学校の卒業式でやらされた群読のルーツがわかり、その下らなさを再認識した。その他、母性や教育における理不尽な言説、行事等の経緯がわかり非常に納得させられた。
日本会議等の保守勢力にこれ以上いいように教育を捻じ曲げさせれば、この国の未来は無い。
Posted by ブクログ
いゃあ 痛快でした!
バッサバッサと斬り倒していく感覚
が満載です
単なる感情論ではなく
その裏付けがちゃんと
丁寧に検証されているのが
また頼もしく、
また興味深い。
「道徳」「不道徳」は
その時代を映し出す鏡であることを
改めて実感しまた。
いま「道徳」を
声高に唱えておられる人たち
ぜひ 目を通してもらいたい一冊です
まぁ その人たちには
焚書にしたい一冊でしょうね
Posted by ブクログ
タイトルに惹かれて読みました。二児の母でもある著者が、既存の教育や「道徳」の価値に疑問をもち、異議申し立てる?内容です。私はしがない一公立中学校の教員で、教科化された「道徳」の授業を行いながら「なんだかなぁ…」といつも思っているので、同意できる部分がたくさんありました。
現在の学校教育、国語教育、道徳教育が、なぜ今のようであるのか、歴史を紐解きながら分析している。
要するに、学校教育というものは国家権力により「こんな国民を育てたい」と思って方向づけられるものであるから、戦時中なら国のために犠牲になる精神を良しとし、そのような人をたたえて感動をあおるようなお話をみんなに読ませてきたわけだし、逆に戦後は個人を大切に~と言いながらも社会規範から逸脱しないような教材を選定してきたわけだ。
で、子どもたちの心のよりどころとして「神」も「国家」も「天皇」も不適切となったこの時代、「母への感謝」ならば大抵の子どもにあてはめられるから、「母性と自己犠牲」がもてはやされ、様々な教材となって国語や道徳の教科書に掲載されている。
新見南吉の「ごんぎつね」や「スーホの白い馬」は教科書の定番だが、この作品についても著者ならではの鋭い視点でツッコミを入れていて興味深い。
本書は2018年刊行だが、2025年現在、著者が「問題だ」と言っているような巨大組体操はもう行われていないし、PTA活動もどんどん縮小され、入らなくても良くなっているし、「2分の1成人式」も流行りが終わったみたいで我が子の学校では実施されなかった。部活動も地域移行が進みつつある。PTA活動は男の偉い人が「母親を教育すべし」と考えて始めたもの、組体操は軍事教練の一環だった、など、なぜこういうものが生まれたのか歴史をたどってみれば、これが今でも「伝統」とされるおかしさに気づける。
運動会のありようについても、子どもたちの一生懸命な姿をいちばん真正面から見ることができる場所に「来賓席」が設けられて、肝心の保護者は正面から見ることができない…というおかしさも、なるほど~運動会って昔こういう理由で始まったから、地域の人に見せる必要があったのね…となるので、今はもうなくして良いのでは?と思った。(来賓席なくせって、教育委員会に提言しようかな)。
著者のように「なんか、流行っているけどそれって本当に大丈夫?感動の強制じゃない?」とか物申してくださる方がいて、世界はより良い方向に向かっている、と信じたい。
↓以下引用
自我を捨てて子どもに尽くす「母」は美しい。だからこそ恐ろしい。戦後、愛国心には警戒が払われるようになったが、母性幻想は無批判のまま生き延び続けて少子化を招いている。母性幻想に取り巻かれる現代の一個人が再びファシズムに巻き込まれないためにできることは、自我や自意識がまったく美しくなく、みっともなくて目が当てられないものだとしても、そういうものだとして面白がって愛し、他人のそれもまた愛することではないだろうか。私たちは皆それぞれに自我がある個人で、黙るのでもなく黙らせるではなくぶつかり合いながら、どうにか調整して生きるしかないのだ。「母親だから」と母性幻想の持ち主に自己犠牲を求められたら、ふてぶてしく突っぱねて、女や母親にも自我があることに慣れていただこう。それが世界平和への道だと考える次第だ。
Posted by ブクログ
著者とママ友になりたい。知識教養のレベルについていける自信はないが、話が絶対おもしろい。
昔から好きな童話作家であった小川未明について、別の視点を得られたのが良かった。
学校や大人によってこどもが「感動統治」されるって分かるなー。仕事ある事を言い訳に、学校の事にはあまり深く関わってないんだけど、知ったらいろいろ不満や疑問が増えそうだ。
あと、道徳、春休みこどもがやたら「家族」行動を推してくんな、と思ったら、通信簿(と今は呼ばないのよね)によると、なんやら家族で助け合う云々を学んだとか書いてある...多分道徳だろう...一体何を話したのか、少し前あれだけ話題になった道徳の教科入りも、何も話されなくなったけど、この本を読むと、きっと今の学校教育の道徳も、ツッコミどころあんだろうなー、むしろツッコめなきゃ、まずいなって思う。
著者の、古い話ばっかじゃなくて、現代の問題を含んだドラマや漫画を通じて、こどもが個として何が善いのか、を考えられるように、っていうのは、親として気をつけていきたいとこ。
cakes 連載のコンテンツであったとあとがきで知る。Twitterやめてから遠ざかってたんだけど、こんな面白いコンテンツあるなら、またチェックしてみようかな。
感想は以上でーす!
Posted by ブクログ
軽快な文章でとてもライトに読める。
何となくモヤっとする小学校の道徳教育や、二分の一成人式などに言及している。
ごんぎつねはBLである、という新たな視点を得られました(笑)
Posted by ブクログ
国民意識が芽生えた明治〜今の道徳感について。
Q「ごんぎつねが栗やマツタケを運んだのは何故ですか」
A「性器のメタファーだから」(以下略)
…これでまんまと最後まで読まされてしまったw
が、以降は真面目なものだった。
(自メモに詳細記載)
◆1章 読書と道徳
明治初年代の儒教濃い時期には、小説を読むと破滅したり死ぬと信じる知識層が珍しくなかった。
明治12年に自由民権運動の反動で儒教教育が復活、女子の裁縫必修と男女別学となって男子小学生が増えた。
明治21年、少年誌『少年園』創刊、以降冒険物が人気。
明治32年には中等教育男子に相応しい良妻賢母育成のため高等女学校令が発布される。
明治35年頃から少女誌が創刊される。従順or死というイエ制度維持の「婦徳」だけでなく、家族から「愛され」ようとする思想が三輪田真佐子より寄せられ、後に、少女は冒険はできずとも主体的に家族以外にも「愛され」るようになるべしという文化が受け入れられていった。
明治36(1903)年に16才のエリート青年、藤村操が遺書を残して自殺、「煩悶青年」として社会問題となる。
イエ共同体に従属するしかない自由の無い時代が終わり、教育を受け共同体の外を知れる時代となると、「男は立身出世、女は良妻賢母」という国民道徳を内面化できなかった若者は、異なる価値観を他に求めるしかなく、強い自我を抱えて文学に向かわざるを得なかった。
文学は自我を解放するロマンチックな恋愛も教えた。
存在意義を獲得するには恋愛が一番手っ取り早い。
大正11(1922)年『近代の恋愛感』で対等な恋愛と結婚を結びつける思想が掲げられ女学生の憧れとなったが、先進的な都市部であっても、大日本帝国憲法下では妻に一切の権限がなく、対等である結婚は無理だった。
で。
段々と大衆の識字率もあがり、娯楽要素の強い俗悪な雑誌も増え、カウンターとして道徳的な良書が求められるようになった。。。
◆2章 道徳としての母
自己犠牲の「母性」は大正デモクラシーからであり、
江戸や明治は「公に尽くす母」が人気だった。
庶民農家は家業家事に忙しく子供は子守へ。子守唄の歌詞も家長目線の口減しが当然で、母性的と言い難い。
大正期に入り、資本主義の進展と富国強兵の衰退によってホワイトカラーの主婦が増え、父兄にとって代わって母が子の教育責任を負うようになり、漢文より童話童謡が好まれるようになる。
対等な恋愛結婚がままならず、その都市文明である近代思想が幻滅されたために、「母の無償の愛」「郷土」「自然」「伝統」と結びつく北原白秋の「童心主義」が、守るべき「純真無垢な子供像」を造形していった。
大正5(1916)年『母と子』を女子修身教育家の下田二郎が刊行し、昭和5年までに23刷を超える大ヒットとなった。
ここではキリストの犠牲と菩薩の慈悲が、うけられなくなりつつある儒教に変わり、女性に忍従を促した。
母の犠牲によって成功する個人は増えていったが、古い共同体に閉じ込められたままの母に後ろめたさを感じざるを得ない。個人は罪悪感を持たないために母性幻想が必要だった。
恋愛に自我を求め伊藤野枝も結婚したが、「新しい男」は働きたがらないし、子供ができても家事育児も当然しない。破綻した恋愛結婚は新しい男に見切りをつけさせ自己犠牲の「母性愛」に自己確立を見出すのだった。
これ幸いと、母は自我を捨て子供に尽くすべきであり、母は権利を要求すべきでないという福島雅雄も現れる。
大正12(1923)年の関東大震災後、愛国主義が子供を戦争に送り出す愛国詩に結びついていく。何故か。母も子も自我を捨て祖国のために1つになれば、全員が無垢で健気な日本人になればどんなに安心できるだろうか。美しい日本という幻想が、自己犠牲が、国家主義に転化し感動を誘った。
国家的母性、ファシズムに巻き込まれないには、自我や自意識が全く美しく無く、みっともなくて目が当てられなくても、そういうものだと面白がって愛し、他人のそれも愛することではないだろうか。
私たちは皆それぞれに自我のある個人で、黙るでもなく黙らせるでなくぶつかり合いながら、どうにか調整して生きるしかないのだ。女や母親にも自我があることに慣れていただこう。
◆3章 感動する道徳
略
◆おわりに
自他の権利を尊重するふるまいや、それらを心外しようとするものに抗う方法も、知識として習得させたい。そうでなければ足の引っ張り合いで、みんなでジリ貧になるだけだ。
せめて個々の保護者は道徳以外にもさまざまな価値観があることを伝えてゆきたい。
『社会はなぜ左と右にわかれるのか 対立を超えるための道徳心理学』を読んでみたいと思う。
Posted by ブクログ
タイトルや装丁の軽さに反して、とってもきちんとした教育学の本でちょっと驚いた。
教育の様々な問題を、参考文献や一次資料を読み解いて、ざっくばらんな語り口で述べている。
道徳の教科化、組体操、読書感想文…黒幕は誰だ。
個人的に卒論で明治・大正期の少女雑誌を調べていたこともあり、面白く読んだ。
Posted by ブクログ
強要される運動会の組体操、1/2成人式、PTA、道徳科目化、そして子育てに関わる数々の神話や良妻賢母である専業主婦への称賛、働く母への冷酷なまなざし、、自己犠牲、同調圧力、日本社会の変な美徳感、こちらの著者のご指摘には非常に共感できます。どうしてこのような日本風の異様な文化が出来上がってしまったのか、現代から明治、大正、昭和の戦後と、時代を遡って考察されている点、非常に面白かったです。やはり戦争時の軍国社会主義的な、天皇万歳!国家主義、あれがおかしかったのですね、今こそ過去の過ちを反省して本当の民主主義的な日本を取り戻して欲しい、将来の子どもたちにはもっと自由に生きて欲しい。そういう母親にならねばならないー
Posted by ブクログ
表紙を見て、分かりやすく面白く書かれていることを想像していたが、はっきり言って思っていたより難しい本だった。特にライトな読み物に慣れた脳には。
国民の思想を束ねる政府が出来た明治に遡り、大量の文献を引いている…その原文を読むのがマシュマロ化した脳にはこたえた。
が、そこを耐えて二章、三章と進むと、この国の教育の流れ、国民を誘導したい思惑などがジワジワと分かり、そら恐ろしくなる。
小川未明の初期の作品を読んで反戦作家なのかと思っていたが、その後北原白秋と共に戦意高揚を掲げ、愛国主義に傾いていったこと。
教科書の新美南吉の「ごんぎつね」は、実は原文とは違い鈴木三重吉によって書き換えられていたこと、などなど。
知ろうとせずに生きることは、目を瞑ったまま歩かされていることに等しい。
気がつけば断崖絶壁に立っていたということにならぬよう、もっと現状に目を向けなければ。2019.7.28
Posted by ブクログ
なんということ。
母の日にこの作品を読み終えるとは。
テレビ等で、ある女性にインタビューする時は「お子さんはいらっしゃるんですか」、
ある男性にインタビューする時は「お仕事は何をされてるんですか」。
逆もあるけれど、だいたいはこんな感じだ。
そして、メダルをとったオリンピック選手に必ず聴くアレ。「まず最初にどなたに伝えたいですか?」この質問で、「お母さん」と答えなければ日本中から干されるような空気。そう、空気だ。いつまで日本中に漂っているんだ、この空気は。
わたしは、親(母親)に感謝すべきなのに感謝できない、という苦しみの中で、ずうっと罪悪感を感じながら生きてきたけれど、ある日「感謝なんて自然に湧き上がってくる感情なんだから、感謝は『すべき』っていうのは違う」と描いてある本に触れて、親だって人間で、常に完璧だったわけじゃない、というのを徐々に落とし込んでいったクチです。なんならまだその途中です。
だから、「母親だから」で全てを片付けようとする風潮にはうんざりしていて、なんなら、吐きそう。「親だから」、これなら分かる。実際にそういう状況はあるからだ。それなのに、「母親だから」ということが、泣ける要素なんだよな。そして、これがエスカレートしたのが、今流行りの「毒親」だと思う。
なのに、そんな「母親」を推しまくっている空気の中で、結婚式で娘の隣を歩くという劇的な場面において、そのポジションにつくのは「父親」だ。急に!?急過ぎない!?今までずうーっと、子どものことで登場するのは母親だったのに、「娘がその家に最後に縛られている瞬間」に隣にいるのがお父さんて!表彰台で、一番感謝しているのはお母さんです言うたやん!みたいな(笑)そこをぐっと我慢して、父親をたてるのも母親の仕事って、そういうことでいいですか?我慢てそんなに美しいですか?
と、まあ、そのあたりつつき始めたら、結婚したら嫁に行くのはどうして女性なのか、であるとか、ジェンダーの話になりそうなので、このへんにしておきます。
価値観て、自分はBって思っているのにBって言うと、自分が体験してきたAっていう価値観を否定することになるから、Aに固執しちゃってる人もいて、価値観は、個人の生い立ちとも大きく関わってくる。
わたしは伊藤野枝が、こんなにも自己犠牲的な母性愛を述べた人だとは知らなかった。歴史では伊藤野枝はそういう人だとは学んでこなかったからだ。でもここで描かれている伊藤野枝は、「保育園落ちた日本死ね」とか言ってそうなお母さんで、自己犠牲を賛美する北原白秋や小原國芳は、生い立ちの中で、自己犠牲する女性に育てられて、そういう女性がいなかったら生きてこられなかったわけで。
そういう、経験や生い立ちを描いた作品が出版されることで、新たな価値観が世に呈示されるようになっていく。
今は、その役割を果たしているのがSNSとか、ブログとか、ネットの記事とか、そういったものなんだろう。
自分の思っていることや考えていることを、抑圧せずに表現できることって、その時代の背景や価値観を構築しうる。批判に晒されたり、苦しい思いをするのはしんどいけれど、それでも、新しい価値観を呈示できるって、すごいことだと思うんだ。
こんな風に、価値観の背景には時代があって、今は時の流れの中でたくさんの価値観が溢れていて、だからいろんな価値観を持っている人がいて、それを尊重しましょうって、そういう時代に入っている中、道徳が正式教科化されたわけで。その道徳という科目が、自分自身に向き合ったり、相手の価値観を尊重したりできるものになるよう、学生時代は道徳も国語も苦手だったけれど、今はいろいろな価値観を受け入れようとしながらそれなりに生きているアラサーは、祈るしかない。
Posted by ブクログ
常識を常に疑うこと。正しいことは何かを自分で考え、自分で決め、修正していくこと。そういったことが大切だなと思ってはいるけど、道徳さえも疑うということはあまりしたことがなかった。
その点は目からうろこな情報がたくさんな本。いかに道徳が都合よく作り上げられてきているか、そしてその普及が推し進められているか。特に母性幻想については完全に自分の考え方の根底に植えつけられてしまっていることに気づかされた。子供に対しての母の自己犠牲ってどうしても感動してしまいがち、、、
日本の学校教育、つまらんね。
息子よ、染まるなよ。すべて自分で考えろ。
Posted by ブクログ
母性幻想。母親に自己犠牲と道徳観を求める傾向を著者はそう呼び警鐘を鳴らす。日本に何となく蔓延して定期的に炎上に繋がるこの空気の正体は何なのか?明治におけるエンタメ小説の扱いにまで遡る考察に驚嘆と同時に半ば絶望…教育による刷り込みから来る無自覚の闇は深い。お母さんだって人間である。
Posted by ブクログ
明治初期からの教育の歴史を掘り下げながら現在の教育現場を鑑みている本。
小学校生活全体の達成目標ってなんなんだろう。
個々の教科で量的に図れる科目は明確なんだろうけど。
いまの小学校教育全体で言語下で伝えたいのは母性と自己犠牲なのか?
エビデンスに基づいた教育というのが、まだまだなのかな。
ただ、そのエビデンスのアウトカムをどこに置くかが問題か。
本筋とは違いますが、
歴史の中で桃太郎や浦島太郎が書き換わっていたり、
紫式部は平安後期には源氏物語を作った罪で地獄に落ちていたことになっていたりしてたんですね。
Posted by ブクログ
お母さん要素は少なくて、アレ?となった。
学校関係者から見ると少しオーバーな表現が目立ったが、「お涙頂戴」な教材が現代にも残っているのは確か。
道徳教育、情操教育は歴史的にどういう目的があって始まったのか…たくさんの文献から遡っていて、圧巻だった。
桃太郎を絡め、「男の子はやんちゃで良い」という思想は戦争に出て行ってほしい、という軍国主義教育だったのか!そして「少年」からあぶれた女の子たちは、愛され「少女」として教育された…やっぱり戦争ってクソだな!
今の子育て世代女性の生きづらさ(働かないと生きていけないが、育児の第一責任者としての振る舞いも求められる)はここから来ているのかと。
「可愛いままで年収1000万」?そんなアホな…と思ったら実在する本のタイトルだった。
怖いもの見たさで読んでみようか。
Posted by ブクログ
日本の社会・学校の全体主義について。ごんきつねから組体操、そして二分の一成人式(私は世代じゃないかも)軽いノリで書かれていて面白かったけど情報量すごい。本の装丁とノリに比べて情報量がギャップがある。
母親が神聖化された経緯から少年誌についてのことまで知らなかったことを知れて良かった。
作者のイライラとかツッコミが良かった。学生の時だってこの全体主義には気持ち悪いとかうざいと思うこと多かったから言語化して分析してくれるのありがたい。清々しい。
こんぎつねの粟と松茸は性器のメタファーは面白かったな。
Posted by ブクログ
自分が「お母さん」になってみて、自分の中に組み込まれていた「お母さんとはこうあるべし」像に苦しめられるようになったので手に取った。
引用が多くやや読みづらさはあったのだが、国が母親に自己犠牲的な像を求めたり、子どもにわんぱくであることを求めたりする意図で、メディアが活用されてきたという指摘は目から鱗だった。教科書に掲載されるテキストはなんらかの意図があってのこと…という視点は自分にはなかった。注意深く見ていきたい
Posted by ブクログ
とても興味深いテーマを掘り下げている本でした。
2分の1成人式や組体操を扱った章は、今まで知らなかった情報を得ることができて、面白く読むことができました。
また、歴史的に少年少女像(男像、女像)がどう形作られてきたのか。社会的に望まれる立ち位置と、それぞれの欲望をうまく絡ませた物語が受け入れられるようになってきた背景は面白かったです。
ただ、文章の書き方自体に違和感を覚える部分も多くありました。
特に、「自分の言いたいことを言うために、様々な文献のワンフレーズだけをパッチワーク的に寄せ集める」という論法があまり好きではなかったです。結論は「なるほど」と思うこともありましたが、そこにいたる姿勢は恣意的すぎると感じました。
また、いちいち出てくる皮肉っぽい言い方がもったいない。そのスタンスは別に面白くないし、「私は特別」感がどうしても出てしまい、内容を素直に受け止めづらくなってしまいました。
もちろん、そこが著者の個性でもあるとは思うのですが。
戦時中の愛国詩についてなど、「どうしてそれが生まれたのか」「当時どういう意味を持っていたのか」といった、そうせざるを得なかった背景をきちんとした情報として知りたいところ。
現代の価値観を押し付けるのではなく、過去の価値観を相対化させるように、もう少し客観的かつ理性的に分析してほしかったです。
Posted by ブクログ
「自我を捨てて子供に尽くす『母』は美しい。だからこそ恐ろしい。戦後、愛国心には警戒が払われるようになったが、母性幻想に取り巻かれる現代の一個人が再びファシズムに巻き込まれないためにできることは、自我や自意識がまったく美しくなく、みっともなくて目も当てられないものだとしても、そういうものだとして面白がって愛し、他人のそれも愛することではないだろうか。私たちは皆それぞれに自我のある個人で黙るのでも黙らせるのでもなくぶつかり合いながら、どうにか調整して生きるしかないのだ。『母親だから』と母性幻想の持ち主に自己犠牲を求められたら、ふてぶてしく突っぱねて、女や母親にも自我があることに慣れていただこう。それが世界平和への道だと考える次第だ。」p179
Posted by ブクログ
去年の2月頃炎上しただいすけお兄さんの歌「あたしお母さんだから」に現れる、”お母さんとは我慢、忍耐すべき存在”幻想を産んだ日本の土壌を明治以降の歴史を紐解き解説したジェンダー論。その歴史は浅く、大正デモクラシーの「新しい女」達が自己の解放を求めこぞって自由恋愛に走った結果、敗北したことが起因だった。
何よりも「自由恋愛」相手の日本人男性の精神が追いつかず、結果として女達は家事育児を一切合切背負いこみ、自身が苦しむ羽目に陥る。敗北を認めないためにも自己解放の先を「子供を産み育てる母性」なるものへの賛美にすり替えていく、、、
この頃の女達の使えない夫とワンオペ育児への呪詛が、現代のSNSを賑わすネタに相通じていたことに戦慄。
平成も終わろうとしているこの時代においてもまだまだ日本の母なる存在幻想は変わっていないのだ。