あらすじ
対話型組織開発、教育、心理療法etc.
注目を集める「社会構成主義」最良の入門書
ここに対立を超える鍵がある。
社会構成主義の基礎的な考えはとてもシンプルなようでいて、非常に奥深くもあります。私たちが「現実だ」と思っていることはすべて「社会的に構成されたもの」です。もっとドラマチックに表現するとしたら、そこにいる人たちが、「そうだ」と「合意」して初めて、それは「リアルになる」のです。
あなたは懐疑的にこう反応するかもしれません。
「死が存在しないという意味ですか? この身体も太陽もこの椅子も?」
私たちはここで、ひとつはっきりさせておかなければいけません。社会構成主義者は「何も存在しない」とか「現実などない」と言っているわけではないのです。
重要なポイントは、人が「何が現実か」を定めるとき、常にそれは、あるひとつの文化の伝統から話しているのだということです。確かに何かは起こりました。けれど、それを描写するには、ある特定の文化の観点を通さざるをえないのです。つまり、その文化特有の言語だとか、見方、話し方を通して語らざるをえないということです。
たとえば、「彼のお父さんが亡くなりました」ということを描写しようとすると、普通は生物学的観点から語ることになります。ここで私たちは「起こったこと」を「特定の身体機能の停止」として「構成」しているのです(けれども、医療専門家たちの間でもそれを死と確定することには同意が成立しないかもしれません。移植外科医は、かかりつけの内科医とは別の意見を持っている可能性があります)。
他の文化的伝統においては、「彼は昇天しました」とか「彼は彼女の心の中に住み続けます」とか、「これは彼の生まれ変わりの新しいサイクルの始まりなのです」とか、「彼は苦しみから解き放たれました」とか、「彼は、彼が残した功績という遺産の中に生き続けます」とか、「彼の3人の息子たちに彼の人生は引き継がれます」とか、「この物体の原子構成が変化したのです」などと語られるかもしれません。
こういったあらゆる文化的伝統の外に出てしまったとしたら、私たちはどのように語ることができるでしょうか?
構成主義者にとっては、「何も存在しない」のではなく、「私たちにとっては何も意味しない」ということなのです。他の言い方をすると、「私たちの関係性」によって、私たちの世界は、私たちが「木」「太陽」「身体」「椅子」などと捉えているもので満たされるのです。
もっと広い意味で言えば、お互いにコミュニケーションを取るたびに、私たちは、この生きている世界を構成していると言えるかもしれません。
私たちが日頃慣れ親しんでいる伝統の中にいつづけるかぎり、人生はそのままでしょう。たとえば、「男と女」、「貧富」、「教養がある/教養がない」などのように慣れ親しんだ「区別」をしている限り、人生は、比較的予測できるものであり続けるのです。
しかし私たちは、「当たり前だ」と考えられているものすべてに挑戦することもできるのです。たとえば、「問題」はすべての人の目に見えるわけではありません。私たちが「良し」とする世界を構成していて、私たちが価値を置いていることを実現するのを妨げるものを「問題」と見なしているわけです。
私たちが「問題」として「構成」しているすべてのものを、「チャンス(機会)」として「再・構成」することはできないでしょうか?
ここに、構成主義的考え方の膨大な可能性があります。構成主義者にとって、私たちの行動は、伝統的に真実だとされてきたもの、理に適っているとされてきたもの、正しいとされてきたものに制約されることはありません。
私たちの目の前には、「イノベーション(革新)」への無現の可能性が広がっているのです。これまで現実であるとか良いと思ってきたことを捨て去らなければならないと言っているわけではありません。歴史や伝統に縛られることはないということなのです。
一緒に話し、新しい考えを聞き、問いを投げかけ、別の(代わりの)メタファーを考えることで、新しい意味の世界の敷居をまたぐのです。未来とは私たちが「一緒に創造する」ものなのです。
(第1章より)
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Posted by ブクログ
ガーゲン(Kenneth J. Gergen)が提唱する**社会構成主義(Social Constructionism)**とは、「私たちが現実だと思っていることや知識は、個人の頭の中にあるものではなく、社会的な対話や関係の中で作られていく」という考え方です。
ガーゲンの社会構成主義では、「対話」を通じて人々が現実を共に作り出すと考えます。対話によって、意味や価値が共有され、現実が構築され、さらには既存の考え方が変化する可能性を秘めています。
対話によって構成は変わり、正解がなく、共に作り上げていくんだと改めて思いました。
Posted by ブクログ
社会心理学に社会構成主義social constructionismを浸透させたのが本書の著者の一人ケネス・ガーゲンです。
社会構成主義は色々な思想的伝統の流れが入り込んでいるので,なかなかに掴みどころが難しい立場です。社会構築主義といった社会構成主義と似たような立場もあることで(※),ますます社会構成主義の理解が難しくなっています。しかし,本書では,その難解な社会構成主義を入門書として分かりやすく解説してくれています。
※ 構成主義constructionismが構築主義と訳されたり,構築主義が構成主義と訳されたりすることがあることから,その混乱に拍車がかかっています。
本書における個人的な核心は,第5章「「批判」から「コラボレーション(連携)」へ」で述べられる「構成主義の考えは,『メタレベル』と呼ばれる段階で主に機能しています」(p.178)という点です。
社会構成主義の立場では,「私たちが『現実だ』と思っていることはすべて『社会的に構成されたもの』」(p.20)と考えます(※)。ここから,「すべての現実は存在しないということか」という誤解(批判)が生まれますが,社会構成主義は「現実がない」と言っているわけではありません。
※ 社会的に構成とは,「私たちが互いにコラボレーションを起こすことにより意味も創造が起こる」(p.13-14)ということです。
たとえば,「知能」と呼ばれるものがあります。知能=頭の良さと考えられていることが多いと思いますが,一般的にそれは人間に普遍的に備わっていると考えられています。社会構成主義では,この「知能=頭の良さ」と考えられているものが現実に存在しないと考えているわけではなく,その「知能=頭の良さ」が今現在どのように捉えられているのか,人間には「知能=頭の良さ」が備わっているという考え方にはどのような前提があるのかを説明するための立場が社会構成主義ということです。ちなみに,現在の知能という考え方は個人主義を前提としていますが(ある人に知能が備わっている),社会構成主義の立場にたてば,その知能観はおかしい(知能とは,個人のものではなく,関係の中で創発するものだ)となります。
「知能」の例だと分かりにくいかもしれませんので,すごく大雑把な例としてラーメンで考えてみます。社会構成主義では,ラーメンは社会的に構成されたものと考えますが,これは何もラーメンが存在しないと考えているわけではありません。ラーメンと名指されるものはラーメンと呼んでもよかったし,煮麺と呼んでもよかったし,シルスウトノビルでもよかったわけです。でも,ラーメンはラーメンと呼ばれるし,ラーメンといえば共通してイメージされるものがあります。それがなぜそうなっているのかを(関係の中での言語使用という観点から)考えるのが社会構成主義という立場なのです。
本書は訳書特有の読みにくさも若干あります。また,一般向けを意識したためなのかもしれませんが,原典にある参考文献リストが削除されています。入門書は次の読書への入り口であり,参考文献リストは次の読書への道標であることを考えると,参考文献リストは本訳書にも残しておくか,webサイト等で公開された方が望ましかったように思います。
ただ,「監訳者まえがき」にあるように,難解な学術書しか翻訳されていなかった社会構成主義の入門書としてはおすすめな一冊です。