あらすじ
【複数色を使用したコンテンツです。モノクロ端末では一部読みづらい場合がございます】本書は、米軍の空襲で焦土となった町にたたずむ女性の写真をカバーに掲げ、また、巻頭には、占領期日本の光景を、生々しい写真で伝えることから始まっている。そう、我ら日本人は、ここから立ち上がって来たのだ。著者は、「マッカーサーの顔なんか見たくもない」と言う。この言葉こそ、戦後を生きてきた人びとの反骨心の原点であろう。マッカーサーによる6年足らずの統治下において、さまざまな大変革が成された。そして、それらはいまだに、憲法問題、国防問題、教育問題、沖縄問題、人権問題などなど、世論を二分して、この国を揺り動かしている。先の大戦から70年を経て、日本人にとっては、これらの問題の現代的事情をふまえた解決が、当面の問題となるだろう。そして、新たな国家目標をもって未来に漕ぎ出すために、“あの時代”に行われたことを振り返っておくべきである。著者が祈りを込めて贈る、「日本のいちばん悲しかった日々」。
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掘った芋いじるな→What time is it now? 蛇の目傘→General MacArthur なんて発音を楽しんでたことを思い出しました。 半藤一利氏、渾身の書「マッカーサーと日本占領」、2016.5発行です。1903年陸士を一番で卒業、4年間の平均が98.14点だったというマッカーサー、目立ちたがる身の持しかたで崇敬もされ、嫌忌もされたとか・・・。民主化による太平洋のスイスの建設を。天皇との11度の会談によって戦後の日本の行く末が~。マニラでの本間元中将裁判での夫人の妻としての誇りに感動を。
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本書は、米軍の空襲で焦土となった町にたたずむ女性の写真をカバーに掲げ、また、巻頭の24ページを使って、占領期日本の光景を、生々しい写真で伝えることから始まっている。そう、我ら日本人は、ここから立ち上がって来たのだ。著者は、「マッカーサーの顔なんか見たくもない」と言う。この言葉こそ、戦後を生きてきた人びとの反骨心の原点であろう。マッカーサーによる6年足らずの統治下において、さまざまな大変革が成された。そして、それらはいまだに、憲法問題、国防問題、教育問題、沖縄問題、人権問題などなど、世論を二分して、この国を揺り動かしている。先の大戦から70年を経て、日本人にとっては、これらの問題の現代的事情をふまえた解決が、当面の問題となるだろう。そして、新たな国家目標をもって未来に漕ぎ出すために、“あの時代”に行われたことを振り返っておくべきである。著者が祈りを込めて贈る、「日本のいちばん悲しかった日々」。
戦後日本を考える上で、ダグラス・マッカーサーは避けて通れない人物である。半藤昭和史ファン待望の「マッカーサー論」。
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毎年、終戦記念日前後に読む太平洋戦争関連の本で、今年はこれまでに読んだことがなかった終戦から占領期に関する本をピック。その期間で欠かすことの出来ないのが占領軍GHQの最高責任者、マッカーサーという存在。賛否あれども、現代に続く日本の戦後の行く末を決定づけたと言える。著者は、当時の日米政府の記録や関係者の著作と関連本、昭和天皇の通訳の日記、そしてインタービューを通して、マッカーサーがどういう意図を以ち、どのような背景で主要な意思決定を行ったのかに迫っている。
傲岸不遜でナルシストであり、野心家でもあったマッカーサーだが、経験なクリスチャンでもあり、自由を信奉する民主主義者でもある。日本の降伏調印がなされた戦艦ミズーリの艦上で行ったスピーチでは自由と寛容、正義を訴えている。マッカーサーに対する評価は賛否が分かれるが、少なくとも日本がドイツのように戦勝国に分割統治される事なく戦後も国体を維持して現在に至るのは彼のおかげである事は間違いない。実際、ソ連は執拗に北海道へのソ連軍駐留をアメリカに求め、トルーマン大統領はマッカーサーが必要とすれば、という条件でソ連に一旦譲歩している。それを不要と一刀両断したのがマッカーサーである。もしマッカーサーが政治的な妥協をして駐留を認めていたら、今でも北海道の一部、いや全土がロシア領となっており住民はロシア語を話すことを強要されていたかもしれない。
昭和天皇とは11度にも及ぶ会談が行われたという。当時店頭は齢44、マッカーサーは65歳と親子のような年齢差である。天皇はマッカーサーとの男同士の約束という事で、生涯その内容について語ることは無かったという。著者は、会談に陪席した通訳の日記やインタービューを本書でまとめている。
本書を読んで初めて知ったのが、天皇は最初の会談で自ら戦争責任を認め、自分の身がどうなっても構わないとマッカーサーに身を委ねたという事だ。マッカーサーは、保身や命乞いをせずに自ら覚悟を以て戦争の責任を負い込んだ天皇に対して好感を抱いたという。終戦直後は、天皇をどのように処遇するのかについてアメリカ国内、そして戦勝国の間でも大きな議論となっていた中、世界の世論は処罰すべきとの声が多数派だったという。最後は米議会からマッカーサーにその判断が委ねられた。書中、マッカーサーは、天皇の戦争責任よりもルーズベルトの方がはるかにその責任が重いと考えてたと帰されている。占領統治への影響などを考慮し、最終的には天皇を戦犯として裁かれることは回避されたのである。
昭和天皇の戦争責任は未だに議論されるトピックではあるが、既に本人はそれを受けて入れていた事はあまり知られていないのではないか。それを知っただけでも本書を読んだ意味はある。
一方で、マッカーサーと天皇の間では政治的な意見交換もなされており、その中には現代でも尾を引く重大な事項である沖縄の米軍駐留も含まれている。当初、米軍の駐留について日本政府は国内どこでも構わないという姿勢であったが、天皇は沖縄であるべきだと進言したという。以降、昭和天皇の沖縄訪問は叶わなかったが、後に倒れた際にベッドの上で「沖縄に行かなければならない」と言っていたという。当時から今に至るまでの国際情勢と地政学の大局的視点での進言だったのであろう。しかし、この件も現代のメディアの報道からは全く伝わってこない。
ここまでは、著者もマッカーサーの自由と寛容を軸とした政治的判断と占領行政が結果的には日本にとって最悪のシナリオとはならなかった事に対して、概ね評価をする論調であった。
一方で、マッカーサーの経歴において唯一かつ最大の汚点となり屈辱となったフィリピンでの敗北が、A級戦犯裁判において彼の私的復讐に向かわせた様子が克明に描かれている。フィリピン攻略の総責任者であった本間雅晴中将に対しては徹底的にそのターゲットとされた。本間はバターン死の行進をはじめとする身に覚えのない50もの罪状で訴追され、何を言っても聞き入れらない弾劾裁判にかけられ有罪となっている。本間は運命として理不尽を受け銃殺刑に臨んだ。本書は黒い頭巾を被され12人の兵が銃口を向ける前に立たされた彼の最後の気迫のこもった一言で終わる。「さあ、こい」
後生忘れられない一言となった。
Posted by ブクログ
前置き「青い眼の大君」として君臨し敗戦国民の尊敬と好意を受けた。朝鮮戦争で半島ほとんど制圧されてから巻きしたが硬直状態になって、原子爆弾の使用を進言して解任されたと言われている。
マッカーサーは彼のフィリピン防衛失敗を本間雅春の軍事法廷で復讐した。
天皇を「国際法違反」で戦犯とするのは、国際法に則ったものなのか?