あらすじ
哲学は「現実の本質」と、「私たちがいかに生きるべきか」から始まる。これらはソクラテスの懸念だった。古代アテネの市場で厄介な質問をし、人々に人々自身が真に理解したことがほとんどないことを示すことによって、彼は会った人々を困惑させていた。
本書では、ソクラテスやプラトン、アリストテレスから、現代の哲学者ピーター・シンガーまで、平易な文章でわかりやすく、バックグラウンドについても触れながら、西洋哲学史における偉大な思想家たちの、世界と、最良の生き方についての主要なアイデアを案内する。
また、チャールズ・ダーウィンについて扱っていることも本書の特徴のひとつだ。
ダーウィンは哲学者ではなく、「進化論」の発見者として著名だが、『種の起源』の発刊によって、神や人間についての思索に大きすぎる転機を与えたことから章をさいて触れている。
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哲学者がやっていることは難しい質問をし、理由や根拠について考え、実在の本質について、また、いかに生きるべきかについて自分自身に問いかけ、そうした重要な問いに答えを出そうとすること
プラトンのイデア(概念)論
例 完璧な円を考える時、人々は目で見た綺麗な円を考えるが、その現象は実体ではなく不完全であり、哲学者ならば円のイデアを理解しなければならない
ソクラテスは偉大な語り手、プラトンは並外れた書き手、アリストテレスは好奇心の塊
アリストテレスはプラトンのイデア論を拒んだ
猫を理解するにはイデアについて抽象的に考えるのではなく、本物の猫を見る必要があると
人間には最もふさわしい生き方があり、それは理性の力を使って生きることだと結論づけた
アリストテレスは賢すぎるあまり、多くの人がそれを真実としてしまい疑うこともなかった、それは権威による真実であり哲学の精神にも反する
懐疑論者ピュロン
人は何も知らず、知らないことさえわかっていないから真実と思い込んでいることに頼るべきではない
現象が人々を欺くと考えるピュロンはどんな危険に直面しても落ち着いて無関心でいられた
真実がわからないのなら、心配する必要はない
世界がどのようなまであるのか、実存の本質を知ることはできない。そして、どんな見解にも固執すべきでない。幸福になるには欲望を忘れ、結果を気にかけるのをやめるべき。重要なものなど何もない。
本能さえも無視すべきだと言うピュロンは人が生きていく上で難しいが定説(ドグマ)を疑うと言う点では偉大な哲学者の共通点である
エピクロスは苦しみを取り除き、幸福感を高めれば人生はもっと良くなると考えた。よってライフスタイルを簡素にし、周囲の人々に親切にして、友人に囲まれて暮らすのが最良の生き方だ。
死とは単に物質からなる肉体の個体が存在しなくなるということで生まれる前と一緒である、罰を受けることがないと信じれば死を恐れる必要はないと納得できる。
ストア派の理論
何が起こるかはコントロールできないが、それにどう対応するかはコントロールできる、責任が生じる。感情の抑制。
セネカは人生が短いと腹を立てるのではなく、短い人生を最大限に活用すべきだと考える。コントロールを失い、意味と価値のある経験をする時間を見つけることなく、日々の出来事をやり過ごしていくのは、真に生きることとは違う
ストア哲学は心理療法として不満を軽減してくれる一方、薄情で冷淡で大事なものを失われたように思えてしまう。
アウグスティヌスは日々哲学を考えるうちに、なぜ神は悪の存在を許しているのかと考えた
神は悪を防ぐ力があるが、神は人間に理性、自由意志、選択の余地を与えたため私達は自由であり、倫理を欠いた悪は私たちの選択の結果である。
哲学の慰め
ボエティウスは死を待つ身でも哲学をここに記した。真の幸福は富や権力といった運によって巡るようなものを拠り所としてはいけない。もっと堅固で、奪われることのないものから生まれなければならない。ボエティウスは神が全知全能で私たちが何をするのかを自由に選べているようでそれは神が予定していて知っていることだと考える。これは複雑な問題でパラドックスと呼ぶ。独房にいる女性[哲学]は言う、人間の自由意志は存在していて神は何が行われるかを知っているが、神は過去、未来、現在を時間超越して一つのものとして捉えているから私たちがどう行動するか、何を選択するかによって、私たちを見極めていることを忘れてはいけない。
アンセルムスは神の概念抱く時点で存在を証明しているという存在論的証明を主張した。想像の神のが実在する神よりも偉いわけがなく、だから神が存在するに違いない。しかし、これに説得力はない。
アクィナスは神学大全の中で第一原因論を唱えた。全ての原因を作り出し出す原因があり、それを遡っていくと全て神に辿り着くという考え。
マキャベリの君主論
権力の座にとどまるためにはどんなことも許され、いかに善をなさないかを学ぶべきである。
ボルジアは敵の殺害や指揮官の殺害をもって望んだ結果を引き出し、それ以上の流血を阻止した。残酷とはいえ、すばやい行動によって権力の座にとどまった。マキャベリにとっては手段よりもこうした結果が大事だった。
ホッブズは穏やかな性格の持ち主だったが、マキャベリ同様に人間は自己中心的であると低く評価した。無法の自然状態であれば誰もが盗み、殺すと。
リヴァイアサン
聖書に出てくる巨大な怪物に対して、主権者を頭部とした小さな人々が集まった巨人が戦うという内容。
主権者がいなくなれば崩壊し、人々はばらばらで生き残るために傷つけ合うようになってしまう。だから自然状態の安全を守るために個人には、他者と一緒に働き、平和を求める理由ができる。
しかし、ホッブズの理想は独裁主義国家であり、個人に多くの権限を与えるのもまた危険である。
デカルトの方法的懐疑
もし真実でない可能性がわずかでもあるなら、受け入れないということ。デカルトはピュロンのような確かなものはないとないという懐疑主義ではなく、懐疑論でさえ揺るがすことのできない信念があることを示したかった。
感覚を通して得られる証拠は感覚に欺かれた経験があり、確信が持てない。
今目覚めた状態でこれを読んでいるということも方法的懐疑に当てはめると、完全に確かなものではないので受け入れられない。
どんなに馬鹿馬鹿しくても悪魔が欺いている可能性を証明するのは不可能なものばかり。そして辿り着く、私が思考しているのだから、存在しているはずだと。
神が私たちの心に神という概念を植えつけたのだと神を確信した。
パスカルはキリスト教擁護者であり、自分を神学者と捉えていた。自由意志もなく、運命によって天国に行けると信じた。
パスカルの賭け
神の存在に賭けるべきである。もし神がいれば死後、永遠の至福を得られる可能性があり、もしいなかったとしても、いないと思っていていた場合に地獄に落ちて永遠に拷問を受けるよりは損失が少ないという考え。
スピノザは神が無限であるならば神でないものは存在しえず、神がいるならば石も人間もアリも神の一部である。
伝統的に信者は神を擬人化し、人間的特質を当てはめている。しかし、スピノザは神は人間に無関心で神からの愛を期待してはならないと考えた。神が人間を愛さないのは無視論しかありえないが、スピノザは理性によって神を愛した。
私達は何をするのか自由に選択し、コントロールしていると思っているが、それは選択や行動がどのように起こるかを理解していないからだ。つまり、自由意志など幻想であり、自由などない。
スピノザは決定論者であったものの、人間の自由は限られた範囲では可能かつ望ましいと信じた。最悪なのは感情に支配されること。感情が外的出来事ではなく、自分自身の選択によって生まれるのがもっとも良いとした。これは完全に自由でないものの受動的であるより能動的である方がいい。
神は自然である。
ロックは何を持って赤ん坊の頃と同じ人物と言えるのか悩ませた。動物として人間であり続けるのは事実。
しかし、人格は以前とは同じではない。
人格同一性についてのロックの姿勢は同じ記憶があれば同じ人格であるということ。
老兵士は勇敢だった若い士官だった頃を覚えていて、若い士官だった頃は果樹園からりんごを盗み殴られた少年の頃を覚えていて、老兵士は少年の頃を覚えていない。
これをロックの理論で言うと老兵士=若い士官、若い士官=少年、しかし老兵士≠少年というように破綻してしまう。
人格の同一性はロックが考えたような完全な記憶ではなく、部分的に重なる記憶を拠り所としているだろう
ロックは人間知性論で世界は私たちの観念の表れであるが、世界が自分に見える通りであるのは一部分に過ぎないと唱えた
バークリーによれば誰にも見られなくなったものは存在しなくなる。外の世界に関するあらゆる概念は不合理である。
ジョンソンはそれに対してこう言う。石を蹴ると、石は動くし、石は存在している。つま先に痛みも感じた
それに対してバークリーは足の硬さを足に感じたからといって物体が存在する証拠にはならない。ただ硬い石という観念が存在する証拠でしかない。つまり、そこに実体はなく、私たちの観念の背後に実体は何もない。
ロックは第一性質(形や大きさなど)と第二性質(色や知覚器官によるもの)と分けて第一性質は実態の世界にあると考えた。
バークリーは世界とその中にある全てはわたしたちの心の中だけに存在すると考えた。存在するとは知覚されること。だが物体が存在したり無くなったりするのが変だとはわかっていた。そこで神が常に世界にある物体を知覚しているのでそれらが存在し続けると考えた。
ポープやライプニッツは神は最善の世界を作った。最小限の悪を用いて、善が最大になるようにしたのだと楽観主義を唱えた。
ヴォルテールは小説カンディードによって楽観主義を嘲笑った。ライプニッツの主張が真実というには世の中の苦しみはいくらなんでも多すぎると。
物語の結論として抽象的で哲学的な問題についてただ話し合うのではなく、人類にとって有意義なことをするというメッセージが「ぼくらの畑を耕さなくちゃなりません」と表現された。ヴォルテールが情熱を燃やしたのは不正の根絶であり、冤罪の人を助けることがぼくらの畑を耕すことであった。
ヴォルテールは無神論者というわけでもなく、既成の宗教を嫌っていたものの、神の存在と計画の目に見える証拠が自然界にあることを信じる理神論者だった。
ヒュームはデザイン論(複雑な自然や動物の器官などをデザインする力を有するのは神しかいない)を批判した。全知全能で善なるものが存在するという結論にいたる十分な証拠を示していないと。
ルソーは人間は本来、善なる存在であり、自分のしたいように森で暮らせれば大した問題は起きないと考えた。都市に身をおいた途端、嫉妬と強欲が生まれ、文明が人間を堕落させたと感じた。
社会契約論で設定した課題は国の法律に従いながらも、誰もが社会の外にいた時と同じように自由でいられるような共生の道を見つけることだった。一般意志という概念。
一般意志とはコミュニティ全体にとって最善のもの。税金を例に挙げると低ければ低いほどありがたか感じるのは全体意思であり、私利を忘れ、社会全体の利益に注目して、良いサービスを提供するのに十分な高さであるべきだということになる。
一般意志に同調できないならそれは真の自由ではない。…拘束しているようにも見えてしまう…
カントは現実とはどんなものなのか、物事のありようの全貌を見ることは決してできないと考えた。物自体の世界は直接認識できず、現象の世界が見えてるだけ。カント以前の現実の本質を研究した哲学者たちは、現実とは経験がもたらすわたしたちの存在を超えたものだと考えていた。しかし、カントは理性の力によってあらゆる経験を着色する心の特徴を知ることができると考えた。
カントは道徳的行為と感情は無関係であると考えた。困っている人を助ける時も気の毒だから助けるのは道徳的行為ではない。殺人鬼に追われた親友を家に隠しておってきた殺人鬼に公園に逃げたと嘘をつくのも道徳的ではない。真実を述べて道徳的義務を果たすべきだと考えた。
カントはアリストテレスのように理性の力で生きるのは問題を曖昧にするものであると考え、感情ではなく、冷静な論理に基づき正しいか正しくないかを考える。
ベンサムは功利主義であり、快楽だけが本質的に良いものであると考えた。快楽から苦痛を引いて残った幸福値を功利と呼ぶ。功利を比較して最大の幸福をもたらす行為を選ぶようにすれば良い。カントのように嘘をつくなと義務付けるのではなく、嘘をついてでもより大きな幸福を得られるならそれは道徳的に正しい行為である。
幸福な擬似体験のできるバーチャルの世界に繋がれ続けるのが正しい行為?という批判
ヘーゲルはカントの考え方を否定し、心が形作る現実がまさに現実であり、その向こうには何もないと考えた。
ヘーゲルは真理とは常に自己理解という目標に向かって進み続ける、歴史は決して偶然のものではないと考えた。例えば主人と奴隷の関係だと主人は自意識を持つ個人として承認されたいと思い、そのために奴隷を必要としている。だが、奴隷も同じように承認されるに値することに気づかない。こうした不平等な関係は片方が死ぬといった争いにつながり、それは自己破壊である。結局主人と奴隷は互いを必要とし、互いの自由を尊重しなければならないとわかるようになる。
ヘーゲルはプラトンのように哲学者が特別であり、国家を統治すべきであると考えた。
ショーペンハウアーはわたしたちは表象としての世界にしか存在することができないと考えた。人を傷つければそれはすべての人々を結びつける生命の力の一部を壊すことになる。つまり、他社は自分の外部にあるのではなく、他社は意志としての世界の一部であると。願望の循環に折り合いをつけるには禁欲主義者になること。東洋の多くの宗教的考え。
実際にショーペンハウアーがそうすることはなかった。
ミルはベンサムの功利主義に賛成したが、幸福を快楽とするのは単純すぎると考え、低次と高次の快楽を区別した。しかし、この区別に基準がない。
最大限の幸福を実現するには他人を干渉せずにおくことだと考えた。天才は風変わりと思われることが多いが、その成長を阻害すれば社会に大きな損失となる。
もちろんそれは人を傷つける可能性がない場合にのみであり、不快と傷つけることは違うとはっきり区別した。
しかし多くの人がミルに反対で個人主義的すぎる、偏っていると。人はどう生きるかの選択肢が多すぎると自滅的な決断をする人が多いと。
ダーウィンは人間が神の創造ではなく、猿の子孫であることを提唱した。人間は特別でなく、自然の一部であると。今では当然だが、当時は驚くべきことだった。
これにより、神は存在しないと考えるのがこれまでにないほど容易になった。
しかし、ダーウィンは神が存在するかどうかについて柔軟に考えた。人間の知恵で解くには深すぎる、結論を出す時ではないと。
キルケゴールはキリスト教信者だったが、信仰のために倫理を捨てるべきではない場合もあると信じていた。
マルクスは資本家階級と労働者階級の大きな格差に憤りを感じ、共産主義を到来することを望んだ。宗教を抑圧されているという真実に気づかせないための麻薬と考えた。
マルクスはこれまでの哲学者が世界について説明しただけだと考え、自分は暴力革命により世界を変えたいと考えた。
しかし、人間は競争を望み、欲深くなるから、共産主義国家で十分に助け合う可能性はなかった。
ジェームズは実質的に違いがなければ、真理などないと考えた。真理とは役立つもの、生活に有益な影響力をもたらすものだった。
従来は真理とは事実と一致すると考えられていた。
神が存在するというのは真理だろうか。
パスカルと似ているがジェームズは神が存在することで人間に良いことが多いから存在することが真理になる。
しかし、この論理だと真理とは主観的なものであり、実際に世界がどうであるかではなく、わたしたちがどう感じるかの問題になってしまう。
ニーチェは神は死んだとして神の死後の世界を考えた。いかに生きるべきか、基準を失い、何をしても良くなる。一方利点は、独自の生き方を追求し、人生を芸術作品に仕立て上げることができる。
弱者を憐れむキリスト教の道徳より、強く好戦的な英雄を称えることを好んだ。
ナチスの手助けに。
フロイトは無意識の発見をした。神を信じる人は日々神の存在を感じ、神が存在するから神を信じると思っているかもしれないが、それはあなたが幼い子どの頃に感じたような保護を必要としているために神を信じている。大事にしてもらいたいという無意識の欲望がもとにある。
これに対してポパーは反証可能性がないと批判した。
どんな観察をしてもすべてが理論を裏付ける証拠とされ、その理論が間違っているという証拠が存在する可能性がないなら、その理論は科学的ではないと。
ラッセルは神は存在せず、宗教は人に不幸をもたらすと考えた。
ラッセルは集合論と呼ばれる数学と倫理学の一分野に魅了された。集合論でパラドックスを発見した。
例 この文は間違っている
上の文が間違っているなら上の文が言っていることは正しい。つまり、真であり偽であるのだ。
第一原論の神の存在の原因のように。
エイヤーは意味の有無を区別する方法、検証原理を見つけた。その方法は
1それは定義によって正しいか
2それは経験的に検証できるか
どちらでもないならそれは意味がない
兄弟はみんな男だ 1にあたる
哲学者の何人かは口髭がある 2にあたる
この部屋には痕跡を残さない見えない天使がいる
1にも2にもあたらないから意味がない
エイヤーは道徳的な判断は全く馬鹿げていると結論づける
例えば 拷問は間違っている 1ににも2にもあたらない 意味がない
神は存在する というのも同様に意味がない
サルトルは人間は自由であると考えた。人間に本質はなく、あるべき特定のあり方はない。どうなってもその人のせいである。人間であることに伴う責任の重さから逃れる術はない。
人間の実存は無意味なものであり、わたしたちそれぞれが自分の選択によって意味を作り出すしかない。
ヴィトゲンシュタインは言葉が様々な意味で使われること、哲学者は全ての言葉が同じような働きをすると考えるせいで混乱していることに対して注意を促した。
アーレントはナチスの党員のアイヒマンに悪の陳腐さをみた。アイヒマンはただ命令に従い、法律を守っただけではあるが非倫理的な命令に従った。ここで恐ろしいのは、アイヒマンがあまりにも平凡に見えたことであろう。
帰納法は観測結果の選定から包括的な結論に到達するという立証法
4週連続火曜日に雨だったら火曜日は雨が降るという結論に至る。しかし、次の週雨が降らなかったら覆される。帰納の問題。
ポパーは科学は帰納法に依存しないと考えた。仮説の重要な特徴は反証可能性あるということ。反証可能性がないならそれは科学ではなく、知識をもたらさない。
通常科学とパラダイム
地球は平面が通常科学であったなら丸いと考えることはパラダイムシフトとなる
フットのトロッコ問題では多くの人がレバー引くべきと考える。しかし、一人を線路に突き落として五人を使う場合は多くの人は突き落とさないと答える。
なぜか。二重結果の原則がひとつの説明になる。
一つ目の例は容認されうる意図があって、実行の結果相手が死ぬだけ。
二つ目の例は相手を殺す意図があり、容認されない。
ロールズは共存社会を目指し、自分本位なバイアスの力を弱める思考実験を思いつき、それを原初状態と名付けた。自分がどのような立場や人物であるのか知らない状態ならばより公正な方針を選ぶだろうと。自由と平等の原則。人々の能力は運だからそれが報酬の格差を生む理由にならない。
サールは中国語の部屋の例からチューリングテストからコンピュータが理解していることを否定した。コンピュータは考えて、意味を理解しているのではなく記号処理をしているだけで記号に意味を与えていないと。
シンガーは池の子供は助けるのに貧しい子供のために寄付をしないのかを問う。動物は苦痛を感じる能力あり、人は植物を食べるだけで生きれるのだから肉を食べる必要がないと考える。ラットを実験に使うなら脳を損傷した人間も実験に使えるのか。
シンガーはソクラテスのようにリスクを負って、議論をしてきた。これこそが哲学発展に必要なことであるる。
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セネカの考え方は違う。セネカはキケロのように多彩で、哲学者であると同時に、劇作家であり、政治家であり、成功した実業家でもあった。セネカにとって、問題は人生がいかに短いかではなく、わたしたちのほとんどが与えられた時間をうまく使っていないことだった。つまり、ここでも避けられないことについて、どう考えるかが重要になる。人生が短いと腹を立てるのではなく、短い人生を最大限に活用すべきなのだ。たとえ、100年生きられたとしても、いまと同じように人生を無駄にする人もいるだろう。それでいて、人生は短すぎると不満を漏らすに決まっている。だが、正しい選択をすれば、すなわち、無駄なことをして浪費しなければ、人生は多くを成し遂げるのに十分なほど長い。それなのに、わたしたちは金銭を追い求めるのに多大な労力を費やしてほかのことをする時間がなかったり、自由になる時間は酒やセックスに溺れたりする。
年をとってから気がついても遅すぎる、とセネカは考えた。白髪や皺は、多くの時間を価値あることに使った証明にはならない。一方、そうであるかのように勘違いをして振る舞う人もいる。だが、航海に出ても、暴風によってこっちへあっちへ翻弄されれば、船旅に出たとは言えず、波にもまれているにすぎない。人生についても同じだ。コントロールを失い、意味と価値のある経験をする時間を見つけることなく、日々の出来事をやりすごしていくのは、真に生きることとは違うのだ。
十分に生きれば、年老いたときに過去を恐れる必要がない。時を無駄に過ごせば、自分がどのような人生を送ってきたかを振り返って考えたいとは思わないだろう。取り逃したチャンスに思いを馳せるのはあまりにつらい。多くの人たちが、つまらない仕事に没頭するのはそのせいだ、とセネカは考えた。成し遂げられなかったことを認めるのを避けられるからだ。そこで、読者には、集団から距離を置くこと、忙しさにかまけて自分自身から目を背けないことを勧めた。
それでは、セネカは、わたしたちがどのように時間を使うべきだと考えたのだろうか。ストア哲学では、世捨て人のように他者から離れて暮らすのが理想とされた。もっとも有意義に生きるには、哲学を学ぶべきだと鋭い指摘をした。それこそが真の生き方だというのである。
ルソーの一般意志の意味は誤解されやすい。現代での例ではこう考えられるだろう。ほとんどの人は問われれば、高い税金を払わないで済むほうがいいと言う。実際それは、政権をとるためによく使われる手で、単純に税率を下げるという公約が掲げられる。収入の20パーセントを税金として払うのと、5パーセントを払うという選択肢を与えられたら、たいていの人は低い額のほうを選ぶだろうう。だが、それは一般意志ではない。みんなに聞いた結果、みんなが欲しいと答えたものは全体意志である。一方、一般意志とは、みんなが利己的に、自分のためになると考えるものではない。一般意志が何かを理解するには、私利を忘れ、社会全体の利益、つまり公益に注目しなければならない。道路の維持のような多くのサービスのために税金が必要なことを受け入れれば、それを実現できるよう高い税金を課すことは、コミュニティ全体にとって有益になる。税金が少なすぎれば、社会全体が損害を被る。つまり、一般意志は、税金は良いサービスを提供するのに十分な高さであるべきだということになる。
人が集まって形成された社会は、ある種の人格を持っている。個人は、より大きな全体の一部だ。ルソーは、一般意志に沿うような法律に従うことが、社会のなかで真に自由であり続ける道だと考えた。法律は賢明な立法者によって制定される。立法者の役目は、個人が他者を犠牲にして利己的な利益を追求するのではなく、一般意志に沿うことができるような法制度を作ることだ。ルソーにとって真の自由とは、コミュニティ全体の利益になるよう行動している人々の集団の一員になることである。人々の望みと、全体にとって最善のことは一致するべきであり、法律は自分勝手な振る舞いを防ぐ助けになってしかるべきだ。
だが、もしあなたが都市国家にとって最善のことに反対だったらどうだろう。あなたは個人として、一般意志に従いたくないかもしれない。ルソーはこれに対する答えを用意していた。とはいえ、それは、大抵の人が聞きたがらない答えである。よく知られているように、そしていくぶん困ったことに、ルソーはこう言っている。法律に従うのがコミュニティにとって有益だということが受け入れられないのであれば、その人は「強制的に自由にさせられ」なければならない、と。ルソーが言いたかったのは、誰であれ、社会にとって本当に利益になることに反対する人は、それが自由な選択のつもりかもしれないが、一般意志に同調して従うのでなければ、それは真の自由ではないということだ。どうしたら、人を強制的に自由にできるだろうか。わたしがあなたに、本書の残りを読むよう強制したら、それはあなたにとって自由な選択とはいえないのではないだろうか。誰かに何かを強制するのは、自由な選択とは全く反対のことである。
だが、ルソーにとってこれは矛盾ではなかった。何が正しい行いかわからない人は、強制的に従わさせられることで、より自由になれる。社会に属する人は誰でもこの大きな集団の一員なので、従うべきは自分勝手な選択ではなく、一般意志だというのを受け入れる必要がある。この考え方によると、たとえ強要されたのだとしても、一般意志に従って初めて人は自由になれると言える。
連合国軍がドイツを破った、まさに再出発の時だった。戦争が終わったことも、過去を捨て去れなければならないと感じることも救いだった。どういう社会をつくるかを考えるべきだ。戦時中に起こった惨事のあとで、あらゆる人が「生きる意味とは何か」「神は存在するのか」「自分はつねに周りの期待に応えなければいけないのか」といった哲学者が問うような問いについて考えた。
サルトルはすでに、長編で難解な『存在と無』(1943)という本を書き上げ、戦時中に出版していた。中心となるテーマは自由だった。人間は自由である。これは妙なメッセージだ。フランスは占領下にあり、多くの人々が自国にいながら自分を囚人のように感じていたし、実際に囚人のようなものだったからだ。サルトルが意味したのは、たとえば小型のナイフとは異なり、人間は特定の目的のためにつくられたのではないということである。サルトルは人間をデザインしたと言われる神の存在を信じていなかったので、神が意図をもって人をつくったという考えを否定した。小型ナイフは切るためにデザインされている。切るということが本質で、それが小型ナイフを小型ナイフたらしめている。では、人間は何をするためにデザインされたのだろうか。人間には本質がない。人間は理由があって存在するのではない、とサルトルは考えた。人間であるために、あるべき特定のあり方はない。人間は何をするか、何になるかを選べる。誰もが自由だ。どんな生き方をするかを決められるのは自分しかいない。ほかの人に生き方を決めてもらうにしても、それもまたひとつの選択だ。ほかの人が期待するような人になるという選択なのだ。
もちろん、何かをする選択をしても、それが成功するとは限らない。成功しない原因は、自分ではどうしようもないことかもしれない。だが、それをやりたいと思ったこと、やろうとしたこと、実現できなかったことにどう応じるかは、自分自身の責任である。
自由は扱いが難しい。わたしたちの多くは自由から逃げ出してしまう。ひとつの方法は、自分はあまり自由ではないふりをすることだ。サルトルが正しければ、わたしたちには言いわけは許されない。自分の毎日の行動や、それをどう感じるかはすべて自分の責任だ。どんな感情を抱くかもである。いま悲しい思いをしている人も、サルトルによればそれは選択である。悲しまなければいけないのである。悲しいなら、それはその人のせいだ。恐ろしいことだし、あまりにもつらくて直面できない人もいるだろう。サルトルは、わたしたちが「自由を宣告された」と言う。好むと好まざるにかかわらず、わたしたちはこの自由から逃れられない。
「ゲーム」という言葉について考えよう。ゲームと呼ばれるものにはいろいろある。チェスのようなボードゲーム、ブリッジやソリティアなどのカードゲーム、サッカーのようなスポーツなどだ。かくれんぼや、ごっこ遊びもそうだろう。どれも「ゲーム」という言葉で呼ぶために、すべてに共通のひとつの特徴、すなわち「ゲーム」という概念の「本質」があるように思われがちだ。だが、ヴィトゲンシュタインは、思い込みをやめて「よく観察るすように」と読者を促す。ゲームにはすべて勝ち負けがあると思うかもしれないが、ソリティアはどうだろう。壁にボールを投げて跳ね返ったのをキャッチする遊びは? どちらもゲームだが、敗者はいない。では、ルールがあるのがゲームの共通点の共通点だろうか。いや、ごっこ遊びにルールはなさそうだ。共通する特徴になりそうなものすべてに対して、ヴィトゲンシュタインは反例、つまり、その要素をもたないゲームを挙げる。全てのゲームがひとつの共通点をもつと想定するのではなく、「ゲーム」という言葉を「家族的類似の用語」と捉えるべきだと、ヴィトゲンシュタインは考えた。
ヴィトゲンシュタインは言葉を一連の「言語ゲーム」として説明することによって、言葉がさまざまな意味で使われること、哲学者はすべての言葉が同じような働きをすると考えるせいで混乱していることに対して注意を促した。ハエにハエ取り瓶からどうやって出るかを教えるというのが、ヴィトゲンシュタインの哲学者としての目的だった。典型的な哲学者は、瓶に閉じ込められたハエのように、壁にあちこちぶつかりながら、あたふたしている。哲学的な問題を「解く」方法は、コルク栓を抜いてハエを出してやることだ。ヴィトゲンシュタインは、哲学者たちが間違った問いを立てている、または言葉に惑わされていると教えたかったのである。
科学者は、わたしたちの多くと同じように、間違いから学ぶ。現実についてのある見方が誤りだとわかったとき、科学は進歩する。ポパーの観点はこのふたつの文章に表されている。これこそが、人間が世界の仕組みを知るもっとも可能性の高い手段だとポパーは考えたのだ。ぽパーがそうした考えを示すまで、ほとんどの人が、科学者は世界のありようを直感で思いつき、その後、それが正しいことを示す証拠を集めるものだと思っていた。
ポパーによれば、科学者は自分の理論の誤りを証明しようとするのだという。理論をテストするには、その理論が反証される(あるいは偽であることが示される)可能性があるかも確かめなければならない。大胆な推測を立て、それを一連の実験や観察によって覆そうとするのが典型的なやり方だ。科学は創造的で、刺激的な活動だが、真実を証明するわけではない。誤った見解を除外して、願わくは、その過程で真実に近づこうとするのである。
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哲学を発展させてきた偉人40人の思想を相互への影響も交えながら時系列で紹介し、哲学がどのように始まり発展し、そして社会に影響を与え、与えられたかを紹介している。
各章はとても短いのに、哲学者たちの思想を端的にまとめている。そして次の章への橋渡しがとてもうまい。
ちょっと残念に思ったのは、ところどころ著者自身の意見や感想が入ってしまっているところ。
哲学の知識があれば公正に見れるのだろうが、初見の人にはミスリーディングになりかねない。
内容はこんな感じ(区分は適当です)
古代ギリシャ・・
ソクラテス、プラトン、アリストテレス、ピュロン、エピクロス、ストア派、
キリスト教時代・・
アウグスティヌス、ボエティウス、アンセルムスアクィナス
中世ヨーロッパ・・
マキャベリ、ホッブス、デカルト、パスカル、スピノザ、ロック、リード、ライプニッツ
近代ヨーロッパ・・
ヒューム、ルソー、カント、ベンサム、ヘーゲル、ショーペンハウア、ミル、ダーウィン、キルケゴール、マルクス、パース、ジェームズ
大戦前後・・
ニーチェ、フロイト、ラッセル、エイヤー、サルトル、ヴィトゲンシュタイン、アーレント、ポパー、フット、トムソン、ロールズ、チューリング、サール、シンガー
気になった言葉
・私たちは人生の楽しみを増やすのでなく、よりよい人間になり、正しい事を成すべきだ。
・自然状態の個人には、他者と一緒に働き、平和を求める理由ができる。それが自分を守る唯一の方法だからだ
・感情が外的出来事でなく、自分自身の選択によって生まれるのがもっとも良いとした。
・人を欺くとは欲しいものを得るために人を利用する事だ。それが道徳的原則であるはずがない。
・もしブタが本を読むことが出来れば、泥の上を転がるよりもそちらを好んだだろう
・人間であることに伴う責任の重さから逃れる術はない
・ジョンロールズ 正義論