【感想・ネタバレ】八幡炎炎記のレビュー

あらすじ

炎々と天を焦がす製鉄の町・北九州八幡を舞台にした著者初の自伝的小説。敗戦の年に生まれたヒナ子は複雑な家庭事情のなか、祖父母のもとで焼け跡に逞しく、土筆のように育っていく。

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Posted by ブクログ

ネタバレ

 黒澤明が監督した最後から二つ目の映画「八月の狂詩曲」の原作者が村田喜代子。原作の名は「鍋の中」(文春文庫)。

長崎の被爆者の老婆と孫の姿を描いた秀作だが、その映画には、主人公「鉦おばあちゃん」のハワイにいる孫、クラークを演じたリチャード・ギアが「もうアリとは共演しない」と言い残したという後日談がある。蟻の行列を撮影するための待ち時間が余りにも長かったという、撮影の苦労話なのだが、映画がクローズアップした「蟻」とは原作者村田喜代子にとって何だったのか。

彼女の自伝的長編といわれている近著、「八幡炎炎記」・「火環-八幡炎炎記完結編」(平凡社)にその謎解きがあった。

《ミツ江と駆け落ちしなければ、克美は毎朝のこの時間に店の前を掃いて掃除をしていたので、たぶん彼は直接、熱線に射抜かれて隣のコンクリート塀か何かに、はかない人型の影となって世の痕跡を残したかもしれない。広島の空にはじけた紅蓮の火の玉は、内側からもくもくと金や銀、オレンジ、青、黄、白と怪しい色を吹き出しながら、天空に生じた巨大腫瘍みたいに血みどろの醜悪な姿で膨れ上がった。爆心地周辺の地表温度は一瞬に三、四千度に上昇して、たぶん克美の親方も店も灼熱地獄の中に消えただろう。

しかし地獄というのは何らかの生前の報いで、それならこれは地獄じゃない。長年にわたり手を取って仕事を教えた弟子に女房を盗られた失意の親方が死に、彼を欺いて店を飛び出した、いわば姦夫姦婦が助かるなんて道理じゃない。ということはこの世は往々にして地獄よりもむごい出来事が生じるのだ。それを何と呼ぶか、もうこれこそ究極、「事実」とだけ呼ぶしかない。》

《しかし、まさかその三日後に、今度は自分の住む北九州が次の原爆の目標いなっているとは克美は知るよしもない。今度のは広島に落ちたウラン型爆弾より一・五倍強力なプルトニュウム型原爆で、投下目標地点は小倉市の陸軍造兵廠だが、爆発すれば小倉に隣接する八幡、戸畑、若松、門司の北九州五市全域と八幡製鉄所、それに関門、山口一帯まで被害が及ぶだろう。今度は克美が冥府に行った親方の後を追う番だった。》

《原爆が落ちた長崎と、からくも助かった北九州。生があり、死があって、ただ二通りの事実に人々は振り分けられる。このときの状況を想うと克美は極小の蟻のような存在で、そして天空には巨大な原爆の鉄槌がぶら下がっていた。それが地上のどこかへ落ちるわけだが、蟻の克美は大鉄槌の落ちてくる間隙をからくもはい出るように生きのびたのだ。》

物語は鉄が燃える町、北九州、八幡に暮らす三姉妹の家族の「蟻」のような暮らしを描いている。村田は、この作品においても、蟻としての人のありさまにこそ、人間の本当の姿があると叫んでいるかのようだ。

絵描きになる夢が捨てられないお人好しで、力仕事の嫌いな指物師貴田菊二と所帯を持つ長女サト。

下宿屋を営む江藤辰蔵と暮らす病身の二女トミ江。洋裁師の親方の女房になりながら、女癖の悪い弟子の瀬高克美と駆け落ちしてきた三女ミツ江。

サトは男運の悪い娘百合子が捨てた孫娘ヒナ子を、トミ江は、辰蔵が借金のカタに連れ帰ってきたタマエを、ミツ江は克美の兄弟の娘緑を引き取り、それぞれ養女として育てている。

サトが語り、克美が次々と出会う女との成り行きを語り、ヒナ子が幼い暮らしの喜びを語る。多層的で、それぞれが蟻のように世界と出会っていく「語り」が重ねられて、この国の戦後の社会が生き生きと描き出されていく。

新たな戦争があり、家族の病気があり、大きな台風の被害があり、日々の食卓のお惣菜がある、不幸な女の死があり、少女の少年との出会いがある。

 その中で、この小説の際立った面白さとして忘れられないのが、庶民の戦後映画史ともいうべき、ヒナ子と映画の出会いだ。

 《東京湾から上陸するゴジラの大きな姿を、ヒナ子はもう一生忘れない。夜の海は暗くて、遠くの船で炎が上がっている。背中のとさかが濡れてぬるぬる光っていた。ランランと光る眼は昇道寺の仁王像だった。ヒナ子はなんだかわけもなく懐かしくてたまらなくなった。
「ゴジラ――」
と思わずスクリーンに叫んだ。「ゴジラ――。あたしがおるけんね―。」》

 《ゴジラは進んでいく。高圧線の鉄塔をなぎ倒し、国会議事堂を踏みつぶし、場内からは拍手がわく。勝鬨橋を蹴り飛ばすとヤンヤの喝さいが上がった。
「ええどう。ゴジラ―、もっとやれー。」》

 《「ゴジラ―!死んだらいけ―ん。いやや―。いや―、いや―!」》

 《場内が明るくなると、お客は脱力したように顔を上げた。気を取り直した親たちが、自分の子どもを連れに舞台に上がってきた。ヒナ子はその中で一番大きな子どもだった。サトが来てヒナ子の顔をハンカチで拭いた。サトの皺だらけの瞼も赤くなっていた。》

  ここには昭和30年代の社会と映画の出会いの姿が活写されている。

  木下惠介「二十四の瞳」、「この天の虹」、「楢山節考」、俳優なら市川雷蔵の「大菩薩峠」、中村錦之助は「ひよどり草子」「笛吹童子」「里見八犬伝」、大川橋蔵の「新吾十番勝負」、ネオ・リアリズムの「自転車泥棒」、そして新藤兼人「愛妻物語」「偽れる盛装」「原爆の子」。小説中で話題になるこのラインナップを見ただけで、七十代の映画ファンはしてやったりと、相槌を打つに違いない。

  ヒナ子は中学校を卒業すると、なんと、映画館のモギリ上の仕事を得て、さっさと就職する。すでに月刊「映画シナリオ」の定期購読者であり、その映画熱は過熱するばかりである。

  独立プロで話題の監督、新藤兼人の「裸の島」を見た彼女は、ついに、新藤に弟子入りすべく家出を決行する。前に立ちふさがったのが、育ての母であり、実の祖母であるサトであった。

  家出荷物を持ったヒナ子を、玄関で取り押さえたサト。二人の対話が小説のクライマックス。

 《「い、い、嫌や!あたし東京ば行って映画作る。新藤兼人監督の家に行って弟子入りするとや。」
「と、と、東京やと!」
思わずサトが吃った。

 「そ、そ、それがどうしたん!あ、あたし、行ってシナリオライターになる。」「な、なんやと・・・。そこの家に行ったら養うてもらえるとか。お、お前はその偉か人の家ば知っとるとか」
「と、所番地なんか、こ、交番で聞いたらわかる!「馬鹿たれっ」とサトはヒナ子の頬を撲った。頭は叩いたことがあるが、頬に手を当てたのは初めてだ。柔らかい白玉饅頭みたいな頬の肉がサトの掌でバシッと鳴った。サトは熱い涙が流れた。赤ん坊の頃から、ヒナ子の可愛さは譬えようがなかった。その子を撲って戸口で地べたに押さえつけた。」》

《「じいちゃんとばあちゃんば置いて、どげな偉か人のところに出ていくとか?こないだの映画場作った監督のとこに行くんやったら許さんど!」
「あの映画がどうしたんや。」
「あれは虚言(すらごと)の映画や!」サトは抑えていたものが噴出したように怒鳴った。
「水のない島というのに、あの小さい島一面には畑がつくられとった!」
「それがどうしたん?なして嘘の映画や。あの映画の夫婦は一生懸命、隣の島から水ば運んで畑ば作って頑張っとるよ。」
「馬鹿言え。たかが貰い水であれだけの畑が育つわけはない。水なしの島に畑はできぬ!」
ヒナ子はハッとした。島を覆った野菜畑の映像が眼に浮かんだ。
「それよりもっと大事なことがある。死んだ子どもば火葬にするところがあったじゃろ。」
「それがどうしたん。」
「人間一人焼くとに、あんなチョロチョロ火で焼けるもんじゃなか。いくら子どもでも脂の多かなまの体を焼き上げるには、燃やす木も太うて油の多いなま木でのうては役に立たん」
「なま木?」
「いま山へ入って伐り倒したばっかりの木のことじゃ。前に伐っておいたような木は。枯れて油が抜けてしもうて役に立たん。」ヒナ子は真剣に聞いている。初めて耳にすることだ。「人の体は骨もあるし臓物もある。簡単に燃えるもんではない。枯れた薪では人を焼く火力が足りん。なま木を小山のように組んで、まる一日かけて死骸を裏返したり表返えしたり、つきっきりで焼き上げる。そやから島では昔から葬式は土層と決まってる。」

《「お前が好きな映画監督がどのくらい偉いか知らんが、人の生き死にの有り様ばわかっとらん。そんな人物にお前は何を習うつもりで家出するとか。」
「・・・・・」
「大事なことはばあちゃんが教えてやる」》

  サトはヒナ子が心配で、いっしょに映画を観るのだが、映画には納得しなかった。その彼女の、ひいては、蟻の目で生きている庶民の映画批評がこの発言のすばらしさを支えている。これは、世間知らずの孫娘可愛さだけの発言ではない。

  蟻のように、子供を育て、孫を育てて生きてきた人間が、映画の作りごと、「虚言(すらごと)」をどう見やぶるか。爽快ともいえる、老婆の啖呵に、作家の本音が込められている。

  一旦は、家出をあきらめるところで小説は終わる。しかし、彼女がやがて小説家へと踏み出していく背景がここにあることはリアルに読み取ることができる。自伝小説として、出色の出来栄えだと思う。(S)

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2019年01月29日

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