【感想・ネタバレ】歎異抄のレビュー

あらすじ

数多い仏教書の中でも「いづれの行も及びがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」といった『歎異抄』の文言ほどわれわれに耳近いものはあるまい。親鸞滅後、弟子唯円が師の言葉をもとに編んだもので難解な仏典仏語がなく、真宗の安心と他力本願の奥義が、和文によって平易に解かれている。段ごとに大意を付した。

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Posted by ブクログ

ネタバレ

浄土真宗の開祖・親鸞の弟子である唯円によってまとめられた、親鸞の言っていたことをまとめた前半10章、後半は親鸞没後に浄土真宗内で乱立する間違った解釈を正す
ため、陥りやすい間違いをまとめている。

なによりも、親鸞のラディカルさを感じる。
短い経典ながら、強いコンセプトがいくつか。

・悪人正機(善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや)
努力する→善人であるから救われる、といった公正世界仮説に似た直観にもとづく認識から転換、それはあらゆる人を救う阿弥陀の本願とは違う。悪人(=あらゆる煩悩を抱えた人=わたし)だからこそすくってくださるのだ、善人ならばなおさら。
仏教を救済型の宗教に変えた法然のコンセプトをさらに徹底させている。

・いづれの行もおよびがたき身なれば、地獄は一定すみかぞかし
=地獄こそ私のすみかなのです
阿弥陀仏の本願を信じること(信心)をもつこと、救済されることを信じることが大切。結果として救われないとしても、その信心を疑うことはない。そもそも地獄こそが自分のすみかである。

・慈悲始終なし
そもそもこの世に本物の慈愛はない。阿弥陀仏の本願のみが慈愛。
なぜなら、自分のちから(自力)で救うことのできない人はたくさんいる。本願(他力)のみがあらゆる人を救うことができる。

・唯円との問答
唯円が「救うことが約束されているとしても、心躍らない自分がいる」という告白にたいして、「あなたも同じことを思っていたのですか」と語る。
大昔からいままで流浪し苦悩していた旧里(現世)は捨てがたい、いまだ見ていない安生とされる浄土に恋しい気持ちはわかない。だけど、それこそが煩悩であり、だからこそ私たちの救済は約束されているのです

などなど。

いま、アランの幸福論を読んでいるが、その関連で 「幸福でいることを誓う」というコンセプトが真宗の「信心」と似ている、となんとなく思う。
100分で名著の釈徹宗による解説・動画を見つつ理解をふかめる。
「唯円はよく聞いてくれたと思うんですと」とか、「しびれます」というような表現で思想を語っていたことが印象的。
そのなかで、こうした身を助けるコンセプトがある一方で、宗教・経典のなかにある、役立つコンセプトをパッチワークしてしまう現代の流れに危険がある、とも語っていた。宗教の役割は人々に現実・社会と違う世界を開き、人々を救うこと、だからこそ危険であり、そうした危険性を認識することなしに美味しいところどりすることは時に強い攻撃性を発揮することもある。オウム真理教がその例。宗教は攻撃性を肯定さえできる。

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2020年06月01日

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