あらすじ
子供たちの未来を左右する2020年施行の新学習指導要領からは、この国の英語教育改悪の深刻さが見てとれる。たとえば、中学校・高校では「英語は英語で教えなければならない」という無茶なルールを作り、小学校で「英語」は教科としてスタートするのに、きちんとした教師のあてはない。また学習指導要領以外にも、2020年度からは現在の「センター試験」は廃止されて、どれも入試として問題含みの「民間試験」を導入するという。どうして、ここまで理不尽なことばかりなのか? 第一人者が問題点を検証し、英語教育を問いなおす。
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Posted by ブクログ
臨教審第二次答申を受け1989年に告示された「学習指導要領」以来、英語教育の迷走が続く。この時、英語教育の目的が「コミュニケーション」にあると明記され、その能力の要素は「文法的能力・談話能力・社会言語能力・方略的能力」だったにも拘わらず、当時提示された選択科目「オーラル・コミュニケーション」という科目が注目を集め、コミュニケーション=「聞く・話す」という大きな誤解を生じてしまった。
そもそも「コミュニケーションというのは、数値では表れない、いわば人間力が反映されるものである。多様な人間と接し、多様な事柄に挑戦し体験することで人間として成長し、語るべき内容を持って初めて、コミュニケーションの必要性が認識され、英語学習への意欲が生まれるはずである」(p.156)にも拘わらず。
80年代に顕著になった新自由主義下の経済優先政策、グローバル化のうねりをうけて続く、教育界の「慢性改革病」と「迷走」、経済界や政府、マスコミからの教育界への「叱咤」が顕著になった。このような中で今の英語教育は文法訳語でなく会話重視となってしまった。読み書き能力が衰えた。読み書きができないから、聞く・話すもできない。経済界の圧力に押され、文科省も(誤った)「コミュニケーション重視」の方針に従い、従来とは違った英語教育を展開する。
大学入学試験にしても、本当に「4技能」を個別に測定しなければならないのだろうか。英語力の基礎は「読解力」である。読めない英文は聞いても理解できない。聞いても理解できない英文を話すことはできない。読めない英文は書くこともできない。入学試験までに、(深くまたは早く)読む力を強化すれば、書く力、話す力は大学入学後に育成できるのではないか。
小学校の英語教育のみならず、大学の英語教育においても、正規科目(コンテンツ科目)を英語で行うべきという意見は少なくない。しかし、次のような「問題」にも目を向けるべきだ。
1.教師が「英語での指導」に専心し、英語で授業をすることが目的となる恐れがある。
2.生徒は授業を十分に理解せず、自信を失う場合がある。
3.英語だけの授業は浅薄になりがち。生徒の知的関心を喚起しない、など(p.94)。
一方、世界では「Communicative Approach」や「複言語主義(plurilingualism)」(p.99, p.111)
、「CLIL: Content and Language Integrated learning」、「TILT: Translation and Interpreting in Language Teaching」など、言語教育に通訳翻訳を取り込む指導法も注目されていることにも注目すべきだ(p.98)。
大学教育の質の低下が問題となっているが、平均して英検準2級程度の学生を対象に、学術的な内容を教えるべき科目(コンテンツ科目)において大学教育にふさわしい高度な(興味を掻立てる)内容を伝えることが可能なのだろうか。「大学という学びの場では、学生の知的好奇心を刺激するような教育を行うことで眠っていた学生の意欲が覚醒する。教育内容が動機づけとなり関心を抱くと学生は意欲的になり、予想以上の力を発揮する。つまり、「内発的な意欲を喚起する動機づけが長い目で見て成果を上げる」(p.156)ということも忘れてはならないのではないか。