あらすじ
不幸は至る所にあるものであるということを前提にすると、本書はそのような「日常的な不幸」に対する処方箋集ともいえる。 そしてその処方箋に共通するのは、自分の世界にこもるのではなく、外界へ興味をもつこと、外的なものに対して好奇心をもつことであるとラッセルは説く。
第一部 不幸の原因
1 何が人びとを不幸にさせるのか? 2 バイロン風な不幸 3 競争 4 退屈と興奮 5 疲労 6 嫉妬 7 罪悪感 8 被害妄想 9 世論に対する恐怖
第二部 幸福をもたらすもの
10 いまでも幸福は可能であるか? 11 熱意 12 愛情 13 家庭 14 仕事 15 非個人的な興味 16 努力とあきらめ 17 幸福な人間
解説 小川仁志
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Posted by ブクログ
幸福論
訳:堀 秀彦
著:B・ラッセル
角川ソフィア文庫
ラッセルが数学者であることは知っていた。が、哲学者で、論理学者であって、ノーベル文学賞まで授賞されているとは知らなかった。
数学者が、幸福論などを論ずるとはおもってはいなかったが、文学者であれば、これはもう納得である
気になったのは、以下です。
・私はただ、諸君の常識となってくれればいいと希うところのものによってつづられた若干の評論を書こうとしてみたにすぎない
・不幸をたのしむどころか、不幸によって悩み苦しんでいる無数の男女のうちの幾人かがこれによって彼らのおかれている状況を診断し、そしてそれからの脱出法を示唆されてくれたならば、と。
現在不幸のなかにある多くの人たちも、あるいはこの書物を書いた私の努力に導かれて幸福になることができるだろう、と私は信じている。
・動物は、彼らが健康でそして充分食べるものを持っているかぎり、幸福である
・さまざまな種類の不幸の原因は、一部は社会組織のなかに、一部は個人の心理のなかに存在している
・人間は誰も全知全能であることはできない
権力への愛によって完全に支配された人生は、早晩、うち勝つことのできぬ障害にぶつかって挫折するよりほかはあり得ない
・不幸の心理的原因は多種多様である
しかし、そこには何か一般に共通するものがある
・(旧約聖書伝道の書)いっさいのものが、智慧ですら空の空なるものなることを見出した
・感情というものは人間の自然的要求があまりにたやすく満足させられたとき、生み出されるものである
・成功は幸福のなかの一つの要素にはなり得る
けれども、もし他のあらゆる要素が成功を獲得するために犠牲にされたとしたら、成功の値いはあまりに高価となり過ぎる
・道徳を云々する者にとっては、退屈こそ一つの重要な問題である
なぜなら、少なくとも人類の罪悪の半分は退屈を恐れるあまり犯されたおのであるからだ
・すべて偉大な書物というものは、退屈な部分を持っている
・いかなる偉大な事業の達成も間断なき労働なしには不可能である
・身体的労働は、ある点以上に行われるときにはまさに言語に絶した苦痛である
今日、これら進んだ社会における最も深刻な種類の疲労は、神経的疲労である
・羨望嫉妬こそ、デモクラシーの基礎である
・他人にあまりに多くを期待するなということであった
・幸福には二つの種類がある
はっきりしたものと空想的なもの、動物的なものと、精神的なもの、あるいは、また心情におけるものと頭脳におけるもの、といったふうに区別することができるかもしれない
・一人の人間がいっそう多くの事物に興味をもてばもつほど、それだけ彼は幸福の機会を多く持つわけである
・男にとっても女にとっても同じように熱意こそ幸福と健康に暮らすことのための秘訣である
・熱意を欠くということの主なる原因の一つは、自分が愛されないという感情である
・全体的に見て、女性は男性をその性格のゆえに愛するのに反し、男性は女性をその容貌のゆえに愛する傾向が多いからだ。この点で、男性のほうが女性よりも、劣っていると言わざるを得ない
・最もいいタイプの愛情はおたがいに生命を与え合うものである
・決断をなすこと、意思を決定することは非常に疲れることである
・充分な生命力と熱意を持っている人は、あらゆる不幸をのり越えて進むものだ
・中庸の徳とはおもしろみのない教えである、私はこの徳を軽蔑と憤激をもって拒否したものであった
・幸福な人間とは、客観的に生きる人である、自由な愛情と広やかな興味を持てる人である
目次
序(原著者)
第一部 不幸の原因
1 何が人びとを不幸にさせるのか
2 バイロン風な不幸
3 競争
4 退屈と興奮
5 疲労
6 嫉妬
7 罪悪感
8 被害妄想
9 世論に対する恐怖
第二部 幸福をもたらすもの
10 いまでも幸福は可能であるか?
11 熱意
12 愛情
13 家庭
14 仕事
15 非個人的な興味
16 努力とあきらめ
18 幸福な人間
解説 堀秀彦
復刊に際しての解説 小川仁志
ISBN:9784044003395
出版社:KADOKAWA
判型:文庫
ページ数:384ページ
定価:800円(本体)
1952年07月30日初版発行
2017年10月25日新版初版発行
2018年04月15日新版6版発行
Posted by ブクログ
とても難しい本で、哲学初心者の私はとりあえず読み進めるという。でも、うまくいえないけどすごく惹かれる本。わかんないけど、面白い。初めての感覚かもしれない。
巻末の小川仁志氏の解説がとても明解でわかりやすいです。
あと最初のページにあるウォルト・ホイットマン(アメリカの詩人)の言葉もジワジワくる感じで。
「成功は幸福の一つの要素でしかない。そのために他のすべての要素を犠牲にしてしまっては、決して幸福にはなれない」
「思考のコントロール」これはカギになる言葉かと。
考えるべきことを、考えるべき時に十分に考える力。
これが不幸の解決策だと小川氏は書いています。
もう一度読み返したいと思います!
Posted by ブクログ
次何読もうかと迷ったときは下手に書評に拠らず、古典を選ぶことにしてる。難解でツライことも多々あるが、結局は時間かけて読んだ甲斐アリと思えるから。
この本がまさにそう。第一部「不幸の原因」はちょっとツラかった。それが第二部「幸福をもたらすもの」では一転、ラッセルの明るい熱量と思考を存分に味わえた。
「幸福な人間とは、客観的に生きる人である、自由な愛情と広やかな興味をもてる人である(p329)」
広い関心と友誼的な行動で幸福を“奪取”していきたい。
Posted by ブクログ
一番自分に響いたのは、
「外的な条件が決定的に不幸なものでない場合、そしてその人の情熱と興味が彼自身の内部に向かってではなく、外側に向かって動いているかぎり、人間は幸福を達成することが必ずできるのである。」
という一節。このことは何度も繰り返し本文中で説かれていて、自己没入が不幸の源泉の一つとして大きいことと、興味を外に向けて世界的宇宙的に広い意識を持ってバランスを取ること(有意識と無意識の協力、社会との統一融合が備わっていること)が幸福に繋がると結論付けられていると思う。
このことは、伝統的な哲学と宗教が持つ形而上的な存在を前提に置かない、ポジティブな懐疑主義に基づく論理的分析でもって裏付けられているかと。例えば、理性や知性すらも厭世観に浸る「バイロン風の不幸」に陥る場合があることを多くの具体例を用いながら示している。
また、中庸の精神の効用を説く一方で、情熱の向け方についても内向性を避けることに留意しながら説いており、上下関係を伴う徳(伝統的な家庭の慣習的価値観を含む)を好ましいものとせず、教育対象としての子供にも敬意を払うべき(もしくは夫が妻を家庭に押し込めるべきでない)という見地は、現代では多くの国で理解されやすいかと思うが、当時としてはラディカルであったと想像する。さらに、中庸の精神を均衡感(Sense of proportion)と表現していることから、単に物事の程度を弁えるということよりも踏み込んで、思考と行動の外向化を実践して神経的なバランス感覚を養うことで、心身を健全にして幸福に近づけるのだと具体的に述べられているように思う。
こういった考え方は、とかく神経を病みがちな現代社会において、引いては自分にとっても快く生きるための処方箋に幾分か成り得ると思うと同時に、既に1930年の時点で欧米社会が現代の日本に通ずる個人の生きづらさに直面していたであろうことが想像できて興味深い。
また、例え話を混じえつつ、随所で前提と例外に注意を払いながら考察を述べるスタイルは、数学者でもあるラッセルらしく、観念に寄りすぎない明快さを持ち、好ましく思う。
Posted by ブクログ
1930年にバートランド・ラッセルが発表した、「幸福論」。原題「The Conquest of Happiness」(幸福の獲得)
第1部では不幸の原因の分析と、」それを取り除く解決策、第2部では、幸福になるすべをまとめていると、巻末に掲載された「復刊にあたっての解説」に書いてありました。
内容は現代にも通じる内容で、これを読んで、自分や現代人の身のまわりに置き換えて考えても、確かになと思う事ばかりでした。
文章も読みやすい部類かと思います。
一気に読むことができました。
たびたび読み返して、自分に置き換えて、考えてみたいと思える一冊です。
Posted by ブクログ
誤った世界観は不幸につながる。
自己没入は世界観を歪め幸福から遠くなる。
内向は真理も希望の光ももたらさない。
やればやるほど闇が深まるのみ。よくない。
嫉妬は比較することから生まれる。「比較三原則」(みうらじゅん)。
嫉妬は競争と密接な関係がある。「殺し合いの螺旋から 俺は降りる」(バカボンド)。
この二つは私の金言である。
Posted by ブクログ
「ラッセル 幸福論」
アランの幸福論がエッセイで気楽に読めたのに対し、ラッセルの幸福論は論理的で気を抜いて読むことができない。まず不幸の原因は何かという分析から始めている。どういう不幸を対象にしているかなど対象範囲を明確にしている。その中で個人では対処のしようがない絶対的な不幸は除外し、幸福の条件はある程度揃っているのに幸福を感じられない現代的な豊かさの中の不幸について検討している。そして、解決策を論じ、幸福になるための具体的な方法を述べている。いかにも数学者でもあるラッセルらしい。
内容的にはなるほどと思わせることも多いが、少々考えに時代の違いを感じる。やはり、昭和27年に出版された時代背景を考えざるを得ない。
結局のところ現代(60年前から)の不幸の感覚は本人の気の持ちようであり、ある意味では「サピエンス全史」の結論と同じであるように思える。つまり、自分が幸福であると感じる感覚を持てるかどうかが重要であると言えるのだろう。それは東洋的に言えば足るを知ると言うことであり、2000年以上前に孔子が言っていることではないのか。
本書は堀秀彦の訳であり、堀秀彦の書いた「高校生のための人生論」を高校の時に読んだことを懐かしく思いだした。