あらすじ
ワールドクラスの大学は「ヒト・モノ・カネ」をグローバルに調達する競争と評価を繰り広げている。水をあけられた日本は、国をあげて世界大学ランキングの上位をめざし始めた。だが、イギリスの内部事情を知る著者によれば、ランキングの目的は英米が外貨を獲得するためであり、日本はまんまとその「罠」にはまっているのだという――日本の大学改革は正しいのか? 真にめざすべき道は何か? 彼我の違いを探り、我らの強みを分析する。
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Posted by ブクログ
リンガフランカである英語を母国語として教育を行う国は、常にグローバルな競争に晒される。その一方日本では「日本語」という障壁のため、人や資金や情報の国境を超えた行き来が遥かに少ない。そこでいう「グローバルな競争」は「リアル」なもの(実感できるもの)ではない。現実味がないから、「グローバル化戦略」もインセンティブに欠け、改革も形式的で実らないのである。
グローバル化は、新自由主義経済と不可分の関係にあるが、それは「英国病」脱却のため、1979年に就任したサッチャー首相からスタートした。高等教育のグローバル化もその延長線上で、英語という言語資本を利用できる国々が、資金や人材を集めるためグローバル競争をしかけ、市場での優位を確保し、知識生産・伝達のヘゲモニーを握ろうとしているのである。
高等教育のグローバル化は、1999年のイギリスで、外貨獲得手段(輸出産業)として、留学生受入れ拡大を加速させる。その予想以上の成功から2006年にはさらに上方修正。この背景には、中国において富裕層が増大し、その子女がより良い就職の機会を得るため「海外の評価の高い大学」への進学を目指したことにある。この際に、イギリスの大学に目を向けさせるマーケティング戦略の一助となったのが、2004年にスタートしたイギリス発の世界大学ランキング(THE、QS)である(州政府からの財政支援が削減されているアメリカの州立大学、特に研究志向が強い大学も恩恵を受けている)。このように、教育のグローバル化競争は、外貨獲得というビジネスや財政の観点から語られるのである。
その競争に日本の大学が巻き込まれた。日本の行政・大学は必死にもがく。そこには、根強い「欠如理論」があったからだ。西洋の歴史的体験や社会構造を過度に「普遍的」なものと捉え、西洋の大学に特徴的な点を「賞賛」し、明治以降の日本の教育の特徴を「後進性」と決めつける。この「欠如理論」に特徴的な思考様式は、大学内部に確固たる参照点(見識)を持たず、外部の参照点(世論)に無反省に飛びつくことにある。こうして、英米をモデルにしつつ高等教育「市場」という経済的視点に大学教育が振り回されてしまっているのである。
このようにして、昨今の「グローバル人材の育成」などの大学改革は、学術文化の交流・活性化という視点ではなく、経済界の視点から語られる。しかし一方で、経済界は大学生の学びを重視していない。そのうえ、就職活動の早期化と長期化、インターンシップと銘打った早期面接などにより、大学教育を妨げている。「教育界」と「経済界」の間に信頼と連携がない限り、大学の教育改革・教育の質向上は絵に描いた餅となる。
結局、「現行の」世界大学ランキングの基準では、特に人文社会学系において日本の大学が置かれた環境を考えると、勝ち目はない。このことに自覚的であるべきだ。そして、むやみに英語で授業を行うことも賢明ではない。大学教育の目的のひとつが、問題発見・解決能力を学術的思考援用して身につけることで、そこでは母語で深く考える力がこそ不可欠だということも重要。
また、人文社会科学系の研究においては、日本発であることを強みとする視点と論理構成を採ることが必要だ。近代化以前の日本の経験を含め、先進国に仲間入りするまでの間に日本の社会が蓄積してきた「知」や「経験」を強みとして発信していく研究は、非西欧圏で西欧モデル以外の多様性を求める国々にとって、貴重な「知」となり得るからだ。つまり「知の多様化」に貢献できる。表面的で、勝ち目のない大学ランキング競争に右往左往するよりは、よっぽど日本の大学の国際貢献、プレゼンスのアピールに繋がるのではないだろうか。日本の大学の人文社会学分野における著者の指摘は、現実的で非常に見識に溢れているように思う。