あらすじ
行動するCPたちの痛快・青春ノンフィクション! 「カニって横に歩いてるやん。誰も不思議に思わへんやん。障害者が健全者と違う歩き方をしてるのは当たり前のことちゃうの」
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Posted by ブクログ
70年代から現在にいたる障害者運動における、CP(脳性マヒ)障害者と介助者の歩んできた道のりの理想と現実、闘争と内省、ぶっちゃけこれだけのリアルを丹念に描き出した書物は過分にして知らずの名著。
兵庫青い芝を出発点に、それぞれの道を歩んでいく様々な立場の人たちの証言の悲喜こもごもは、障害者運動に関わった人なら必ずぶつかり感じてきたことを余すことなく語っているので、「わかるわかる!」「あ〜これ、あの人みたいだな〜」と膝を打ってニヤリとすることもしばしば。
これから障害者問題を知りたいと言う人にも、変な学術書とか堅苦しい本を読むより、とにかくコレを読んだらと全面的に推薦できる。色々な障害者運動の現場で発行されている雑誌や会報も、現場で渦巻く切実な問題や感情をこのようにリアルには書き出せないのが現実。
作者は大学時代から介助者として関わりつつ、フリーのノンフィクションライターとして取材を続け長年かけて纏め上げた書物なので現場を知る人にも一般の読者にも面白く読めると思う。
人と人との出会いの場における甘酸っぱさと苦さで胸がつまるよ。
Posted by ブクログ
本書は作家の角岡伸彦氏が実際に介助者として、あるいは取材者として27年もの間関わり続けた障害者運動団体「青い芝の会」を通して、あるがままの生」という遠大なテーマに挑んだ本格ノンフィクションです。
僕は著者の角岡伸彦氏が書くノンフィクションの世界が大好きで、今まで、彼の書いた本はすべて読んできました。この本は彼自身が介護者として、時に取材者として27年間もの間、関わり続けた「青い芝の会」という障害者の運動団体の軌跡についてのルポルタージュです。
一読をさせていただいて、筆者が彼らにありのままに、そして真摯に向き合ったということが窺えて、ものすごく分厚くて骨が折れるものでしたが、福祉関係の仕事に従事されている方にはもちろんのこと、彼らについて知りたい、という方にはぜひとも読んでいただきたいな、という反面、露骨なまでの差別に関する描写が書かれてあって、これは読む人を選ぶだろうなぁ…。というのがありました。
作中にはそれこそてんこ盛りに個性あふれる障害者の方々が出てくるのですが、その中でも澤田さんと福永さんという方の個性がものすごく強烈で、詳しいことに関しては本書に譲るとしても、彼らと本気でかかわるということは、やっぱり、なんというのか…。こっちのほうにもそれなりの覚悟がいるだろうな、と思いましたし、実際に彼らと深くかかわりながら、この本を上梓した筆者には敬服の念を抱きます。
僕が一番印象に残っているのは阪神・淡路大震災直後の彼らの行動で、自身が地域に築いたネットワークを縦横無尽に駆使しながら活躍していく福永さんのバイタリティーはすごいなと思ってしまいました。そして、この本はやはり一言では表現できない「何か」がありました。それをどう感じるのは、読んだ方個人個人の感想にお任せします。
Posted by ブクログ
脳性まひ者の団体「青い芝の会」を取材したドキュメント。
役所を占拠、路線バスを占拠、こんな過激な障害者運動があったなんて知りませんでした。
面白いのはリーダーのふたり。
一人は何か発案しては他人に丸投げ。周囲はその無計画無責任を詰りながら、見放すことは出来ず、結果として企画が進んでいく。
もう一人は自分一人でできるのは「ホー」(yesの意味)という発語だけなのに、皆に担がれ運ばれるリーダー。
人は、完璧である必要などさらさらなく、自分の差し出せるものを差し出し、補い合って社会を作っていくものだと改めて思います。
だかたこそ、社会に差し出せるものがない(ように見える)障害者、作中の言葉でいえば「魅力のない障害者」を内包する社会が成熟するのは難しいことだとも思います。
誰がいつ中途障害者にならないとも限らず、年をとればほとんどの人が何らかの障害を持ちます。自分は愛されるおばあちゃんになる努力をするのではなく、憎らしいおばあちゃんが憎らしく生きられる社会をつくるよう努力しようと思いました。
Posted by ブクログ
【カニは横に歩く】BMWの助手席で
少し昔の話。
ある先生が運転するBMWの助手席に乗せていただき、連れて行っていただいたのは、障がい者の施設でした。
その施設で、ある部屋に通されて、私は言葉を失いました。
ベッドに横になっていたのは、背丈が小学生くらいの女性。
目は開いていたと思うのですが、ほとんど動かず、反応のない彼女。
たしかに生きているはずなのですが、その状態を私は「生きている」と受けとめられなかったのです。
先生の話から、ベッドにいた女性は当時の私と同じ20代だと知りました。
とても重度の障がい者の方だったと記憶しています。
帰りの車の中で、先生はポツリと言いました。
「家族もね、会いに来ないんですよ。生まれてから十年、二十年以上、あのまま。あそこでね」。
私は、何も言えませんでした。
「でも、生きているんですよね?」
「どんな状態でも、家族は家族ですよね?」
と言うのは、単なる綺麗ごとを言うだけのような気がしたからです。
とても重いものを感じて黙ってうつむいた時、目に入ったのはBMWの灰皿でした。
灰皿は、先生の煙草の吸殻で一杯になっていました。
BMWという高級車と、吸殻でいっぱいになった灰皿とが、先生の気持ちの表と裏のように見えました。
綺麗ごとでは済まないことがあるのだと思い、20代の私にとって、強く印象に残った出来事でした。
亀岡信彦氏の「カニは横に歩く」(講談社)を読んで、このBMWの先生のことを思い出し、
重度の障がいのある方との関係について、改めて考えさせられました。
著者は、重度の障がいのある方との関係について、次のように書かれています。
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人が人に会うのは、何らかの楽しみを求めるからであろう。
今ほど福祉制度が充実していなかった頃、障害者の介護に行くのは、介護者が絶対的に不足していたという背景があったのだが、それだけでは人はついてこない。
「あの人と会うと楽しいよ」
そう言われると、会いに行きたくなるものである。
(中略)
では、知的障害者の場合はどうか?相性があるので一般化はできないが、天場志信や森本正夫の介護が必ずしも楽しいわけではない。健全者が用いる言葉や常識が彼らに通じないことがある。逆に彼らが楽しいと思うことが介護者にとっては苦痛になることもある。
(p434より)(*天場さん、森本さんは重度の障がいをお持ちの方)
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「人を惹きつけるものがない」障害者はどうなるのか、という問題は常につきまとう。
(中略)
中には特段興味をそそられることがない障害者もいた。障害者側もまた健全者に対して合う合わないはある。好悪の感情や各自の思い入れと、介護の必要性をどううまく調整するかは、天場志信周辺の問題であり、私自身の課題でもあった。(p324より)
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介護・介助する側も人間。
誰にでも等しく、同じ感情で、接することができるわけではないのだと思います。
あまり好きになれない、合わない、そんな相手からも、介護・介助を求められることは発生するのだと思います。
そんな時、介護・介助をする側は、どのようなこと考えながら、感じながら、障がいのある方とおつきあいしていくのでしょうか。
会話が成り立たず、応答がほとんどない方に、どんなふうに接していくのでしょうか。
介護・介助する人は、それぞれ、なんらかの解釈、意味づけをして、接していくのでしょうか。
介護・介助される側も人間。好き・嫌いは当然あると思います。
しかし、一方で、生きていくために必要な介護・介助があり、それを誰かに提供してもらわなくてはなりません。感情をうまく伝えることができる人もいれば、そうではない人もいると思います。
BMWで連れていっていただいた施設で、お会いした重度の障がい者。
私は、これまで、あの方以上に重度の障がいの方と接した機会がありません。
もし、自分が、重度の障がいのある方の家族だったら?
介護者だったら、どんなふうにおつきあいしていくのだろう?
私には、まだ、よく分かりません。
人と人とが関わりあうということ。
とてもシンプルなことなのに
複雑でもあり、深い。
そう感じます。
明確な答えはありませんが、
障がいのある・なし関係なく、相手と関わりあっていく中で、その時々で、どうおつきあいしていったらいいんだろう?と、迷いながら、考えながら、進んでいくしかないのかな。と考えています。