あらすじ
蝶の羽ばたき、彼方の梢のそよぎ、草むらを這うトカゲの気配。カールは、そのすべてが聞こえるほど鋭敏な聴覚を持って生まれた。あらゆる音は耳に突き刺さる騒音になり、赤ん坊のカールを苦しめる。息子の特異さに気づいた両親は、彼を地下室で育てることにした。やがて9歳になった彼に、決定的な変化が訪れる。母親の入水をきっかけに、彼は死という「静寂」こそが安らぎであると確信する。そして、自分の手で、誰かに死を贈ることもできるのだと。――この世界にとってあまりにも異質な存在になってしまった、純粋で奇妙な殺人者の生涯を描く研ぎ澄まされた傑作!
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Posted by ブクログ
異能を持って生まれた人間の生涯を描く傑作が、また一つ誕生した。例えば料理の才で人を操るハリー・クレッシングの『料理人』。あるいは世にも稀なる嗅覚を活かした調香の術を使って、ある野望を果たすパトリック・ジュースキントの『香水 ある人殺しの物語』。いずれも寓話的な作品世界の中で、主人公の超人的な才能を描くことに筆が費やされ、作中の登場人物ばかりか読者までもがその魅力に翻弄される頃には、取り返しのつかない事態が起きているという話である。
蝶の羽ばたきが聞こえ、雨音を銃弾の雨あられのように感じ、母親の声がナイフのように鋭く耳に突き刺さるほど異様に研ぎ澄まされた聴覚を持って生まれた人物が主人公の本書も、基本的にはそうした趣向を踏襲した作品だろう。短かい章立てで“次”を予告し読ませるリーダビリティ、荒唐無稽のようでいて奇妙にリアルな主人公の異人ぶりの描写も見事。人々から迫害され、荒れ野に送り出され断食し、死ぬ寸前まで追い込まれながら、復活する。まるでキリストをなぞらえたように数奇な運命を辿る主人公は、前述の2作の中でも、とりわけ『香水 ある人殺しの物語』と共通する部分が多い。個人的な怨恨を越えた、いやそれよりもむしろ怖ろしい、人を生きとし生けるものとして認識しない動機による大量殺人という厄介な代物をそれなりに納得できる形で描いた力量も同様。
ただし、『料理人』や『香水』の主人公が、世界を支配するが如き欲望を持った悪魔的な人物であったのに対し、『静寂』の主人公にはその種の欲望がないというところに大きな違いはあるだろう。ゆえに、悪魔的な人物像を補完するように衒学的な記述が溢れていた『香水』とは違い、読者はひたすら無垢な主人公と一体化して、命運を共にするしかない。母親との死別を契機とし、一切の打算や妥協を許さず、“静寂”を追究する主人公の異常なまでの潔癖性や純心さは、例えばコーネル・ウールリッチの『喪服のランデヴー』の主人公の狂おしさを思わせる。更に付け加えれば、最初は怪物としか描かれていなかった主人公が、非道な殺人を繰り返しながら、一方で次第に人間性を獲得していくことになるのが非常に興味深い。つまりこれは、一種のビルドゥングスロマンなのだ。
そして、そうした主人公に肩入れすればするほど、宿敵である刑事を通して終盤に再会を果たす、ある人物との邂逅に衝撃を受けるだろう。巧みなツイストである。しかも、そこで終わらず、最後から2ページ目で作者の本当の企みを知った読者は、必ずや冒頭を読み返すことだろう。題名から想像される奇妙な味に止まらない、娯楽小説の極みとすら思える。
ただ、主人公の行動はともかく、異能が途轍もないレベルでない分、発達障害の一種と感じとれなくもないから、発達障害の偏見を助長する作品と思える部分があるのは残念だ。巧みなホラ話としてのストーリーテリングと現実に存在し得るレベルの障害の組み合わせが、短絡的な因果律を想起し兼ねない。さらには前年に優生学的な思想に基づく大量殺人が日本で発生したことも決定的だった。相当面白い作品ながら、翻訳が出た2017年に多くの賛同が得られず、ひょっとすると忌み嫌われすらした理由は恐らくそこにある。