【感想・ネタバレ】地図と鉄道省文書で読む私鉄の歩み 関東(1)東急・小田急のレビュー

あらすじ

【電子書籍化にあたり、地図・図版をカラー化しました】
大正2年(1913年)、東京で最初の大規模な郊外分譲地が売りに出されました。その後、第一次世界大戦を契機に日本の経済は活性化し、産業の近代化からサラリーマン階層が増加、郊外の宅地開発に拍車がかかります。
「自然を多分にとり入れた都会」「大気汚染から空気清澄なる郊外へ」をキャッチフレーズに田園都市化をはかる、のちの東京急行電鉄、1922年に小田原への高速電気鉄道の免許を取得し、林間都市の建設を進める小田急電鉄。
本書では、鉄道や軌道の許認可に関する戦前の公文書である鉄道省(鉄道院)文書とさまざまな時代の地図をもとに、この私鉄二社の歩みと近現代の日本の足跡を眺めていきます。関東大震災後の郊外志向、農村から工業都市への急激な発展、都心部への乗り入れ、娯楽の変遷、乗客獲得のための大学や工場、軍関連施設の誘致など。
鉄道省文書とは、いわば鉄道をめぐる人々の声や思い、野心もあれば生活者の悲鳴や憤りであり、地図はその人々の声や思いを形にしたもの、しようとしたもの、潰えたもの、廃れたものの集積であります。
私たちの歴史を沿線からいま一度見つめ直してみませんか。

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Posted by ブクログ

東横線の計画時に、柿ノ木坂と交叉するところが平面つまり踏切という点に反対運動が起きている。土地勘がなくわからなかったのだが、踏切への反対よりむしろ急坂の途中を横切ることへの反対だと言う。地形図から計算して 9% の坂だそうで、荷車を人馬が牽く時代には切実な恐怖だったのだろうと。なるほど。
陳情書はガードで鉄道が道を越えることを求めているが、その後の地形図によると、現在の環七に続けて道の下を潜った様子。
池上線の五反田が高いのは高架で山手線内に入る意図があったのだと言う。その当時、五反田には市電も来ておらず、京急が青山七丁目まで行く免許を持っていたそう。そこから東京市外だったのだと。

小田急では、江ノ島線建設時点で、大野信号所が立体交叉だということを初めて知った (1929)。調布と比べると先見性に雲泥の差。向ヶ丘遊園の旧名は稲田登戸か。

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2015年11月07日

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