あらすじ
1978年生まれの筆者の周囲にあったのは、茫漠たる郊外――ニュータウンだった。
その出発点から、戦後思想とはどのように映るのか?
大東亜戦争、象徴天皇、三島由紀夫、小林秀雄、福田恆存、柄谷行人、中上健次、
坂口安吾、あるいはロレンス、ピケティ……。思索を深めるにつれ、あらわれて
きたのは「政治と文学」という問題だった。
本書は、必ずしも「戦後批判」を志向していない、端的に「戦後よ、さよなら」と言うものだと考えてもらいたい、と筆者は言う。
「いずれにしろ、私は「政治と文学」のけじめを曖昧にしながら、いつかその両者が一致するだろうことを夢見るような「戦後」的な言葉については何の興味もないことだけは断っておきたい。私の描きたかったのは、人間の可能性ではなく、必然性であり、人間の自由ではなく事実だった。」 (あとがきより)
いま文芸、論壇界で注目を集める気鋭の批評家が戦後思想に新たな問題を提起する画期的論考!
【目次】
I部―政治と文学
郊外論/故郷論―「虚構の時代」の後に
三島由紀夫の宿命―〈文学―天皇―自決〉の連関について
「象徴天皇」の孤独
宿命としての大東亜戦争
「戦後」よ、さようなら
II部―文学と政治
中上健次と私
小説の運命
柄谷行人試論―〈単独者=文学〉の場所をめぐって
福田恆存とシェイクスピア、その紐帯
坂口安吾の「いたわり」
III部―幸福について
「落ち着き」の在処
ロレンスとピケティ―交換可能なものに抗して
小林秀雄の〈批評=学問〉論
落語の笑い―春風亭一之輔の方へ
感情タグBEST3
Posted by ブクログ
冒頭で見田宗介による戦後日本を三つの時代区分に分けて認知する取り組みが紹介される。各々を現実との対義語を基に整理し、プレ高度経済成長にあたる敗戦〜1960年を「理想」の時代、高度経済成長にあたる1960〜1970前半を「夢」の時代、そしてポスト高度経済成長期である1970後半以降を「虚構」の時代と表現している。
敗戦後、経済成長だけを頼りに奔走してきた日本人。アメリカを手本としながら技術・文化を取り入れ、個人が満足できる社会という理想が蔓延していた。しかしながら日本の歴史を完全に無視した施策が続いたことにより、郊外には「地元に縁のゆかりもない民衆の夢を詰め込んだテーマパーク」を彷彿させるニュータウンが浮かび上がってくる。そしてバブルも崩壊し経済成長も見込まれず、地の歴史に根が張られていない浮世だった虚構の街並みが現れるのである。
戦後80年間は一括りとして語られることが多かったが、タイムスケールを短く区切って現実との対立概念として民衆は何を感じていたのかを論じることにより、当時の空気感を詳細に感じることができた。その人が青春期をどの時代に生きていたかは、相手の人格を理解する上で非常に重要なことだと実感した。歴史を把握すると、相手の思考回路の基となっている種のようなものをうっすらと掴み取ることができるのかもしれない。
本著の中で批評家として紹介された福田恒弘、小林秀雄、柄谷行人の時代を視る視点、言葉の重みには驚かされるものがあった。今度作品を手に取ってみようと思う。
Posted by ブクログ
たいへん面白く読んだ。浜崎さんは、私にとって、教師である。私にとって、分かりにくいことも、かみ砕いて、熱意を込めて語ってくれる。その語り口は、説き伏せる、というのではない。理路をつまびらかにする、と表現すれば正しいだろうか。一つ一つの主張に対して、必ず理由をつけて、それから必要であればたとえ話を入れてくれる。常識的な大人の態度を示している。
そして、その問題としているところが、まったく現代的であるというところが、ぐんぐんと読み進めることができる理由である。
現代的な問題とは、理想(文学)と現実(政治)、その両者に引き裂かれている、ということだ。例えば、政治的な言説については、「リベラル」という理想的なことしか述べることができないか、反対に現実的な「保守」なことを言う、という二つのイデオロギーのどちらかに回収されてしまう。
これは、自分が発言することが世間にどう扱われるか、ということでもあるが、深刻なのは、自分自身が心の中で思うことが、自分自身の中でこの二つのイデオロギーにパッケージされてしまうことである。もしくは、あいつは「リベラルだ」とか、それって「保守ね」とか、他人の言説をすぐに決めつけてしまうこと。
そうした分裂をそろそろ止めにしよう、というのが本書の主張だ。
戦前というのは、理想と現実が一致していた。軍国主義の中で「国家=国民」、「理想=現実」という、窮屈な世界であった。これが戦後になって、「国家か国民」、「理想か現実」という二択に分裂する。けれどもそろそろその分裂の結節点を見極めていかないといけないだろう、と言う。
「今、必要なのは、『政治』と『文学』を分離した後に、そのどちら側かに立ったつもりで、結局は両者のけじめを曖昧にしていくような『戦後』的思考ではなくて、『政治』と『文学』を区別することによって、むしろ両者の接点がどこでどう生きているのかを見つめる思考ではないのかということである」(p.282、傍点原文)
では、その「接点」とはどこにあるのか。
それは、仮面と素面との間での「生活の実感(p.47)」であり、共同体における役割を果たす「生きがい(p.129)」であり、自由や平等ではなく人と人との間に灯る「小さな焔(p.234)」であり、他人との関わりのなかでこわばりをみせる「〈性格=業〉を引き受ける(p.275)」ことである。
このなかで特に、最後の「〈性格=業〉を引き受ける(p.275)」は、春風亭一之輔を通じて論じられていて、新鮮で興味深かった。
三島由紀夫、福田恆存、小林秀雄を通じて、これらの接点を見出していたところは、「分かるけれど厳しいよね」と思うのだが、落語のユーモアを通じて、自分の性格を自覚して笑い、他者とのこわばりを揺らして解きほぐす。
そこに「理想と政治」、「国家と国民」の接点を見出すなら、とても新しいことでワクワクするようである。落語の世界に少し触れてみたい気持になった。
あと心に残ったのは、引用されていたロレンスの『チャタレイ夫人の恋人』の一節。
「裸になり、きれいにして、皆で歌を歌い、昔の踊りをみんなで踊り、自分の椅子に彫刻し、自分の紋章を自分で刺繍する、そういうことを学ぶべきです。そうすれば金はいらなくなります。産業問題を解決する方法はただこれのみです。」(p.233)
「自分の紋章を自分で刺繍する」。
なんというカッコいいセリフだ。それは自分と社会、理想と現実を、繋ぎ止めると言う意味でも、示唆的である。私が個人的に歌を作り、歌っているのも、そういうことである、と改めて自覚される。