あらすじ
「反知性主義」と言われて久しいが、そもそも「知性」とは何なのか? 世界中が「まさか」と思う大統領が生まれ、イギリスはEUから離脱するなか、「知性」が失墜した淵源と時代の気分を解き明かしながら、新たな知性を立て直すための処方を示す希望の書。
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Posted by ブクログ
とても大事なことが書かれている一冊である。
一読では消化できないので、メモとする。
日本の伝統芸能では自分を「消す」ものなのに対し、SNS時代の自分とはまず「出す」ものであるという変化。この変化が石原慎太郎の太陽の季節による「肉体=性欲の肯定」あたりにあるという話を見ると、今の後期高齢者の「マッチョな思想」が見えてくる。一方で、アプレゲール以前の近代日本文学は「自己主張できない」という現実を前にした苦悶を描いた。
みんなが自己主張する時代に、自分のあり方が揺らいでしまうと、人は不機嫌になる。上昇志向はないが、優越性が「崩される」と考える。中流こそが差別を生む。自己主張を肯定する共和制はエゴイズムでできていて、自分より偉い奴を認めない社会では知性は何の役も立たない。
福沢諭吉は、自由という名の自分勝手が他人に悪影響を及ぼすことを罪だと考えた。つまり、知性とモラルは同居していた。しかし、知性と共存していたモラルを捨ててしまった日本人は下品になった。
モラルとは、本来人の内側に湧き出るものであるはずなのに、上から押し付けられると解釈される。自己主張=自由が具体化するのは、欲望であり、欲望を包む皮がモラルである。
江戸時代は、「下品にならない自己主張」という表現方法を模索していた。つまりは、粋、イナセ、風刺である。落語、川柳、漫才だってそうだろう。知性がモラルと乖離してしまうと、自己主張は他者を失う。
「知性とはヘレンケラーに言葉の光を与えるアニーサリヴァンのようなものである」
「主義とは方向性を持ったベクトルのような力」で、中心に向かおうとする求心力である。しかし、その中心に神はなく、あるのは空洞である。中心に自分を据えようとする思考は自己完結して破綻する。この現代で、知性とは複数の問題の整合性を考えるもので、でも現代重要視されるのは、「決断力」や「行動力」という名の「思考停止」で、グダグダ考え続ける持久力は、せっかちなじれったさの前では「なにもしない」「行動しない」と言われるだけ。
反知性主義を生み出す土壌は、「均質なみんな」のことだけ考えて「個人の不幸」を考えず、他人を排除している自覚を持たない「幸福な知性」である。
そして、問題の元凶は、問題の当事者が「反省しないこと」である。