あらすじ
我々がいま生きているこの政治体制は、近代の政治哲学が構想したものだ。ならば、政治哲学やその概念を検討すれば、今日の民主主義体制の問題点についても、どこがどうおかしいのか理論的に把握できるはずだ! 人間が集団で生きていくための条件とは何か? “主権”の概念が政治哲学の中心におかれる中で、見落とされたのは何だったのか? 近代前史としての封建国家を出発点に、近代の夜明けから、その先鋭化・完成・自己批判に至るまで。ホッブズ・スピノザ・ルソー・ヒューム・カントの順に、基本の概念を明快に追っていく。
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Posted by ブクログ
國分功一郎先生が、ボダン、ホッブズ、スピノザ、ロック、ルソー、ヒュームの政治哲学を簡潔にまとめてくれてる良書。
一般意志が行政には適用されず、立法にのみ適用される事が重要っぽい。
ロックに手厳しくて笑った。
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以下備忘録
①ボダン
西洋社会においては9-13世紀に封建国家があり、14-16世紀にかけて緩やかに衰退した。
封建国家では領土の概念は無く、政治的アクター同士の(複雑な)契約関係そのものが国家の概念。
慣習が法として、信仰が規範として成立している時代。宗教戦争以後、国家の体制が論じられるようになる、その嚆矢がボダン
内容は、絶対主義国家、主権概念。
国民はsouverainである君主に逆らってはならない。強大な権力が上から統治する事で政治秩序を取り戻す。
主権は、対外的には戦争、対内的には立法を通じた被治者に対する超越。の二つからなる。この「立法」こそ目新しく(元々慣習に頼ってたからね)、ボダンの偉いところ。
②ホッブズ
ホッブズは人間は、どれも大して変わらない。という意味で平等。多少の差はあれど、数人が集まれば何とかなる。と捉えた。
→能力の平等が希望の平等を生む。「俺だって持っていいはず」、他人もそう思うのでは?という相互不信の常態化→徒党を組んだ戦争状態。これがホッブズの自然状態。
自然権とは、権利というより人が何でもできる(できてしまう)事実そのもの。
この自然権が行使されるかは平和が訪れない→じゃあこれをみんなで放棄しよう。(そんな事は出来ないという批判がある)
これが社会契約、ここに国家(コモンウェルス)が生まれる。→設立によるコモンウェルス
獲得するコモンウェルスもある。従わなければ殺すと言って契約する。侵略された住民が侵略者を主権者と認めたり、相互不信から徒党を組んだりする。実はこっちが重要。これはリアル。設立は神話。
ホッブズの主権も対外と対内で分けられる。
主権者は不可侵と繰り返し強調した後、対外は戦争和平、対内は立法、司法だが、情念を統治する事も組み込まれてる。
③スピノザ
スピノザの論理はホッブズの論理に内在しているが語られていない部分を掘り返した物。
スピノザは自然権を、自然の諸規則や法則と理解する。仮に自由であったとしても重力から逃れるわけではないように。その法則のもとで、最大限可能なことをするだけ。
だからホッブズの恐怖に基づいた契約を批判する。命に危機が迫っていれば最初から騙すつもりで従いますと言うだけだろう。逃げれば良い。自然状態では義務は発生しない。
同様に「自然権の放棄」もあり得ない。自然権を最大限行使することが非合理だから、「脇に置く」だけ。反復しつつ社会契約を成り立たせている。
↑国家と国民の緊張関係を視野に入れてるが、同時に大衆の愚かさも理解してた。わからない事に耐えられないので何物(迷信/宗教/国家)かに隷従してしまう。これを防ぐためには各人が自身を規定している諸規則・法則を理解する事、あんまできないけど。
国家の最高権力は、構成員の力の合計によってなる。そんなものを一人の人間が背負い切れるはずがない、すると執政官や顧問官が要請されてしまう。彼らに簒奪される。だから彼らは民主的に選ばれたメンバーで監視し合う必要がある。
④ロック
ロックの場合は哲学というよりも主張。自然状態をモノを所有する権利を持ち、自分を侵害しない限りで他人のそれも認める状態と置いた。根拠はないけど。
ロックも立法権を最高権とした。そして行政権は立法権に従属するもの、決まったことを執行するだけの機関という建前。しかし実際には行政も、むしろ行政が「決断」し続けている。なぜなら法律はその適用対象を予測し尽くすことが出来ないから。
ロックはこのことを予見していた。法律が補いきれない領域、更に外交も行政が判断すれば良く、そもそも常に立法府は開かれている必要はないとした。現代の国家と非常に近いが、それでも立法の方が上だという建前を押す。
「抵抗権」の話はロック自身こんがらがってる。そもそも自然権とは「何でも出来てしまう」という事実なのだから、「抵抗権を認める」みたいなのは意味が分からない。統治者にとって都合が良い範囲で、ということになってしまう。ロックが言いたいのは、「人々の所有を侵害するようなことがあれば、自制していた自然権が彼らの手中に戻りますよ」という事。
⑤ルソー
ルソーは自然状態論、社会契約論、主権論にそれぞれデカい建築物を建てた。
自然状態論を、「人がバラバラに生きて、究極的に自由な状態」と考える。自然状態では人を支配する事、所有することが出来ない。所有物を奪われたら逃げれば良いだけだから。性善説とかじゃなくて、そもそも邪悪になる土台が無い、善悪以前の状態。
自然状態と社会状態を分けるのは自己愛と利己愛、利己愛は「他人と比べて」自分を優位に扱いたいという考え。しかもそれは自分と他人は同じであるという平等主義に基づいている。
ホッブスはこの、利己愛が発生している状態を自然状態と考えている。でもルソーに言わせれば、すでに「社会」が発生していて不十分。これはルソーが自然状態をフィクションと考え、ホッブスは現実寄りに考えた
社会契約論では、ルソーは自然状態から社会状態への移行を問題にしない、何かのきっかけでなったと想定しよう。みたいなノリ。現実を解釈しつつ、現実をこう改革しよう。の二側面
ルソーの社会契約は、人民各自が人民全体と締結する。国家の構成員一人一人が集合としての人民全体と契約を結ぶ。なぜこんな奇妙な形にしたのか、ルソーが「約束」だけが権威の源泉と考えたから。
ここで一般意志という概念が出てくる。一般意志とは契約によって成立した集合である主権者の意志。この意志の行使が主権の行使。
一般意志は常に正しく常に公の利益を目指す。しかし、その一般意志を人民が決議によって正しく導けるかは分からない、この導き手が立法者。
独裁の肯定に見えるが、ルソーは繰り返し一般意志は個別的な対象に対しては判断を下せない。個別的な事柄に対応せざるを得ない行政ではなく、一般的な事柄に取り組む立法こそが、一般意志の実現と見なされる。一般意志が確認されてから法が制定されるのではなく、法が制定されてはじめて一般意志の実現/行使と見なされる。一般意志は常に過去にある。
主権も立法権だけ。執行権、課税権、司法権、交戦権、全ては主権から出てくる。法律をいかに適用すべきかを決定する特殊な行為。
ルソーが直接民主制を志向した、みたいなのは百害あって一利なしの俗説。本来一般意志の実現者ではない行政を、主権者が監視する目的で開催されるべきとした民会と勘違いしてる
⑥ヒューム
ヒュームは社会契約論に根源的な批判をする。そもそもそんな契約って無いよねみたいな陳腐な内容ではなく、人間ってそんなにエゴイスティックじゃないよと言う。
社会契約論はどれも人間がエゴイストである事を前提に組み立てられている。そうじゃ無い、人間は共感の中で社会を組み立てる。面倒なのが共感は偏りがちである事。
この偏りを改善する概念が、黙約とか習慣と訳されるconvention。ボートの喩え。
黙約を通じて赤の他人のことを考えて行動できる。あたかも言語が成立するように、漸次的に「こっちの方が良いよね」が蓄積されて罰が考案される。
この考え方では自然状態や自然権という概念は意味をなさないし、黙約から形成された制度には功利性はあっても正当性は無い可能性がある。
⑦カント
ヒュームによって政治哲学に時間の概念がもたらされたが、彼は過去を参照した。カントは未来を志向した。
理性的な、道徳的存在者である(べき)人間はいやいやながらも進歩せざるを得ない。だからこそ自然権の行使を自制し社会状態をもたらし法治国家を作り上げ、そして国家同士の連合を作り上げる。
一人一人の人間の進歩には限界があるのだから、理性の使用を旨とする人間の自然的素質を最大限活かそうと思えば、個としてではなく類として。
カントが考える人類の発展の終着点は法の支配。法に反することはいかなる場合でも認められない。緊急事態はない、もし政府が人民を虐げるとしても、人民が違法行為を持って抵抗してはならない。法を通じて漸次的に改革すべき。
統治方式と支配の体制でそれぞれ専制的と共和的、君主制と貴族制と民主制がある。民主制とは全員による支配だから、必ず専制的になる。なぜなら一つの議題に対して一人の人間を無視するか反対してまで「全員の決議」として可決されてしまうから。「全員ではない全員」によって決定される。
我々がいわゆる「民主主義」と呼んでいるのは、カントに言わせれば共和的貴族制あるいは、共和的君主制。私たちは「民主主義とは何か?」を問い続ける必要がある。