あらすじ
あなたは「意識高い系」? それとも「リア充」?
カフェでMacを広げ、自己啓発セミナーへ熱心に通い、休日はバーベキューやパーティー。
そんな自分の姿をSNSにアップする……。こうした「意識高い系」の人々はなぜ生まれるのか。
「意識高い系」が放つ特有の「実力なき自己顕示欲」は、何に由来するのか、どのような経緯で構築されたのか。
「意識高い系」を「地方上洛組」と「在地下克上組」との二種類に分類し、その輪郭をあぶりだす。
また、ともすると混同されがちな「リア充」と「意識高い系」だが、「土地」と「スクールカースト」をキーワードに、両者が似て非なる存在であることを論じる。
「大学デビュー」に賭けて、故郷の北海道から関西へ進学し、入学式の前に髪を金色に染めた著者は、「意識高い系」とは私にとって他者ではなく、同族の問題--と、本書の中で綴っている。
そんな著者が、データを援用しながら彼らの生態を徹底的に掘り下げた。そして見えてくる現代社会の抱える問題とは。
〈目次〉
◆はじめに――意識高い系の研究「土地」「スクールカースト」「リア充」
◆第一章 リア充は意識高い系の裏側に隠れている
◆第二章 「意識高い系」の心理大義と欲望
◆第三章列伝
1.青木大和、小4偽装サイト事件
2.靖国コスプレイヤーと愛国女子
3.ノマドワーカー
4.キラキラ女子「ばびろんまつこ」
◆おわりに――意識高い系を超克するために
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Posted by ブクログ
「意識高い系」と「意識が高い」は違うと常々思っていたが、本書はその答えの一つを提示している。
要するに意識高い系は欲望(主に承認欲求)を隠しているのだ。
しかもその隠し方が雑で透けて見えるから不快なのだろう。
抽象的な大義を掲げ、本心を偽装し、中身のない言動を繰り返す人間はそこかしこで見かける。
なぜそんなことをするのか理解不能だったのだが、あれらも意識高い系と考えればしっくりくる。
本書では地元でいい思いをし土着した人々をリア充と定義している。
真のリア充は観測不能であるというのは面白いと思った。
自分たちが充実しているのは自明なので、やたらめったら自分たちの行動をSNSにアップしない。
真の強者は、強者であることをわざわざ言ったりしない。
だから意識高い系の行動は、リア充風の振る舞いをしているだけに過ぎず、幻想の真似という何の意味もないものになってしまっている。
結局は泥臭い努力でしか強者に成ることはできないという結論は頷かされた。
著者の私怨が入ってるとはいえ、人間の弱さ・浅ましさが認識できて面白かった。
研究とはいってもアンケートを取ったわけではないので(聞いても素直に答えないだろうが)、著者の経験や観測による推測が大部分になるのは注意。
あと、作風だからしょうがないのだが、文体が硬いので最初とっつきづらかった。
Posted by ブクログ
「意識高い系」の人たちを嫌っているにもかかわらず、筆者は自分が「意識高い系」の特徴を有していることを認めている。
筆者の考える「意識高い系」の人たちの特徴や、あるいは、背景になることは以下の通りだ。
■「意識高い系」の人たちは、中学・高校時代に、スクールカーストの最上層に入れなかった人たちである。最下層というわけではなく、第二階層にいた人が多い
■スクールカーストの支配階級は、地元に根付いている人たちで、親にそれなりの経済的な余裕がある人たちである。社交性、また、何よりも容姿が優れていることが条件である。これを「リア充」と呼ぶ
■「意識高い系」の人たちは、スクールカーストに苦い経験を持っているが、支配階級を追い抜くことは出来ないと考えている。生まれや容姿は生まれつきのものだから
■地方の「意識高い系」の人たちにとっての希望は、大都市での「大学デビュー」である。ここでのリセットを夢見るが、現実は甘くない。大都市の大学にも、地元出身の「リア充」が大勢いるからだ
■「意識高い系」の人たちの何よりの望みは、他人の承認・称賛だ。だから、都会的な生活の見せびらかし等をSNSに投稿し、承認・称賛を得ようとする
■本来、学校で真面目に勉強するとか、仕事を頑張るとかの努力によって、世の中で認められる方法がオーソドックスなのであるが、「意識高い系」の人たちは、そういった地道な努力を怠っている
というのが、私が理解した本書の内容である。
今の若い人たちは、本当にこのような仕組みの中を生きているのだろうか。世代が違い過ぎて実際のところどうなのかは分からないのであるが、でも、もしこれが本当のことなのであれば、随分と生きにくい青春時代を送っているな、と同情する。
筆者は、自分も「意識高い系」の上記の特徴を持っていることを自覚しているが、「でも自分は努力をするのだ」ということを、本書の中で宣言している。
しかし、若い人が「努力をする」ということは、当たり前のことではないのか。わざわざ宣言しないと努力にたどり着かないというのも、かなり、しんどい話ではある。
Posted by ブクログ
戦争や政治に対して意識が高い人を「意識高い系」と揶揄する風潮に疑問を感じていたので、タイトルから気になって読んでみた。本書ではきちんと「意識高い系」(系は「もどき」)と政治に対して「意識が高い人」を区別しており、やはり政治に対して関心を持つ人を「意識高い系」と揶揄する風潮は、政治に関心を持たない人々が「私意識高い系じゃないから(笑)」と自己を肯定し思考停止するための言葉として使われているのではないかと考えた。
抽象的で多幸的な言説を善とする意識高い系は、具体的でグロテスクな欲望を避けるために「高次の大義」を掲げがちであり、それはかつて戦争に突き進んでいった「高次の大義」(ex.「アーリア人の生活圏の拡大」「エチオピアの文明化」etc.)を思い出させるという筆者の指摘は私をゾッとさせるものであった。
「おわりに」でも筆者が書いていたように、この本全体からリア充への羨望とそれをはるかに上回る憎しみがふつふつと感じられ、筆者ほどではないもののリア充に劣等感を抱いてきた私は共感しながら楽しく読めた。
Posted by ブクログ
わかりやすい言葉で書かれていておもしろかった!確かに意識高い人はすごいなあと憧れるけど、意識高い系にはなりたくないなと思います。リア充と意識高い系の違いもわかりやすかったしスクールカーストも影響してるんだな〜と納得でした。つい知ったかぶりとかしてしまうけど、素直にわからないことはわからないと言えて人を見下さない人間でありたいなと思いました。
Posted by ブクログ
★面白いが学術風分析が少しやり過ぎ★自分の身を振り返れるからこそ「意識高い系」の分析が秀逸なのだろう。本当のリア充はアピールしないから、外からは見つけられないというのは面白い指摘。ありあまる承認欲求から地元の外に出たが、スタートラインのずっと後ろからしか走り出せない。そんな地方出身者の苦悩も納得する。学生時代の満たされなさにすべての原因を持ってくるのはちょっと行き過ぎな気もするが、そういう人は確かに多いのかもしれない。
「意識の高い人」と「意識高い系」の違いは、実際に努力して行動するかという提言もいい。小4の選挙サイトで問題となった青木大和も、北海道への移住とかシェアハウス運営とか聞こえのよいことではなくて、地に足の着いた取り組みをすればいいのに。
前半は過度に分析的、定義づけに取り組んでいるので読みにくい部分もある。後半の具体例から読んだ方が入りやすいかも。
「リア充」について一点。盛んに自分の生活をアピールする地方のマイルドヤンキーと、世田谷に土地を持っているような著者のいう本当のリア充とでは、やはり別物なのか。ホテルでシャンパンといったようなキラキラ感があってこそ、意識高い系が参照するリア充になれるのか。マイルドヤンキーはリア充であっても、また別の種類なのか。
Posted by ブクログ
古谷さんの、「極論」「左翼も右翼も」が面白かったので続けて読んでいる。
……
今までの論理的な文章とは違い、古谷さん学生時代に何があった?鍋パーティーに何があったの?して外見に自身がないといいながらなぜ帯に高い系な写真を?感情スパーク文章
評論と言うより古谷ファンクラブ会報って感じ
極論ではないけど豪論
Posted by ブクログ
コメンテーターとして、最近テレビで見るようになった著者。
読んでいくうちに、著者のコンプレックスも語られ、親近感がわきました。
地方都市でで、学力優秀で、大学入学と同時に、地元を離れ都会に出ていく学生に読んでほしい。
Posted by ブクログ
著者が写真の印象より大分カタギな人であることはわかりました。努力礼賛型の昭和な考え方の人で世のおじさん方にも愛されそう。
ただ「リア充は観測不能」という強調がすぎてリア充の定義が曖昧なまま話が進み、結局どんな人々を指すのかわからなかった。
「意識高い人」とリア充とは包含関係?別も物?意識高い系はどちらにも憧れ得るとのことだが。
個人的には「桐島、部活やめるってよ」に出てくるような、最早非リアをバカにすらせずただただ異次元の生物として静観できるのがリア充だと思っている。
(後書きで著者の身近にいた例としてA氏が出てくるものの、彼はただのDQNでリア充ではないと思う。この場で言及してアニメージュの恨みを晴らしたかっただけでは。。)
また同じく後書きのH社長の話を読むに、日本人全体が意識高い系化してるようにも思う。
あと(まぁ誰も受けてくれないだろうけど)意識高い系の具体例が色々出ていたので折角なら当人の意見を聞いたり可能なら対談やインタビューもしてみてほしかった。