あらすじ
70年代、稀代の芸術家は世界を旅した。恐れと憧れを抱き続けたインド、熱く壮大なスペイン、全身が震えるほど愛するメキシコ、人生観が変わった韓国……。各国の美術と建築を独自の視点で語り尽くし、現地の人の暮らしに生身で入り込んでゆく。美の世界旅行、それは、太郎にしかできない太郎全開の旅――。長年の時を経ても驚くほど新しく瑞々しい、世界旅行の全記録! ※新潮文庫版に掲載の写真の一部は、電子版には収録しておりません。
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584円
★再読
岡本太郎は20歳の時にパリで10年間過ごすが、65歳の時に初めてスペインに行く
今の所、岡本太郎本でこれが一番面白いな。岡本太郎の人生論とかより、岡本太郎が美術を見て何を感じるかの方が興味あるから世界各国の美術を見て考えた事が書かれてるこの本は良かった。太郎がこれ書いた時期の韓国って貧しい国だったからそれが書かれてて時代を感じた。あとメキシコが大好きなのが気になった。yさんもメキシコ好きで、でも治安が不安なイメージだからyさんと一緒に行きたい。
岡本太郎って出羽守BBAみたいにちょいちょい日本ディスって来る所が鼻につくんだよな。
私も外国行ったらそこのお酒は絶対飲む。お酒って文化の根源的なものなのに悪者にされすぎてる所が違和感がある。日本酒とかも素晴らしいと思う。日本酒は米作文化、神道の祭祀、麹菌、杜氏制度、地域の水質まで背負ってる。お酒を知ることが、その土地の歴史を知ることに繋がると思う。
シュルレアリスムアーティストが、作品が分からないと言うが、日常にあるものはそんなに簡単に分かるものばかりなのか?って問いを発しててその通りだと思った。分かった気になってるだけで疑問を持ち始めたら世の中意味不明なものばかりだと思う。
岡本太郎
(おかもと たろう)芸術家。一九一一年生まれ。二九年に渡仏し、三〇年代のパリで抽象芸術やシュルレアリスム運動に参加。パリ大学でマルセル・モースに民族学を学び、ジョルジュ・バタイユらと活動をともにした。四〇年帰国。戦後日本で前衛芸術運動を展開し、問題作を次々と社会に送り出す。五一年に縄文土器と遭遇し、翌年「縄文土器論」を発表。七〇年大阪万博で『太陽の塔』を制作し、国民的存在になる。九六年没。いまも若い世代に大きな影響を与え続けている。『今日の芸術』(光文社)、『強く生きる言葉』(イースト・プレス)、『自分の中に毒を持て』(青春出版社)ほか著書多数
「インドに行くことに、私は、一種恐怖に近い抵抗を覚えつづけた。 インドへの憧れはたしかにある。根深い切望として。あの広大なひろがり、その彩り、そして歴史の深さに、この眼と耳、全身でふれ、インドを体験したいと願う。しかし、そこに旅立とうとするいま(一九七一年)、なんともいえぬ重さにひしがれることも事実である。 むっとする人間臭、あまりにも人間的な熱気。だからこそひきつけられるのだが、しかし何か辛い。 私にはインドは巨大な島のように思える。北はヒマラヤに断ち切られ、東も西も南も海で区切られた、沈黙する膨大な塊が目に浮ぶ。このとざされた容れものに何千年、何万年という人間の業がコンデンスされ、煮つめられてどろどろしている。濃く厚い渾沌。 インドの美術とか遺跡の写真など見ても、ひどく洗練され、艶冶ではあるが、また言いようのない圧迫感で救われない思いがするのだ。」
—『美の世界旅行(新潮文庫)』岡本太郎著
「 翌朝から政府の組んでくれたプログラムに従って動きまわることになるのだが、きちんとタイプ打ちしたスケジュールを手渡されてうーむとうなってしまった。実は印パ戦争の勃発でこの招待は流れそうな気配だったので、旅程の打合せもしないでいた。戦争は終った。すぐおいで下さいというので、いきなり飛んで来てしまったのだ。第一日目は、モダンアートのコレクションを見る。美術学校訪問。国立のアートギャラリーを見て、この地の代表的な画家、彫刻家たちにスピーチ。そんなスケジュールがぎっしり。芸術家を招待したら、当然こうなるのだろう。しかし私は狭い意味の美術より、文化一般、その根、そしてなまの民衆の生活にふれたい、と申し入れておいたのに。だがもうすべて連絡ずみだし、その通り動かないわけにはいかない。 ニューデリーでもカルカッタ(現・コルカタ)でも、やはり同じようなスケジュールが待っていた。現代美術にお付合いしての感想。一口にいえば戦後ヨーロッパ画壇がそっくり再現されている。そしてまた日本のモダンアートの展覧会を見ているのかと錯覚をおこす。巧いし、色彩のなまなましさは確かにある。だがそれにしても、街にあふれているインドの大衆の匂い、その生活の彩りとは無縁だ。」
—『美の世界旅行(新潮文庫)』岡本太郎著
「スケジュールを終ってカルカッタ空港を飛びたちながら、いささか物足らなく感じたのは、南インドに行けなかったことだ。この次こそという、郷愁に近いものを感じていた。南にはもっと土着的な、純粋な、インドの生活感がみなぎっているに違いない。そんな直感がある。デリーのナショナル・ミュージアム、その他で見たオリッサ州の民俗芸術、無邪気で、凄みがある。そしてラリッタ・カラ・アカデミーで、映画で見せてもらったこの地方の宗教儀礼、祭儀舞踊の猛烈な豊かさ。ぜひ確かめてみたいのだ。」
—『美の世界旅行(新潮文庫)』岡本太郎著
「インドを神秘の世界だと思っていた。だが体験した限り、インドは神秘ではないのだ。極めてリアルである。そこにかえって「哲学」を見とる。世界中がそういう意味でインドを誤解していると思う。 インドの凄み、怖ろしさは確かにある。こちらから見たら残酷だと思うあり方、それは実は人間存在そのままを凝縮している。人口問題も一つの大きなポイントだが。──インドの運命は人間全体の将来を予感させるものだ。ここで問題が解決されない限り、われわれも。つまり人間の原点の悲劇というよりも未来をも映してしまった運命の鏡のような、そういう根源的な重みをもっている。それをになって、ただある。リアルに。それこそインドの「哲学」なのだ。哲学というととかく西欧風な論理学的体系を考えたり、メタフィジカルな言葉のあやのように思われやすいが、私が言いたいのは、残酷にリアルなものと運命をぶつけあわしたところに現われる、生命そのものの筋である。」
—『美の世界旅行(新潮文庫)』岡本太郎著
「 虚と実、実と虚。どちらが虚であり実であるかわからない、二つの空間の対決、からみあい。 強いインドの日ざしがそこに突きささっている。浮びあがる強烈な彫刻群。と同時に、永遠に陰である岩窟の暗いひろがり。光と影の対照は互いに凄みを強めあう。効果は適確に計算されているようだ。このマイナスとプラスの空間の葛藤は、日ざしの角度によって様々に彩りを変え、変貌することで、更に巨大な運命の象徴として迫ってくる。 近寄ってみるとディテールは無限のイメージとして繰りひろげられ、女神や裸像、大きな象がずらりと並んでいたり、霊獣、精霊、動物など様々の動きが彫り込まれている。しかし一つ一つ見ると、そんなに感動的ではないし、巧妙ともいえない。かなり雑なところも見える。だがそれでいいのだ。素朴さに逆のよさが出てきたり、いささか通俗で、よくないものを含めて、宇宙が全体として鳴り響いてくる。 エローラを見ていると、細部なんかは問題ではないのだというダイナミズムがよくわかる。一つ一つに目を寄せて、作品として鑑賞していても意味はない。全体が一つの激しい表出なのである。そこにこめられた思念、生命力への祈りの、激しさと豊かさに圧倒されるのだ。」
—『美の世界旅行(新潮文庫)』岡本太郎著
「いかに無神論者でも、根源的には「生命」への信仰を持っている。直接に響いてくる感動。神像や象徴の意味はわからなくても、生命即宇宙、この岩壁の呪文のよびかけは強烈だ。ヒンズー教の土俗的なヴァイタリティーはしかし不思議に透明で、深く哲学的だ。力と通俗性とが原始的な神秘とからみあっている。 逆にその通俗性を抜いてしまったところに、仏教寺院の奇妙な空しさ、形式主義があるのではないかと思う。仏教のように瞑想的な、精神のみを純粋に追究した宗教が、形式化するとそれはむしろ妥協であり、堕落でしかない。アジャンタやエローラの仏教窟にもそれを感じるし、ガンダーラ仏など私にはやりきれない。仏像やそれに付随する装飾は、本来なければない方がいいものである。とりわけヘレニズムのまがいものはいただけないが、ほとんどがヒンズーの影響を受けた面白味のないイミテーションになってしまうのは当然のことなのだ。」
—『美の世界旅行(新潮文庫)』岡本太郎著
「インドのタントラに、かなり以前からひかれていた。 あの強烈な魅力は何だろう。 なまなましく、しかも壮麗な宇宙観。人間と宇宙が合体する、その絶対感の迫力だ。 タントラの宇宙は神秘であり、同時に、なまなましく現実的なのだ。神や聖者は本能を自由自在に噴きあげる。歓喜の絶対感で、小宇宙が大宇宙と一つになる。現代が失った人間の根源的な生命感、自由をよみがえらせる秘儀だ。 宇宙との神秘的な、セクシュアルな合一。聖なる恍惚。メタフィジックであると同時に、心身の全体をすくいあげ、幻覚をなま身に貫きとおす。その戦慄が、インドの精神文化のあらゆる表現に響いているように思われる。 美術は端的にそれを示す。」
—『美の世界旅行(新潮文庫)』岡本太郎著
「しかしたとえ多くの筋はあっても、この文化には強い一貫性がある。 およそかけ離れた地方から出土した遺物のすべてに、まぎれもなく見てとれる独特の動物紋様。 注目したいのは、それらの均質性である。文化・文物は中心地ほど程度が高く、辺境に行くほど低いというのがとかく一般的常識になっているが、遊牧民の世界にはそのようないわゆる段差がほとんど感じられない。まさに自在に流動し、貫かれた文化である。 ある場所に永く停滞して、発酵して行く文化と、常にとどまらず流れ、高まって行く文化がある。 考えてみれば流動性と定着性は、人間生活の基本的なモメントだ。しかし何故彼らはあのような苛烈な条件を選び、生きつづけたのだろうか。 乾燥した大地。天空の変化は激烈だ。旋風が吹きまくり、時には吹雪に埋もれる。あの動物紋様に見られるように、突然野獣に襲われる。また草地のテリトリーをめぐって、部族同士の争いもあったろう。苛酷な条件を常に乗り超え乗り超え、悠久に生きぬいてきたのである。 確かに遊牧民の生活は不安定だ。しかしまたこれほど自己の意志決定にだけ頼り、決断に運命をゆだねる生活はないといえるだろう。季節と自然の状況に従って、絶えず動き、明日をひらいて行く。牧草を求め、水を求めて群れを追い、目当ての土地にたどり着く。だが、前の年に良い草地だったからといって、今年も、という保証はまったくない。常に賭けの連続、終りのない旅だ。決断を誤れば、一族、獣もろとも全滅してしまうかもしれない。常に挑み、前進する、絶望的なさすらいなのである。」
—『美の世界旅行(新潮文庫)』岡本太郎著
「しかし私は言いたいのだ。文明と文化とは本質的に違う。今日、社会システムは発達し、物質生活は豊かになっている。文明は明らかに進歩した。しかしそれと逆比例して、真の人間の誇り、生きがいの文化が滅びつつあるということも疑う余地がない。進歩は相対的であり、文化は絶対時間の中に生きる。ここはそれを詳述する場ではないが、遊牧民の生活が数千年来変らなかったから低いというような進歩主義の偏見は、断じて排除しなければならない。遊牧民が、絶え間のない賭けに挑み、固定の重みに縛られず、不断に闘い、進んで行く、そこに彼らの生きがいと、誇りがあった。」
—『美の世界旅行(新潮文庫)』岡本太郎著
「それに重ねて思いあわされることは、スキタイの芸術に、あれだけ駆使した馬のイメージが意外にも少いこと。あっても、何か弱い。受身の姿ばかりである。いのちが燃えあがっている激しい様相はない。馬は最も身近な伴侶であった。つまり、よき道具、使い馴らされ、親しみをもって行動をともにするプラクチカルな実用性があった。日常のシモベ。だから主人が死ねば、その部分として共に埋葬するのが習いであった。つまり一体感はもちながらも、己れをこえた神秘ではなかったのだと思われる。 本当の動物は、血を流してぶつかりあう、兇なる神聖なのだ。ヘロドトスによれば、いわゆるスキタイではないがそれに隣りあうステップの民、ネウリス人は年に一度、全員が変化して狼になり、数日後またもとの姿にもどるという。ヘロドトス自身、私としてはとてもこんなことは信じられないが、スキタイ人も、スキタイ在住のギリシャ人も本当だと主張し、誓いをたててそう言っている、とわざわざ断っている。恐らく、部族をあげて神聖な狼をまつる祭りを行い、その間人々は狼に扮装して神と合体したのではないだろうか。アニミズム、シャーマニズムだ。」
—『美の世界旅行(新潮文庫)』岡本太郎著
「でなければ、遊牧民の貴族たちが、あれほど統一的な独自のスタイルを固持し貫いたはずがない。実際、彼らは交易の主導権を握っていたのだ。シルクロードなどのいわば公道がひらかれるずっと以前から、広大なステップを自由自在に馳せまわり、東と西の世界を媒介していた。だから、ほしがりさえすれば、もっとギリシャやペルシャ、東からは中国のような、高度な文化圏の産物をそのままの形でとり入れ、生活を飾ることができたはずだ。余談だが私はちょっとここで、わが国の状況を皮肉にふりかえって見ずにはいられない。明治以来、西欧文化をただ手放しで受け入れ、今日もなおその惰性をつづけている空しさ。 遊牧民文化にも確かにギリシャ式の飾りものとか、イランの絨緞、中国の絹など、まわりの文化圏の影響を見せているわずかな遺物はあるが、しかし圧倒的なのは彼ら特有の動物紋様だ。まさに、他によってゆがめられない、生活の誇りがあったのだ。」
—『美の世界旅行(新潮文庫)』岡本太郎著
「 もう十数年前のことになるが、私がはじめて韓国を訪れたとき、その頃まだほとんど日本の一般には知らされていなかった文化、伝統にふれて、強く打たれた。それまで私自身も、朝鮮といえば中国の周辺文化として漫然と考えていたが、ナマ身にふれてみると、まったく意外だった。中国、日本とはまるで肌ざわりが違う。激しくて神秘的な彩り。言いようのない空間性と流動性。私はそのとき、北の方から透明な、冷たい風が吹き流れ、自分の身体を通り抜けて行く……そんな痛切な思いを味った。 中国の、古くから大地に定着した農耕民族の伝統に見られる、重みとか固定感ではなく、それは今まで述べてきたスキタイ、アルタイ文化のあの肌あいと、まさに相通じるものだった。冷たい青空のもとに吹きぬけて行く運命の、軽やかさ、そして鋭さ。北アジアの文化である。」
—『美の世界旅行(新潮文庫)』岡本太郎著
「さらに一段とひろい流れを感じとる。いま私の目の前に、縄文土器の分厚く激しく、無限にうねり渦巻く紋様が浮んでくる。この極東の文化と、ヨーロッパ芸術の源流ともいうべきケルト。あの組紐紋に象徴される永遠に回転し、流れて行く世界観。私が西欧文化で一番惹かれるのはケルトだ。あの底深い宇宙的表現。 まったく東西の両極、相離れた地域の、この古い文化に見られる不思議な同質性は、いったい何を意味するのだろう。私はこの神秘的な現象に常にうたれるのだ。」
—『美の世界旅行(新潮文庫)』岡本太郎著
「 私がスペインに今度(一九七六年)はじめて行くんだと言うと、誰でもがびっくりする。若い日、十数年もパリに住んでいたのだから、スペインといえば本当にお隣りだ。それなのに一度も? と驚かれるのはもっともだ。それに「おや、あなたはスペインで生まれたような方だと思ったのに」などと言われたりもした。確かに、あの国には魅力を感じつづけているのだが、不思議に、行くチャンスがなかったのだ。 一九三六年、今度こそスペイン旅行を実現しようと計画をたて、出発準備までととのえた。そのとたんに、突如フランコの内乱が起こった。スペインは一瞬に炎のように燃えあがり、血みどろになってしまったのだ。 それからのこの国の運命は一段と悲劇的だった。世界中のインテリの関心をひきつけた。ピカソの『ゲルニカ』、ヘミングウエイ『誰がために鐘は鳴る』、マルロー『希望』、キャパの報道写真……そのいたましい、きしみの中から生まれてきた数々の歴史的証言は今も激しく生きている。」
—『美の世界旅行(新潮文庫)』岡本太郎著
「ピレネーを越えると、とたんに、緑のフランスが豊かにひろがっていた。のびやかに平らで、いかにも平和な農耕地帯。 ピレネーを境に、あまりにも対照的だ。その時、このけわしいスペイン、その実体を一度どうしても確かめたいと思ったものだ。 パリからマドリッドに飛ぶイベリア航空は一時間以上も遅れてオルリー空港を発った。 明るいうちにピレネーを越えて、あのガリガリした様子をもう一度ようく見たいと、望遠鏡まで用意していたのだが、コースは海に出てしまい、当てはずれ。しかもスペインに入った頃は雲がかかって、ほとんど何も見えない。わずかに雲のきれ間から、オリーヴ畑がくすんだ緑色の、不器用に切りとってはめた不思議なモザイクのような模様で並んでいた。 マドリッドのホテルに着いて風呂に入ったら、浴室の床が、空から眺めたあのオリーヴ畑そっくりの、ガキガキと異様な変形のモザイクで貼られていたのは面白かった。 この相互がゆがみながら、しかし何か強烈にしっかりとつながりあっている状況は、まさにスペインの運命そのものを象徴しているような気がした。」
—『美の世界旅行(新潮文庫)』岡本太郎著
「それにしても、この不思議な国の運命、その流れ、渦巻き。──カトリックでありながら、ユダヤ的要素と、イスラムがまじりあい、血も文化も、形式もモラルも、渾沌としている。ヨーロッパだが、最も東洋の血の熱さを濃厚に感じさせるところである。混濁し、規格統一されていない。明るくて、不思議に暗い。まさに「光と影(ソル・イ・ソンブラ)」。熱くて、冷たい。以前堀田善衞の『ゴヤ』を読んだが、そこにも、ゴヤという一画家よりもこのスペインそのもの、つまりゴヤという孤独な芸術家が背負い込まなければならなかった運命、悲劇的爆発の背景がなまなましく迫ってきて、読んでいながら、自分があたかもその中にとじ込められているような緊張をおぼえた。」
—『美の世界旅行(新潮文庫)』岡本太郎著
「熱狂的なようで暢気、真面目なようでチャランポラン、およそ相反するような資質が平気で一体になっている。スペインならではのありようが、中世だけに、一段とむき出しに、なまな匂いをむんむんと放っている。 それでいて頑固、徹底的な自己主張の激しさ。たとえばゴヤの出身地であるサラゴーサの名家の出である教皇ベネディクトゥス十三世は、教会の組織といざこざを起こして辞職を命ぜられると、反対に自分一人だけを残して全世界を破門してしまった。そして死ぬまで妥協しなかった。あっぱれというほかはない。」
—『美の世界旅行(新潮文庫)』岡本太郎著
「マドリッドから車で南下し、アンダルーシアをめぐる予定。きびきびした日本の青年、武田修君が車の運転を引受けてくれる。彼はもうスペインに住みついて十年になるという。マドリッド大学でスペイン美術を専攻し、いまはグラン・ビア、東京なら銀座通りにあたるホセ・アントニオ通りで美術商を営んでいる専門家だ。私にとっては、うれしい案内人である。 有名なプラド美術館は勿論見たが、ここでもう一つ、是非見て行きたいものがある。考古学博物館だ。トレドに向う前に、ちょっとでもいいから寄ってほしい、そう武田君に頼んだら、さすが、という顔でうなずいた。」
—『美の世界旅行(新潮文庫)』岡本太郎著
「サント・トメ寺院でグレコの『オルガス伯の埋葬』を見たあと、でこぼこ道をくだって行って、かつてグレコの住んでいた家『カサ・デ・グレコ』を訪ねた。 タホ河のほとりに、かなりの庭もそなえた、当時としては中流の住居ということだが、その名のとおりギリシャから流れて来た異邦人の画家が、腕一本でスペインに住みつき、どんな気持ちでタホ河を眺めていたのだろうか。彼の絵にいつも出てくる、やや首を傾げて、憂愁をたたえた、あの蒼白く細ながい顔。回廊の向うにふと見えるような思いがした。 グレコは死後ほとんどその名も埋れてしまっていたが、十九世紀に入ってから突然高く評価されたのだ。この町でもあわてて、廃屋になっていた旧居を博物館のように仕立てている。だが、当然のこと、グレコの本当の生活が残っているわけではない。ただ家の遺構と、彼の時代の家具とか調度などが、そのころをしのばせるだけだが。」
—『美の世界旅行(新潮文庫)』岡本太郎著
「スペインのイスラム文化最盛時代、三世紀にわたって首都であったコルドバは、あらゆる学芸の中心、憧れの都であった。グァダルキビール河はアラビア語で大きな河という意味だが、この大交通路をさかのぼって、人も物も富も、コルドバに集って来た。(後に、伊達政宗の使いとして支倉六右衛門常長がはるばるローマ法皇に謁見に来たが、その時もメキシコから大西洋を渡り、ヨーロッパに第一歩を印したのはこの地だったのだ) 都の中核となるモスクもグァダルキビール河の岸に建っている。かつてはこの中で二万五千人の信者が一度に礼拝できたという巨大な回教寺院だった。大塔の足もとにある免罪の門をくぐり、オレンジの樹が整然と植えられた中庭を通って堂内に入る。 白とオレンジ色の石を交互に組んだ装飾的なアーチが二重にかかって、無限に連なる柱の列、何ともいえぬ不思議な大空間だ。」
—『美の世界旅行(新潮文庫)』岡本太郎著
「スペインのイスラム文化最盛時代、三世紀にわたって首都であったコルドバは、あらゆる学芸の中心、憧れの都であった。グァダルキビール河はアラビア語で大きな河という意味だが、この大交通路をさかのぼって、人も物も富も、コルドバに集って来た。(後に、伊達政宗の使いとして支倉六右衛門常長がはるばるローマ法皇に謁見に来たが、その時もメキシコから大西洋を渡り、ヨーロッパに第一歩を印したのはこの地だったのだ) 都の中核となるモスクもグァダルキビール河の岸に建っている。かつてはこの中で二万五千人の信者が一度に礼拝できたという巨大な回教寺院だった。大塔の足もとにある免罪の門をくぐり、オレンジの樹が整然と植えられた中庭を通って堂内に入る。 白とオレンジ色の石を交互に組んだ装飾的なアーチが二重にかかって、無限に連なる柱の列、何ともいえぬ不思議な大空間だ。」
—『美の世界旅行(新潮文庫)』岡本太郎著
「セビリアの街路樹は、実をつけたオレンジなのである。町じゅう至るところに、つややかにオレンジが実っていた。カテドラルの中庭、王宮の広場、どこもかしこも鮮やかな色。 町の中心にそびえる有名なヒラルダの塔にのぼってみた。正方形の塔はイスラム時代の建造、七十メートルもの高さだが、中には階段はなく、ぐるぐる回るスロープになっている。これは緊急の時、馬で駆け上り駆け下りるように設計されたものだという。さすが騎馬遊牧民の伝統を思わせる。 四方に窓があり、のぼるにつれて、順々に景色が展開する。眺めおろすとゴティック大聖堂の複雑な屋根の線と奇妙に交錯して、ショッキングな面白さ。」
—『美の世界旅行(新潮文庫)』岡本太郎著
「しかし、何か俗っぽい。色塗りの説明的な彫像や、金キラキンの装飾、やたら巨大な柱、と人目を驚かすこけおどかしばかりで、感心しない。大きければいいというものではあるまい。 やはりゴティックの美はその発生地、北ヨーロッパが純粋であり、精神と風土から生まれたスタイルが自然に形に凝結したという感動がある。ここのはその透明感が感じられない。こんなデカダンな聖堂を作っていた人たちが、狂熱的な信念をもって世界中を布教し、中南米から極東まで、その土地の文化、宗教を徹底的にたたき壊して、カトリック信仰をひろめようとしたとは。ひどいズレを感じると共に何か納得する面もある。」
—『美の世界旅行(新潮文庫)』岡本太郎著
「ヘレス・デ・ラ・フロンテーラという町はセビリアから二時間ばかり南に下る、スペイン名産シェリー酒の本場である。そもそもシェリーというのは、このヘレスを英国人が勝手に訛って発音したのが通用してしまったのだそうだ。ローマ帝国全盛時代、ここはその勢力の最西端のフロンティア、国境だった。それを今も名前に残しているのだ。 ヘレスに近づくと、まわりの畑一面にぎっしりと、握り拳のようにつき出している木株が見られる。それが葡萄だと聞いて意外だった。日本や、フランスのものともまったく違った感じだ。また今収穫期の綿畑が白い粉をまき散らしたように実をはじけさせている。色とりどりの作業衣を着た男女が実をつみ取っていた。 着いたホテル・ヘレスは庭に大きなプールをそなえ、洒落た近代的なリゾートホテルだった。何となく辺境のひなびた町だと勝手に想像していたのだが。毎年世界的な葡萄酒祭りなども行われ、酒造りが役立って観光地になっているようだ。」
—『美の世界旅行(新潮文庫)』岡本太郎著
「 ここから海に向かって一気にくだる。コスタ・デ・ル・ソル(太陽の海岸)である。スペインの地中海岸はフランスのコート・ダジュールと並ぶヴァカンスの地である。東からそれぞれの浜に魅惑的な名前がついている。コスタ・ドラーダ(黄金)、アサアール(オレンジの花)、ブランカ(白)、ソル(太陽)、ルス(光)と華やかにひらき、競っている。超モダンな大アパート群や洒落た別荘が目もはるかに立ち並んでいるのだ。ここはまったく近代文明の世界である。 かのピカソの生まれた土地、マラガ。私は古びた、とじこめられたような田舎町をイメージに描いていたが、高層ビルの林立する大都市だった。 完備された海岸道路を走り抜け、ちょっと寄り道してネルハの巨大な鍾乳洞を見物して、モトリルから再び内陸に向かう。」
—『美の世界旅行(新潮文庫)』岡本太郎著
「スペインというのはまったく、あらゆる味を含んだ世界だ。人物も風土も。さまざま取りあわせたオードヴルから始まって、デザートまで。そして終わるかと思ったら、また別のオードヴルが目の前に現れてくる感じ。」
—『美の世界旅行(新潮文庫)』岡本太郎著
「王は裸の美女たちを眺めながら、気がむくと、かじっていたオレンジを湯ぶねの前の大理石の床に投げる。真先に飛び出し、それを拾った女がその夜の王のお相手をつとめるのだそうだ。 ちょっとどんな具合か、王様になったつもりで、そこにひっくりかえってみた。冷たくて、コチンコチンだ。しかし、暖い湯気と、香料と、美女たちの熱気でわきかえっていて、オレンジなんかがあったとしたら、それはよかったに違いない。」
—『美の世界旅行(新潮文庫)』岡本太郎著
「 私がはじめて「ガウディ」のイメージにふれたのは、一九三〇年代のはじめ、パリで生活していた頃だった。前衛美術雑誌・カイエダールに紹介されたサグラダ・ファミリアなどの写真は、衝撃的だった。それまで彼の存在は、パリでもほとんど知られていなかったから。 何という不可思議な、独創的建築。激しく、超自然的だ。その異様さに驚きながら、何かひどく身に迫ってくる。共感を覚えた。 生きもののような、流動感をもってうねり、のびて行く線。そのからみあい。ちょうどその時分、私が描いていた抽象表現のリズムと、肉体の奥深くで微妙に響きあうものを感じた。 ところで、ナマの眼で「ガウディ」にふれる機会はなかなか得られなかった。今度(一九七八年)、たまたまバルセロナを訪れることが出来たのだ。心をはずませた。」
—『美の世界旅行(新潮文庫)』岡本太郎著
「私は数年前、首都マドリッド、旧い都トレド、またアンダルーシア地方のコルドバ、セビリア、グラナダ等を廻ったのだが、至るところでイスラム文化と混血したスペイン独特の雰囲気、スタイルを濃厚に味った。なぜバルセロナだけが違うのだろう。いま言ったように、スペインではなく、まさに西欧の大都市というたたずまいなのだ。 ガウディを探しながら、ながい間ぐるぐる車で廻ってみたが、ありきたりの街路、まったく普通の建物ばかり……突然、それらを突きのけるように、トッ拍子もなく「ガウディ」があらわれる。 異変のように、突っ立っている。カサ・パトリヨ、そしてまたカサ・ミラ。 どう見ても調和などというものではない。あたりを圧倒してしまう異様な迫力。それも心地よく、素晴らしく圧倒するというより、奇怪に、次元を転換し、他を色あせさせてしまう。 ぐねぐねした線。そのからみあい。細部の細部に至るまで、執拗に追いかけて行く怪奇なイメージ。窓、入口、屋根、それぞれが言いようなく奇妙な一体となって、生きもののようにこちらに迫ってくる。」
—『美の世界旅行(新潮文庫)』岡本太郎著
「あのような創造は確かに孤独の中に生まれるものだ。しかし孤独を貫きとおすには、真の協力者がなければならない。孤独者と孤独者の出会い、そのぶつかりあいによってこそ、真の「孤独」が強烈な彩りをもって世界に向ってひらくのだ。あの二人の出会いは、超自然的創造を実現させた核だったと思う。 二人とも、時代を超えていた。あのような西欧近代都市といった環境バルセロナにいたからこそ、彼らはそれに挑み、まるで次元の違う独創的な世界を、無条件につき出したのだ。私はその無償のアクションに共感する。そして日本において、ますます孤独にオリジナリティを貫かなければと思うのだ。」
—『美の世界旅行(新潮文庫)』岡本太郎著
「ところで、ガウディの建築がこれほど人を惹きつけるのは、言いようのない運命の裂け目、歳月にさらされて示す、その悲劇的な激しさによってではないだろうか。 多くの建築物は、出来上った当座はともかく、やがて陳腐な感じになってしまうものだ。ところがガウディの激しさ、新鮮さは年とともにいよいよもりあがるように思われる。 それらのほとんどが、実は未完成なのである。 もちろん創造しつつあるときは完成を目ざしていたにきまっている。しかし作品のほとんどすべてが未完成。その未完であるところに逆に、強烈な生命力を感じとる。 彼はあまりに壮大な夢を描きすぎるのか。」
—『美の世界旅行(新潮文庫)』岡本太郎著
「だがガウディの場合、そういう一般論より以上に、「未完」であることが意味深く思える。定着し、動きをとめてしまった姿ではなくて、永遠に成長し、動いて行く、生命体の魅力。 バルセロナの人々はサグラダ・ファミリアについて、工事を継続しあれを完成させるのがいいのか、ガウディの生命が終った時のまま、未完成にしておくべきか、激しく意見が分れているという。もっともな対立である。 創造のポイントを考えてみると、まず発想の段階。次に制作の過程がある。未完の作品と、作るという行為。そして完結、である。」
—『美の世界旅行(新潮文庫)』岡本太郎著
「 メキシコへ行くと、私は全身がわくわくふるえるほど嬉しくなってしまう。 明朗で、強烈な彩りにみち、濃厚な生活感があふれている。一見われわれの日常のきめや、文化的気候・風土とまったく違っているようだ。それでいながら、どうしてあらゆる表情、雰囲気があんなにピンとこちらの全身に響いてくるのか、不思議なくらいだ。 いわゆる先進国、日本人の多くが憧れているアメリカやヨーロッパに行って、私はむしろ現代文明が直面している空しさ、暗さに絶望的な気分になることが多い。しかしここはそこはかとなく明るく、あたたかい。なるほど経済力・近代工業の生産力は低いかもしれない。だがそこにかえって人間の根源的な生き方の豊かさ、誇りが生きている。 いうまでもなく、メキシコをはじめ中南米の運命は大変複雑だ。かつて高度な古代文化を誇ったマヤ、アステカ、インカなどの民族、それがスペインなどに滅されて混血し、今日では独自なラテン・アメリカの彩りとして花ひらいている。たしかに異質の文化の混合ではあるけれど、しかし意外にも、土着のインディオの生活感、本来的なムードが、むしろ強烈に、色濃く噴き出すきっかけにもなっている。」
—『美の世界旅行(新潮文庫)』岡本太郎著
「メキシコには〝働く者は働いて食べる。働かない者は遊んで食べる〟という諺があると聞いた。へえー面白いなと思ったが、意味はどうもよくつかめなかった。ところがメキシコに行ってみて、なるほどと実に納得できたのである。 どこの町でも、プラサ(広場)や町の辻のようなところに男たちが群がっている。みんな大きなソンブレロをかぶり、ポンチョを着て、裸足のままのもいる。のんびりと日なたぼっこをしているのだ。実にのどかな、いい顔をして。われわれには、うらやましいというより信じられない雰囲気だ。日本ではかけずりまわらなければ生きられない。だから不思議な気がするが、中南米ではただ生きて行くというだけなら別にアクセク働かなくてもよいらしい。一年中気候はほぼ一定で、着るものも数はいらない。果物は豊富。ユカタンでは街路樹にたわわにマンゴーなどが実り、路にぽたぽたと熟した実が落ちているのだが、そんなのは誰も拾わないという。バナナも安い。だから、下層階級の食べるもの、ということになっていて、上流の人はこっそりと、隠れて食べるのだという話も聞いた。気の毒なような、滑稽なような。庶民の買うパンは美味しくて、ひどく安い。一ペソ(約三十円)で大きいのが十個も買える。民衆的な生活をするのなら、ただのように暮せるのだ。」
—『美の世界旅行(新潮文庫)』岡本太郎著
「 世界のいたる所に美酒がある。フランスのさまざまの葡萄酒にしても、またスペインのシェリー、ロシアのウォッカ、中国のマオタイ、ペルーのピスコ、ブラジルのピンガ……かつて訪れた土地土地の思い出は、懐しい酒の味わいと香りをともなってよみがえって来る。 だから私はどこでも、まずその土地の酒を飲み、名物の料理を食べる。それぞれに芳醇で独特な味。そのときこそ、なまなましく、そこの世界と抱きあうような嬉しさを覚える。 酒と旅の思い出はつきないし、どれも忘れ難いのだが、ここではメキシコの酒にしぼることにしよう。」
—『美の世界旅行(新潮文庫)』岡本太郎著
「人間像でも、いわゆる西欧的な美学とはまったく基準がちがう。例えば、歯をむき出して笑っているような顔。──不思議なことに、メキシコの笑う顔はすべてなにか呆けたような恍惚の表情を浮べている。その異様な雰囲気は、うす気味悪いとも、いやったらしいとも言いようがない。それでいて心の奥底にずんと響いて、忘れ難い印象を残すのである。」
—『美の世界旅行(新潮文庫)』岡本太郎著
「あの凄まじい姿と、「蛇の裳裾の女神──コアトリクエ」という名は、私の心に焼きついたのである。再びメキシコ市を訪れた時には、新しい巨大なムセオ・デ・アントロポロヒア(人類学博物館)が完成していた。さまざまの素晴しい彫刻が立ちならび、或いはうずくまっている中に、コアトリクエは重要な場所にすえられていた。私はこの、およそ美女とはいえない女神に一段と、なんともいえない親しみを感じたのである。 万国博のテーマ・プロデューサーを依頼されたとき、世界中から神像や仮面を集める計画をたてた。その当初から、是非あれは飾りたいと思っていたのだ。今はレプリカの優秀な技術がある。メキシコ政府に問い合せ、本物そっくりにプラスチックの材料で複製してくれるよう頼んだ。こんなものをこそ、日本の人たちに見せたいと思ったからである。 このような神秘的感動を、現代日本人の多くは忘れ去ってしまっているようだ。しかし、生命の奥底には必ずひそんでいるものだと私は確信しているのだ。」
—『美の世界旅行(新潮文庫)』岡本太郎著
「西欧の側から見ても、やはり同じように奥深い郷愁があるらしい。マヤをはじめ中南米の古代文化への憧れから、戦後、厖大な分量の推理、解明が提出され、出版された。例えば巨大なピラミッドの技術は古代エジプトから葦舟に乗って渡った人々がもたらしたものだとか、消え去った大陸アトランティスが双方の祖地であって、そこから分れてこれらの文化がひらいたのだというような説。滑稽なのは宇宙人説まである。マヤ族が天文学・数学に異常に高度な、現代も及ばぬほどの水準をもっていたり、南米ナスカのアース絵画が高い空から見る以外には絶対にイメージにならないような規模で平原にくっきりと描かれていたりする、今まで謎とされていた問題がこう考えればピタリと解けるというのだ。とりどりの説が、一見荒唐無稽でも真面目に、意外な根強さで論議される。単なる好奇心以上に彼等を惹きつけるものがあるからに違いない。」
—『美の世界旅行(新潮文庫)』岡本太郎著
「彼はパリでも生活しているので、かなり流暢なフランス語を話す。雄弁家で、話に熱中してしまい、永い時間しゃべりつづける。互いに情熱的に問題をぶつけあった。 意外に話があう。メキシコ革命生きのこり、そして厖大な仕事をなしとげてしまった老巨匠だと思っていたのに。 彼は商品化したパリやアメリカの美術に対する軽蔑をズケズケと語り、ピカソだってもう金で買われる芸術になってしまっている。あんなものは駄目だ、とはっきりしている。金持ちに買ってもらうために描かれた絵、銀行預金のようにしまっておくための芸術なんて、何の意味があるか。──まったく私が昔から常に発言している通りのことだ。」
—『美の世界旅行(新潮文庫)』岡本太郎著
「私は日本でそれを実践しつづけてきた。好かれようとしない仕事ばかりしているし、応接間に飾られる小さな商品的な絵より、パブリックの場所に作るモニュメントや壁画に情熱をかけてきた。ちょうどそのときは万国博のテーマ・プロデューサーを引受けた直後だったので、いまエキスポ の中心になる、テーマ館の構想をたてている。そういうひらかれた場所でこそ、芸術はピープルにすっ裸でふれあうことが出来る。誰も金を払う必要もないし、何気なく通りすぎてもいい。「芸術作品」だなどと立ちどまって見る必要もない。それでいて、何かをぐんとつきつけられ、無意識的に心性を変貌させる。それが芸術の呪術的役割だ。」
—『美の世界旅行(新潮文庫)』岡本太郎著
「私は、いや私ばかりではないだろうが、現代のいわゆるモダンアートに絶望している。今日は世界中どうしようもない画一化だ。私はこの正月念願のインドに行った。常々濃い夢を抱きつづけていた。目の前に見るピープルのなまなましい現実、その凄さに心を奪われた。ところがここで見せられた現代絵画はまったくのエコール・ド・パリなのだ。たしかに巧妙で、才能もあるが、何でこれがインドで描かれなければならないのか、憤りさえ感じた。しかしふりかえって日本の状況を考えれば、さらに空しい思いがするのだ。パリはもう古くて、ポップも終った。環境だ、観念芸術だ、そんな追っかけっこに何の意味があるのか。すでにパリ自身がパリの真似をし、ニューヨークがニューヨークを追っかけている。悪循環だ。強烈な孤独感こそ芸術の根であるはずなのに。この無責任さ、空しさに絶望しないものはいないだろう。」
—『美の世界旅行(新潮文庫)』岡本太郎著
「そんな世界の中でシケイロスを見る。これだけ独自に己れを貫いて、衰えを見せず、空しくもならない、その秘密はどこにあるのか。そう考えるとき、私はやはりメキシコの精神を思わずにはいられない。この国の風土、人の心が、それだけの文化的誇りをもっているからに違いない。たしかにメキシコは政治・経済において、決して世界のトップを切る国ではない。工業化は遅れ、さまざまの矛盾をかかえている。貧しい。しかしいわゆる後進国であるにかかわらず、隣りの大国アメリカよりも、文化的には自分たちの方が高いという自信をもっている。とかく現代世界では、政治・経済・軍事的大国だけが進んだ文化をもっているような錯覚におちいってしまうのに。 だからこそ、革命期の壁画運動も世界芸術のトップの問題としてすすめられた。運命の巨大な炎を背負いながら、困難な社会建設の時代に、国の政策として大壁画が作り続けられたということは、メキシコ全体が芸術の意味を国の運命とともに押し出した自覚、強烈な自負があったればこそだろう。 壁画は趣味的な美術作品ではなく、社会にうち出すピープルの巨大なマニフェストなのだ。そこに強烈な土地の匂いがふきあがっている。マヤ、アステカ等、インディオの伝統は新しい内容をふくんでにじみ出し、ひろがっている。」
—『美の世界旅行(新潮文庫)』岡本太郎著
「外からやって来たわれわれには解らないことだが、インディオということばにはさげすみの響きがあるそうだ。例えば靴をはいているような人、また自分の名前をサインできる人は同じ顔つき、人種でもインディオとはよばないというのだ。差別をとり除こうとして、文部省の通達で、インディオの代わりにインディヘノと呼ぶよう指導しているそうだ。だがそんなことで現実が変わるわけでもないだろう。 教育や衛生、医療の改善など問題は山積しているようだが、実際にどのくらいインディオの人口があるのか、山奥に散在しているので正確な国勢調査もできていないというのだから行政側も大変だ。 とにかくスペイン人に徹底的に略奪され、何世紀にもわたって圧迫され続けた彼らの心情には、決して一筋縄ではいかない、複雑な混冥があるようだ。」
—『美の世界旅行(新潮文庫)』岡本太郎著
「直接この目ではじめて見た民族芸術の魅力は私を強烈に惹きつけた。 無邪気で、ふくらみきっている。そればかりでなく、言いようのない生活感がある。 色も形も、決して固定していない。いつでも爽やかに流れている。それは中国文化のがっちり動かない、完結した表情の古典性とも違うし、また日本の伝統芸術に見られる、技巧的な渋い形式美とも違う。こだわりのない、つきぬけて行く軽やかさがあるのだ。」
—『美の世界旅行(新潮文庫)』岡本太郎著
「この一体のようでいながら、鮮やかに三つの層に分かれた文化の運命を思うとき、私の目に浮かんでくるのは、万里の長城である。あのけわしい、そして一種の気力のような、帯状の線。分厚い壁が深い山、谷を越えて果てしなく彼方にのびて行く姿。ユーラシア大陸の東南部にがっちり根をはやし、ひろがった農耕社会、強大な漢民族の世界を、まもり、同時にとざしている。 この運命的境界は山海関から発しているのである。 長城の内側と外側とのドラマは誰もが知っていることだ。大農耕社会の定住し、分厚く充実したひろがり。そこでゆっくりと醸されて行く高度な文化の独自性。その外の草原は風とともに常に流れ変転する騎馬民族、遊牧民の天地である。この二つの世界の絶えざる抗争と融和、そして交易。歴史はまだなまなましい。しかし遊牧民と農耕民の文化の交流は意外にも表面的だ。人間的とけあいというものはなかったように思えるのだ。それぞれが独自の世界であって、交錯はあっても本質的にまじりあうことはなかった。万里の長城は、そして巨大な農耕体制は、外からの波を招きよせ、ひきつけながら、同時にまた常に押し戻していたのだ。」
—『美の世界旅行(新潮文庫)』岡本太郎著
「韓国に着くと私はいろいろ見歩くかたわら、考古学、歴史学、民族学等、さまざまの学者に会った。その度に私の予感する北方的な流れについて、具体的な証拠はないか、聞きただそうとした。石器時代から古墳の話、神話、古いことならいくらもある。先生方は気持ちよく語ってくれた。しかし、そういうものが今どこに現実に生きているのか。私はそれがつかみたい。 考古学者の金元龍さんと会って話している時、私がこれから扶余の方に行くつもりだと言うと、それなら公州の郊外の村では今でも「チャンスン」が見られる、と道順を教えてくれた。 長 の話はそれまでも度々出ていた。朝鮮には古くからソッテとも言って竿の先に鳥の形をつけて立てる風習がある。新羅時代の青銅器にもこれを彫ったものがある。非常に古くからの習しであることは確かだ。昔は村境とか峠など到る所にあったという。領域を標示する神聖な印らしい。だがいろいろと聞いてみても、それはいつも断片的な話で終ってしまい、どうもはっきり意味がつかめなかったのだが。」
—『美の世界旅行(新潮文庫)』岡本太郎著
「ところで、私はいわゆる世界美術史の、オーソドックスに組まれた頁をめくったのではあまりそういう戦慄を感じない。重々しく立派なものは沢山あるが、それらは過去の栄光、宝物であるにすぎないと思われるような何かよそよそしさが先にたち、直接迫ってくる生命の共感が薄い。無条件な流れを見とることが出来ないのだ。 近頃はいくらか変りはじめているが、先頃までの美術史は、公認「世界史」の筋書きにそって、巨大な体制や、人類のいわゆる進歩にとって大きな段階をすすめて来たとされるような文明ばかりをつらね、それにほとんどのスペースをさいている。しかも史観の基準になっているのは西欧先進国の視点だ。抜き難いヨーロッパ中心主義。それをおし頂いている日本も同じである。せいぜい中国という昔から因縁深い先進文明に目を配るだけ。そこからはずれたものは、まともに扱おうとはしない。どうしようもない事大主義だ。 大文明の、型どおりに評価されたものだけを、時間軸に羅列して行くのがいわゆる「美術史」だったのである。だから、いつでもバビロニア、エジプトにはじまり、ギリシャ、ローマと来て、ルネッサンスが一頂点になる。 ところが私の感動するものといったら、どういう訳か、すべて、そんなおきまりの枠組みから外れたものばかりである。例をあげれば、まず日本の縄文文化。ヨーロッパではケルト。そしてユーラシア大陸の東と西にまたがったスキタイはじめ騎馬遊牧民の諸文化。これは朝鮮半島まで流れ込んでいる。中国では殷周の銅器。それに北はエスキモーから、中南米のプレ・コロンビア文化……考えてみると、これらはとかく古拙だとか蛮族の遺物、などと片づけられて、どれもオーソドックスな美の体系には組み込まれていない。そういうものを私がわざと選んであげているように思われるかもしれないが、そんな意図はまったくない。さまざまの体験のなかで私自身がぶつかった純粋な感動を、無条件に、無作為に並べてみただけだ。」
—『美の世界旅行(新潮文庫)』岡本太郎著
「余談になるが、パリの近郊のアンドレ・マルローの邸に招かれた時、私の『美の呪力』を仏訳した『 L esthétique et le sacré』という本を進呈した。彼は興味深そうにその場で頁を繰っていたが、中で組紐紋について書いた章の口絵に目をとめた。そこにはケルト美術とならべて、縄文土器の部分の写真がのせてあった。マルローは、「ああ、ケルトだね」と言う。「いや、こっちは日本の原始芸術、縄文土器です」「ふ ーむ。縄文の土偶は知っていたが。こんなのがあるのか」 とびっくりしていた。西欧人に珍しく、日本美術にあれほどの関心と教養を持つ彼でさえ、見分けがつかなかったのだ。」
—『美の世界旅行(新潮文庫)』岡本太郎著
「私はパリ時代、「アプストラクシオン・クレアシオン」に参加し、ともに芸術運動を闘いながら、無機的な冷たい抽象には絶望していた。そして私は誰とも違った、私独自の、言葉はおかしいが「具体的抽象」とでも言うべき、無条件の色・形となまの現実感とのぶつかりあいを表現したのである。当時の機関誌に私は書いている。 「……まさに、色でない色、形でない形をつき出すべきだ」(「アプストラクシオン・クレアシオン」年鑑画集第三号、一九三四年) このようなスジはようやく最近、注目されはじめているようだ。」
—『美の世界旅行(新潮文庫)』岡本太郎著
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岡本太郎が世界を旅し、各国の美術や建築を語ります。
以前「孤独が君を強くする」を読んで、意識高めでストイックそう…と感じたけど、印象だいぶ変わりました。
どこに行ってもその地の風土・生活様式・価値観などへのリスペクトにあふれ、無邪気にはしゃいでる。
遺跡や建築美術から、当時の人々の営み、ナマっぽさ・俗っぽさ・おおらかさを感じ取るアンテナの感度ったら。多分、人の何倍もの濃度でキャッチしているんだろうなぁ。
これはそのつど画像を検索しながら読むのがおすすめ。
太陽の塔やみんぱくで、私も「なんだこれは!」と圧倒された展示の数々。それを思い出しつつ現地に想いを馳せます。楽しい〜!
さらに「こうなっちゃうと残念」にも言及。
美しさや巧みさ、技巧を凝らし「こう見せたい」方向に振れていくと途端にその魅力は失われると。
ヤマザキマリさんが解説で、太郎がうんざりしているという西洋美術に対し「そんな事ない!と詰めたい(意訳)」と語っているのもなんだか熱くてよかったなぁ。
もちろん美術だけではなく。
各地の美しいお姉さんとはすぐ仲良くなるし、フラメンコは踊るし、美味しいものもいっぱい教えてくれる。好奇心旺盛で人懐っこい太郎を知ることができました。
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初めて岡本太郎の文章を読んだけれど、これほど上手いとは知らなかった。まるで岡本太郎と一緒に旅をしたような気にさせられ、その情熱に当てられる。熱がいつまでも残る。
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岡本太郎のインド、スペイン、メキシコ、韓国滞在記。行ったことのないインドと韓国は、へーそうなのかという感じだったけれど、共通しているのは外から押し付けられた価値観、インドで言えば統治国英国の美術、スペインで言えばイスラム文化を否定するためのカトリック文化の魅力のなさが強調されている点で、その「外来文化」への批判が面白かった。日本で彼が嘆いていた西洋美術への追従に共通するものをこれらの国でも感じたという点で、西洋以外にいくとどこでもそんな感じなのかもしれない。残念ながら…
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1970年代、当時50代であった著者が書き記した世界旅行記、岡本太郎という1人の人間のとてつもない知性と情熱に圧倒される一冊でした。
自分は現在40代前半ながら、ここまで知性と情熱に満ち溢れた旅行記を書くことができるだろうか...。
知識が豊富なだけでは決して書くことができない。年を重ね人間としての経験を積み上げて完成される世界観と信念があってこそ書くことができるはずだと思う。
そして、それは絶対的な個性であって、この本の中身こそが岡本太郎さんあり、1つ1つの文章から人間としての強いカッコよさがひしひしと伝わってくる...!
生を与えられた人間としての知性と情熱もうすこし燃焼させる気概で生きることが今の自分に大事なのかもしれない...、読み終えてのなんだかそう感じた。
本書を読む前、晩年に世界旅行するモチベーションは皆無であったが、今は色々巡ってその時々で感じる自分の正直な気持ちと思いっきり向き合って旅行してみたい気持ちである。
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岡本太郎といえば、大阪万博の太陽の塔とビデオテープCMでの「芸術は爆発だ」くらいしか思い浮かばす、その芸術作人のイメージは、整っていないがエネルギッシュというものくらいだった。
しかし、本書を読んで彼の芸術観には非常に共感を覚えた。
驚いたのは文章がとてもすんなりと入ってくること。
ヤマザキマリの解説がすべてをうまく説明している。
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新潮文庫 岡本太郎 美の世界旅行
インド、スペイン、メキシコ、韓国の旅の記録
「宇宙」という著者の感性を理解するのは難しい。とりあえず「宇宙」は 生命や神秘につながる 空間と解釈した
その空間においては、生命が流動化し、生と死が循環し、永遠に輪廻が続き、世界旅行は そのような空間との出会いだった、というふうに読んだ
「宇宙と合体する眼」という言葉は 眼を通して(色や形を通して)、生命や神秘につながると読めるが、「顔は宇宙だ」という言葉は、何度読んでも わからないので 理解を諦めた
著者が宇宙を感じた対象
*インド〜エレファンタ島のシヴァ神、エローラの石窟、ガンジス川。タントラ
*スキタイ文化の動物紋様
*スペイン〜サグラダファミリア大聖堂
*アステカの神像(コアトリクエ)
*マチュピチュの遺跡
*縄文土器、ケルトの組紐紋
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太郎さんの感性には熱がある。生命の根源から湧き起こるもの、その熱量を感じるものが好きなのだね。訪れた土地や美についての語りが岡本太郎らしいんじゃないかと思う。触れた美術や文化、風習から命の躍動を感じ取り、その刺激に自身の魂を奮わせ創作に活かしていたのかな。おどけた顔をしているカバー写真。その両目は彼自身の宇宙に繋がっている。
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『生命爆発紀行』
岡本太郎が世界中を旅行し、その都度、ナマの体から湧き上がる思いを執筆した作品。
印象に残っている話はメキシコだ。
作品よりも、その作品の見えない裏側になにかとてつもない臭気の色や形が目を大きく見開いて鑑賞者につきつける感じ。
そのナマな表現はこれからますます浮き彫りとなり、宇宙の誕生、ビッグバーンのような響きが伝達していく。
Posted by ブクログ
岡本太郎の文章って、よくわかんないんだけど、なんかパワフル。読み終わってから頭の中で反芻しても、けっきょく何だったっけ?となる。 でもその熱だけは胸に残る。
巻末の解説によると、岡本太郎は「芸術はうまくあってはならない、きれいであってはならない、心地よくあってはならない」という三原則を唱えていたらしい。
そんなものを凡人は芸術とは呼ばない。天才は感受性が違うらしい。
冒頭は70年代のインドの旅からはじまる。この章が太郎の感性がもっとも敏感になり、躍動している。彼の美意識がよくわかる。静的できれいなものには目が向かない。暴れまくって猥雑なものに生命力を感じている。ガンジス河の川べりで沐浴する群衆のパワーに圧倒される。
こういう現実を嫌悪する人は、そこに美を見いだせないが、太郎はそこに美を見出す。
立ち止まって、目に美しく映るものが芸術ではなく、激しい奔流にもまれながら、魂が雄たけびをあげるような事象が好きなんだ。(自分でも何を言っているのかわからなくなってきたが、太郎の文章ってこんな感じ)
山深い寺で座禅は組むのは死んでも嫌だが、ねぶた祭りでは先頭に立って山車を引き回すぞ!って感じか?
自分が一番面白かった章はメキシコのところ。
現在渋谷駅に常設されている「明日への神話」の制作秘話が興味深かった。あんな重いテーマを一流ホテルのロビーのメインに据えようとしたメキシコの精神性を褒めたたえている。
生と死が日常のなかで隔てなく同居しているメキシコ(カラベラ祭りとかあるし)は、ケとハレの境を明確にする日本とは価値観が異なる。そういうところが居心地が良かったみたいだ。
あんな大作なのに、渋谷駅であの作品に目を止めている人はそんなにいないと思う。みんな忙しく過ぎ去っていくだけ。もったいないなぁ。
うん、我ながらひどいブクレポだ。
でも太郎の文章は熱いぞ!
それが伝わればいいや。