【感想・ネタバレ】テクノロジーは貧困を救わないのレビュー

あらすじ

いまだITスキルに大きな格差があるインド。学校では上位カーストの生徒がマウスとキーボードを占領している。「これこそまさに、イノベーションにうってつけのチャンスだ。1台のパソコンに複数のマウスをつないだらどうだろう? …そしてすぐに〈マルチポイント〉と名付けた試作品と、専用の教育ソフトまで作ってしまった」。しかしその結果は… 「ただでさえ生徒を勉強に集中させるのに苦労していた教師たちにとって、パソコンは支援どころか邪魔物以外のなんでもなかった。…テクノロジーは、すぐれた教師や優秀な学長の不在を補うことは決してできなかったのだ」。こうして、技術オタクを自任する著者の、数々の試みは失敗する。その試行錯誤から見えてきたのは、人間開発の重要性だった。ガーナのリベラルアーツ教育機関「アシェシ大学」、インド農民に動画教育をおこなう「デジタル・グリーン」、低カーストの人々のための全寮制学校「シャンティ・バヴァン」などを紹介しながら、社会を前進させるのは、テクノロジーではなく、人間の知恵であることを語りつくす。

...続きを読む
\ レビュー投稿でポイントプレゼント / ※購入済みの作品が対象となります
レビューを書く

感情タグBEST3

Posted by ブクログ

Microsoftで働いて、その後インドのms研究所を立ち上げ多くのプロジェクトを行った著者による開発経済学寄りのエピソードを交えた学書。
翻訳ではないのでスラスラと読めた。
テクノロジーやシステムを与えただけでは問題の根本が解決しない難しさを具体のエピソードを基に記述しているので説得力があって分かりやすい。
ITに限らず常に頭の片隅に置いておくべきもの。

70/100

0
2021年07月31日

Posted by ブクログ

ネタバレ

テクノロジーは貧困層の生活を豊かにする万能策なのだろうか?
これがこの本の大きな問いである。そして著者はこの問いに対して「No」と言い、結局のところ、テクノロジーを利用する人そのものをアップグレードすることが必要であると主張している。

この本の大きな意義は、テクノロジーの役割を再定義したことにある。著者は「増幅の法則」という理論を提唱しており、テクノロジーの本来の役割は「人の能力や意志を増幅することにある」としている。

この本から得られた「増幅の法則」という着想は、家父長社会におけるICTの役割や意味を研究する自身にとって非常に有益なものであった。男性が支配的なバングラデシュ社会において、もはや女性は男性に従属的な存在であるだけでなく、その不平等な社会に何とか抵抗しようと戦略的に生きている。このようなバングラデシュ社会に今、モバイルフォンを活用したICTサービスが普及しつつある。家父長社会に生きる女性の戦略的行為に対して ICTがいかなる役割を果たすのか。この問いに答えるための重要な視点をこの本が与えてくれた。
(名古屋大学大学院国際開発研究科 博士課程 綿貫竜史)

0
2019年12月15日

Posted by ブクログ

ネタバレ

テクノロジー!への懐疑を募らせる日々。

生身の人間から作られているのがこの世界。


著者は、テクノロジーという外的な介入パッケージではなく、実際に変化をもたらす主体の「内面的成長」に焦点を当てる必要がある、という。

_本書の中核的テーマは、社会的状況を解決するべき問題としてみるよりも、育成するべき人や制度として見るべきだというものだ。

テクノロジー至上主義への批判や反証をさらに深堀する。

非営利組織アジム・プレムジ財団代表、アヌラーグ・ベハールが、2010年『ウォール・ストリート・ジャーナル』のインド系列紙記事で、15000校以上のコンビェーター室で展開する自らの組織の活動に疑問を役げかけ、「[情報通信技術]の解決策としての魅力は、せいぜい現実の問題から目をそらさせるだけだ。最悪の場合、情報通信技術は本物の問題を解決する代替案として提案されてしまう」と書き述べている。

貧しい地区の子どもたちがパソコンを自由に使えるようにした、「Whole in the Wall Project 」では、大人の手助けなくても使い方を自分たちで覚えたか、何をしたかというとせいぜいビデオゲームをする程度だった。

著者は、自身の実践や調査結果を通して、テクノロジーに内在する力についての迷信を打破します。



テクノロジーの性質として著者が見つけたのが「増幅の原則」。

テクノロジーは、人間の能力を増強する効果が第一にある、とし、テクノロジーが増幅させる人的資質として、以下の3つを挙げられています。

意図-心

判断力―知性

自制心ー意志

_介入パッケージがどのような「チャンス」を生み出していようとも、それ単体ではプラスの社会的変化を保証するものではない。

肝心なのは、テクノロジー導入の対象者、コミュニティに、どのような方向性があり、能力の基盤があるか。手段としてのテクノロジーは、人々が持ってきた欲求に応えるし、そこでは潜在的な感情も誇張される、という性質がある。

人が変数であるということに関連して、ピーター H.ロッシのプログラム評価に関する鉄則もこれに当てはまる、と。

「非常に能力が高く、強い熱意を持った人員が小規模なプログラムを実施するのと、能力も意欲もさほど高くない人員がプログラムを実施するのとではわけがちがう」

つまり、介入パッケージの効果が対象の能力に比例している。



デジタル・グリーンの事業では、それにかかわる人間に適切な焦点が注がれていたことを紹介しています。いかに目標にあった人的能力を特定し、あるいは構築することが大事か、例えばースタッフを雇い入れる、パートナーを探す、など、具体的方法についても書かれています。

また、IT大国となったインドがどう教育に重点的に取り組んできた結果だと論じています。1953年、ネルー首相が国立インド工科大学(IIT)を設立。人的能力の構築に数十年を費やした結果としてのテクノロジー分野の躍進。IIT卒業生の多くが海外に出ていく、マイクロソフトの20%がインド出身、その多くがIIT卒業生とのこと。

インドの全寮制学校シャンティ・バヴァンで低所得、低カーストの家庭の子どもを受け入れ、学問、課外活動、人格と文化的財産を重視した教育を実施している例とその成果。

また関連して、インド、イスラエル、台湾などにみられる、頭脳の流出が、有益な頭脳の循環に変化し得る、という「頭脳循環」を裏付けるアナリー・サクセニアンによる研究も初めて知りました。

個人の成長と社会的発展は、相互に引き起こされ、補強し合う、ことについても興味深い研究として、リチャード・フロリダが行った「クリエイティブ・クラス」と名付けた階級を調査では、マズローの欲求段階の枠組みで、個人の願望(自己実現階級の上昇)と国の人口構成(労働サイクル)との関連性ー農業人口のピーク(1900)、労働者人口、(1910-60)、サービス人口(1970年代~)ーが示されているそうです。



メンターシップ

内面的成長を個々人に促すために鍵となる取組のひとつがメンターシップ。

_すぐれたメンターシップに重点を置くのは大事なことだ。着飾っただけのメンターシップや、流行り言葉だけのメンターシップに重点を置いてはならない。メンターシップは、概念を根本から覆すようなものではない。だが、それが社会的大義の模範として取り上げられることがまずないため、理論家、政策決定者、支援団体に無視されてきた。だが、メンターシップはトップダウンの権力、事前的なパターナリズム、うわべだけの平等といった問題を回避する、包括的な枠組みになるのだ。

たしかに、多くの事業や活動で、何を教えるか、というような情報の部分に焦点を置きがちになり、人間の成長のための指導や教育から焦点に十分な焦点を注いでいないと気づく。

コミュニティのオーナーシップやエンパワーメント、参加型、などというけれど、

手続き的になる傾向があり、徹底する意志を確実に持っていないのは、テクノロジーや専門知識の活用という点でもかなりもったいない、ということを再認識しました。

個々人に丁寧に焦点を当てる視点を取り戻す必要があるのかもしれない。そして、プロジェクトを実施したら自動的に一定の成果が出る、というような発想から抜け出す必要もありそうだ。社会をよくすることは、時間がかかること、意志を伴う一人一人の献身が合わさって、そして継続して、やっと達成できるものだということ。

0
2025年01月19日

Posted by ブクログ

元マイクロソフトのエンジニアである著者は、インドでの教育・開発支援にかかわった経験から、ソリューションの援助よりも先に、心(意図)、知性(判断力)、意志(自制心)を備える受け手がまず必要だと説き、テクノロジーを投入さえすれば、自発的に活用されて生活が改善するという考えに批判を加えている。

ここで批判されているプロジェクトは、
ワン・ラップトップ・パー・チャイルド(One Laptop Per Child)
ホール・イン・ザ・ウォール(Hole in the Wall)
グラミン銀行
など。

将来的に収入の増加が見込めるとしても、勉強したりビジネスを立ち上げて成功するという事例を見聞きしたり、体験していない層に、情報や資本へのアクセスを提供したところで活用されない、というのだ。

そして、成功事例として、農村に密着する指導者を備えた農業情報提供「デジタル・グリーン」や、教師による指導が実績を上げている教育機関など、人と文化に寄り添う支援を紹介する。

援助の受け手が貧しい原因を、テクノロジーの不足ではなく、貧しい人たちが向上心や勤勉さが欠けているからだとすると、そういう魅力的でない人たちを助けるというのは気分が良くない人もいると思うし、自己責任論にもつながりそうだ。

東アジアにテクノロジーが流入するとそれを使いこなして発展することができたのは、儒教という社会性や学習を重んじる学問体系によって、テクノロジーを活用する素地が作られていたからなのではないか。

ジャレド・ダイヤモンドは「銃・鉄・病原菌」でテクノロジーと産物が民族の興亡を決定づける、としたけれど、切り口を変えるとまた全然逆のストーリーが出てくるんだなぁ。

0
2018年10月21日

Posted by ブクログ

 学生時代に輪読したカステルを思い出した。「情報技術と社会の相互作用」という訳を多用した記憶があるが、その表現だとなんだか抽象的でピンと来ないが、本書を読めば、「あ、そういうことね」と合点がいく。学生時代の自分に読ませてやりたい。本書の主張は、社会問題のみならずビジネスシーンでも思い当たる節がある。情報技術がどれだけ進んでも、それを導入する側に度量がなければ、成功しないとの感覚をもっており、同意見である。

 ツイッターの使い方は誰でも覚えられる。だがどのような媒体を使うにしろ、説得力のある議論を構築して展開するには思考力と文章力、そしてコミュニケーション力が必要だ。これらの能力は携帯メールや電子メール、パワーポイントの利用を通じてますます表現されるようになってきてはいるが、それらのツールに教えられたものではない。同じように、コンピュータの「使い方」を覚えるのは簡単だが、会計や工学に必要な基本的数学能力には、問題を繰り返し解くことで身につくしっかりとした基礎がなければならない。そうした基礎は、コンピューターがあろうがなかろうが容易に身につけられるものだ。つまり、現代社会のデジタル機器を使えるようになることと、情報時代に求められる批判的思考能力を身につけることとの間には、大きな違いがあるということだ。

 言ってしまえば、生徒たちは歴史上の偉大な思想家たちが何世紀もかけて思いついた発見、もっとも深い思考を、たった12年で再構築しなければならないのだ。
 これは遊び半分にできることではなく、指導に基づく動機づけが必要だ。どれだけ派手でインタラクティブな図や絵が教材についてきたとしても、子どもがその科目を消化するという自分の中での困難な作業を行わなければ意味がない。

 私がインドで担当した50数件のテクノロジー関連プロジェクトは、幅広い成果を生んだ。その中のいくつかは、人々の暮らしを改善することもできた。…だがいくつかは、時間と資源の無駄だった。…
 …調査結果に何らかの構造を見い出そうとする中で、本当の意味での影響として三つの要素が見えてきた。
 第一の要素は、研究者の熱心さだ。これは研究の成果に対する熱心さではなく、具体的な社会的影響に対する熱心さを指す。…
 第二の要素は、パートナー組織のやる気と能力だ。…
 三つ目の要素は、対象となる受益者だ。彼ら自身に、与えられたテクノロジーを活用しようという欲求と、それができるだけの能力が必要となる。…

 …社会的決定論者が主張するのは、テクノロジーは基盤となる人間の意志によって役立てられるということだ。同時に、どのテクノロジーが変化を起こせるのかは、人間の既存の能力によって決まる。これらの概念を合わせれば、テクノロジーの一番の効果は人間の能力を増強することだと言える。… 
 この考え方はあまりにも単純であまりにも適用範囲が広いので、私はこれをテクノロジーの「増幅の法則」と考えるようになった。

 コストを削減しようという企業の熱心な努力をデジタルツールで増幅させているウォルマートとは異なり、アメリカの医療制度では、テクノロジーは支出を推奨するものばかりが増幅されている。患者の杞憂、医師の弱さ、サプライヤーの強欲さ、そして政策決定者の先見の明のなさ―こうした社会的力のすべてを、テクノロジーは残念ながら増幅してしまう。

 新型のノートパソコンがあったからといって、従業員の生産性が上がるとは限らない。最先端のデータセンターがあったからといって、より戦略的な思考は生まれない。そして知識管理システムがあったからといって、競い合う部署が互いに情報を共有するようにはならない。それでも、最高IT責任者たちはどこの会社でも、まさにそういう裏技めいたことを要求される。経験豊富な人物なら、あまり多くは約束しすぎないようにするだろう。テクノロジーはすでにうまくいっているシステムをさらに改善することならできる(これも増幅の一種だ)。だが崩壊したシステムを修理することはできない。管理なくして知識管理はありえないのだ。
 
 
 とにかく、低価格のテクノロジーは不平等と闘う効果的な手段ではないのだ。なぜなら、デジタル・デバイドはその他の格差の原因ではなく、むしろ症状のひとつだからだ。「増幅の法則」の下では、テクノロジーは―たとえ平等に分配されたとしても―格差をつなぐ橋ではなく、隙間を押し広げるジャッキの役割を果たす。既存の格差を広げるだけなのだ。

 これはもちろん誇張だということは認めるが、ひどく極端な例ではない。私は学者や起業家、非営利組織のスタッフ、プログラム・オフィサー、政府の大臣らと世界の貧困について何百回と議論を重ねてきた。驚くほどの頻度で、誰かがテクノロジー十戒(意義より測定、質より量、根本原因より究極目標、経路依存より目標主義、内的より外的、実証済みよりイノベーション、英知より知性、価値没頭より価値中立、集団主義より個人主義、責任より自由)のうち、いずれかの変化版を引っ張り出し、自分たちが実行しているお気に入りの介入を、その力に対する独りよがりな確信とともに正当化するのだ。

 デジタル・グリーンは、介入パッケージの最適な活用法が選択的で対象を絞った方法だということを教えてくれた。その教訓は、三つの原則に集約できる。
 第一の原則―目標にあった人的能力を特定するか構築すること。
 第二の原則―適切な人的能力を増幅させるために介入パッケージを活用すること。
 第三の原則―介入パッケージの無節操な普及は避けること。

 パートナー組織が重要である以上、その選定も賢くおこなわれなければならない。デジタル・グリーンに限らず幅広いプロジェクトを見てきた私個人の経験上、すぐれたパートナーには三つの資質がある。すぐれた意図、判断力、自制心。あるいは、私が「心、知性、意思」ととらえているものだ。

 内面的成長は、新しい概念ではない。古くからある考え方に新しい光を当てただけだ。伝統的な美徳はすべて、三本の柱で説明できる。今の自分以外の誰かのためにすぐれた判断を下すとき、自制心があれば勇気で恐怖を乗り越えられる。克己心は短期的報酬を見極め、長期的な利点のために自制心を呼び起こす。正義と慈悲心は他者に対する善意の表現だ。慎重さは洞察力をもって呼び起こされた自制心だ。謙虚さは自信が過信に変わる瞬間を見極め、自尊心を抑制する。近年人気の「やり抜く力(GRIT)」や「回復力(レジリエンス)」といった能力も、心、知性、意思を同じように組み替えたものだ。
 本書の中核的テーマは、社会的状況を解決するべき問題として見るよりも、育成するべき人や制度として見るべきだというものだ。この問題は、異なる側面から多くの人々に取り上げられてきた。

0
2021年08月08日

Posted by ブクログ

最初のほうは教育との関連を強く出していたが、だんだん、道徳律の話になってきて、最後の方はインドの話を中心とした開発援助のあり方の話になっていった。
 情報教育の参考文献とするにはすこし外れてしまったような気がする。

0
2017年07月18日

Posted by ブクログ

マイクロソフト・リサーチでキャリアを重ね、今ではミシガン大学の准教授になっている方による、貧困を救うためにはテクノロジー一本槍じゃダメなんだ、という主張。
読み始めた時は、もっとテクノロジーよりの細かい話で、「こういうところを改善すれば…」的な提言でもあるのかしら、と思っていたのですがさにあらず。前半は優れたテクノロジーがあっても上手く行かなかった例、後半は、援助において(あるいは物事全般において)人を動かすためには何が必要なのかを語っています。
個人的には、少し視野が広がった感覚があり、タイトルだけから想像していた内容よりも良い意味で意外な展開でした。

例えば、スラム街の学校にパソコンを導入して、賞まで受けたプログラムも「現場を訪れてみると、パソコンが使われていないか、機能していないか、年長の男の子がゲームをするために占領しているか」という有様で、結局のところ「大人による動機付けや指導」が不可欠。テクノロジーは所詮ツールに過ぎない、ということを語っています。
少々読んでいて難しく感じた所もあったのですが、著者の長年の経験が活きた生々しい事例が多いのは素晴らしいなぁと感じました。

0
2017年06月25日

Posted by ブクログ

日本語タイトルはいかがなものかと思うが,内容はしっかり
した本だ。
技術だけでは何もできない人が重要なのだ,というのはその昔の村おこし,町おこしのときから変わってない。

0
2017年03月23日

Posted by ブクログ

書きたいこと、いっぱいあるな。
まずはやたらICT導入とか言っちゃって、人の予算削ってまで機械にお金注ぎ込む能無し自治体へ、爆弾のように投げてやりたい。
といっても、そんな能無し野郎どもはこれを読むだけの能力もないかも、だけど。
翻訳文で、かなり厚いよ。
とはいえ、4分の1は参考文献と原注と索引だけどね(笑)
とにかく自治体の物事を見通す力のなさを呪いたくなる1冊でありましょう。

テクノロジーの作用というのは人間の生活を良くする効能があるのではなく、今ある現象を増幅させる(レバレッジを効かせる)作用があるということ。
昔の人は偉かった、こういう事象をちゃんとすでにことわざにしてる。
「馬鹿とハサミは使いよう」
使う方に能力があれば素晴らしい結果が生まれるし、残念な人はさらに残念なことに。
格差があれば、それを増幅してしまうに過ぎない。

それともう一つは、本書で介入パッケージと呼ばれる様々な取り組み(ICT機器導入に代表されるような)が、ほぼ壊滅的に機能しない原理が嫌というほど理解できる。
全国で広まった朝読書運動なんかもこの介入パッケージに該当するのだろう。
単に、なんかいいらしいからうちでもやるか、先生は丸つけするのに丁度いい時間にもなるしね、などという導入は何の解決策にもならないということ。
読書マラソンしかり、読書郵便しかり、ランニングデーしかり、なんちゃらウィークしかり、人権週間しかり、あらゆるパッケージは導入しただけでは、全く機能しないということに今更ながら強烈に気づかされる。
介入パッケージが劇的な効果をもたらすのは現場でそれを推進する側の心と知性と意思である。
もうそこまで心血を注げない、注ぐ余裕のないパッケージは、いったんやめにしませんか、学校さん。

どんなユートピアを描こうと機械はそこにあるだけだ。
それを使う人をこそ育てなければ、ドブにお金を捨てるのと大差ない。

0
2017年02月05日

「ビジネス・経済」ランキング