【感想・ネタバレ】最終解答 日本近現代史 幕末から平成までの歴史論争を一刀両断のレビュー

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Posted by ブクログ

この本は年末(2017)大掃除で部屋の隅っこに、読みかけ本として発掘されたものです。殆ど読み終えていたので、最後まで読み通しました。この本の著者である、八幡氏の本は今まで何冊か読んできて面白かったので、この本も私の期待に応えてくれました。

以下は気になったポイントです。

・戦争はどこを味方につけて、補給をどう確保するかも考えないと意味がない。日本は兵器も最新式で強力だが、アメリカ軍の戦略の一部に組み込まれたいびつな軍事力である。対潜水艦作戦と、掃海能力はトップクラス(p45)

・江戸幕府が儒教道徳を推奨したことで、武家社会では、男女の違いをはっきりさせて、男女の接触もあまりさせないようにした。明治以降、こうした風習が民間にも普及してしまい、女性の社会進出の妨げとなった(p54)

・中国や日本、ベトナや朝鮮など、それなりの国家が成立しているところを、ポルトガルやスペインが植民地にすることは無理であった(p63)

・オランダやイギリスといったプロテスタント諸国が、布教を伴わない貿易を提案した、イギリスはオランダとの競争に負けたのでオランダは江戸幕府から貿易の独占権を手に入れた(p66)

・フランス艦隊が沖縄に現れたとき、阿部正弘は、琉球が独自にフランスと貿易関係を持つことを認めて良いと島津斉彬に言ったが、そんなことをしたら、五島列島をイギリスが、対馬をロシアがといったことになっただろう(p76)

・士族は、おおざっぱに言って、上級武士、下級武士、足軽、武家使用人に分けられる。上級武士は騎馬が許されて殿様にお目通りでき、下級武士は裃袴姿だが歩兵、足軽は袴がはけず半ズボン、武家使用人は戦闘要員ではなかった(p88)

・会津は取り潰されたが、青森県東部に斗南藩を設立した、藩内の猪苗代か、斗南かと聞かれて斗南を選んだのは会津側、藩庁を極北の下北半島に置いたのも会津藩のミス(p110)

・明治新政府は、大阪への遷都を検討し、一時的に天皇を大阪へ移して様子を見よう、という方針で明治天皇も大坂城へ移った(p114)

・明治3年に、西還延期が発表されて、そのままにになっている。明治16年に、京都御所を保存、即位の礼・大嘗祭は京都で行うことで決着した。大正、昭和の御大典はそこでおこなわれたが、平成の即位の礼は東京で行われた(p118)

・廃藩置県により大名は東京に移住させられたが、こんな大胆な措置がどうして成功したかの理由として、もともと大名の生活の本拠は江戸にあって、特に正室と嗣子は両国に行くことを禁止させられていた、それが文久2年(1862)の政変で領国に移ってよいことになった、実家や親せきと生き別れになっていたので、東京に帰るのは大歓迎であった(p120)

・廃藩置県直後は藩をそのまま県にしたので、3府302県、明治9年には第二次府県統合が行われて、3府35県、後に独立(富山、福井、奈良、鳥取、徳島、佐賀、宮城)があり、明治21年には香川県の独立をもって、47都道府県となった(p122)

・戦争にほとんど負けたことのないロシアにとって、負けらしい負けは、チンギス・ハンに負けたのと、日露戦争くらいである。英仏に負けたクリミア戦争は、相手が連合なので少し違う(p209)

・昭和天皇の不興をかった松岡洋祐は、国際連盟脱退(制裁を避けるため、委託統治が継続、東京五輪の誘致の成功)ではなく、日独伊三国同盟を締結したこと(p237)

・戦後の平和が守られたのは、1)第九条、2)日米安保条約と、ほどほどの規模の自衛隊、3)経済力、の3点セット(p309)

2018年1月1日作成

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2018年01月01日

Posted by ブクログ

日本の繁栄と衰退を客観的に断じた本。この本の面白いところは業績で判断するところ。例えば高橋是清は大蔵大臣としては優秀だが総理としては凡庸とかその時に為した事が是が非かで考えている。

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2017年08月13日

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