あらすじ
どうして自分だけが私なのか、そして他人は私ではないのか。
生み出される意識のうちの一つが、なぜ現実に感じられる私の意識なのか。
なぜ意識できる意識は一つしかなく、意識できない意識が無数にあるのか。
科学的にも宗教的にも説明が到達不可能な哲学上の難問に、
古今東西の哲学者たちの思想を問い直しながら挑む。
〈私〉の精神を〈私〉から他者に移動させてみる、
あるいは時間を〈今〉から過去に移動させてみる、
あるいは〈私〉の自我を2つに分裂させてみるといった思考実験によって
「存在と時間」の深遠を探る哲学の旅。
「文學界」連載「哲学探究――存在と意味――」に大幅な加筆修正をほどこし刊行。
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Posted by ブクログ
風間くんとは話を交わしたことがある。その風間くんに影響を受けて書かれたようだ。というより、理解されない可能性が高いのだよ。注が多くて、分かりにくかったりしてね。でも、なんというか、『私、今、そして神』を読んでからじゃないと意味が通じないかもね。この本は後半の時間論にこそ重きを置いているようだ。でも狂いそうだよ。ここに今、私が存在していることが。驚きは増せど減ることはなし。物凄く当たり前なことのそれが、全く奇跡なんだ。直接話法があることによって間接話法が存在するように。同じ対象があるかもしれないけど、それを指示する方法って色々あるものでして。でも、それによって違う対象を指すことにもなるわけで。でも、何かが共有されていることもあるのでしょうか。言葉が成り立つっていうのはすごく不思議。誤解されるところは存在論と認識論の違いがあって、永井さんは存在論のなかを生きている。自分は認識論のなかを生きていたように思う。認識できないものは存在しない、という原則に生きていた。