あらすじ
『苦海浄土』の著者の最高傑作。精神を病んだ盲目の祖母に寄り添い、ふるさと水俣の美しい自然と心よき人々に囲まれた幼時の記憶。「水銀漬」となり「生き埋め」にされた壮大な魂の世界がいま蘇る。
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Posted by ブクログ
「苦海浄土――わが水俣病」は、ルポルタージュとも小説とも言い切れない、「凄い文章」と呼ぶしかない、異様な散文だった。
それに対する本書は、いわば「苦海浄土」エピソード・ゼロ。
著者が1927年生まれなので、作中のみっちんがおおむね4歳ということは、1930年前後の水俣が舞台なのだろう。
しかし4歳児がここまで精緻に記憶していたかは怪しい。
そして彼女を取り巻いていた大人の事情をここまで把握していたはずはない。
単行本は1976年刊行。
50歳近い著者が、45年前の自分自身や、今は亡き家族親族知り合い、どころか村自体を憑依させて、書いた。
(その村は、人が自然死するよりも理不尽に、決定的に損なわれた……「水銀漬け」「生き埋め」)
「もはや語れぬ者」の言葉を「語れる自分」を媒介にして代弁しているのだ。
それを2022年現在、約50年前の言葉でもって、90年ほど昔の村を追体験させてくれる、これもまたやはり異様な散文。
てなことを理屈っぽく書いてしまったが、語り口がマイルドで、読んでいて深呼吸できるような気持ちになった。
字の文の擬音語擬態語多用もそうだが、やはり方言による会話。
「おもかさま、気分はどげんでござりまっしゅ」
「あい、あい」
とか、
「ここばずっとゆけば、湯ノ児にゆかるっと?」
「ゆかるっと」
「ゆこい、湯ノ児に」
とか、パッと開いたところを引用してみただけだが、いいなー。抒情。
現在5歳児と暮らして幼児のごっこ遊びを間近に見ているというのもあるのかもしれない、おもかさまとの遣り取りは胸を突く。
が、ここに描かれた「とんとん村」が古き良きユートピア! パラダイス! なんてことは一切ない、峻厳な視点があることは、書き漏らせない。
そもそもその呼び名自体が差別意識を含んでいるし、差し挟まれる人々の言葉には、モロに差別意識や近代化についていけない、怒りや虚しさが滲む。
チッソの件はチッソが悪いと限定し糾弾して済む問題ではなく、日本の近代化の、もっとマクロに見るなら都市化やグローバル化のひずみが顕在化しただけ、なのだ。
都市生活者が自分を見失う、という文学の題材(うーん深く考えずに挙げるなら安部公房とか、村上春樹とか?)とは異なるベクトル、(おそらく実生活者にとっては何でもない)一地方を取り上げて、磨き上げて作品に仕立て上げる、文芸……大江健三郎とか中上健次とかジェイムズ・ジョイスとかウィリアム・フォークナーとかガルシア=マルケスとか。
自分で発見したような気がしていたが、池澤夏樹が世界文学全集を編んだときも似たことを言っていたかもしれない。
だから都市こそ文学という丸谷才一の文学全集構想とは、自分の全集は自ずと異なるんですよ、と言っていたのを、どこかで読んだ。
ともあれ中上健次に熱中していた十代には知らなかった石牟礼道子を、中上健次再読に先駆けて教えてくれた池澤夏樹には感謝しきり。
中上が書いたオリュウノオバやレイジョさんが、熊野だけでなく水俣にもいたのだ、と。
この発想は路地をブエノスアイレスなどに拡張した後期中上のもので、読者としては過去・現在・未来に渡って根拠地を想う方法。
その一例が石牟礼道子という作家。
人とは。村とは。都市とは。共同体とは。国とは。近代化とは。交換とは。生死とは。
ゆっくり読んでいきたい。
■第一章 岬
■第二章 岩どんの堤燈
■第三章 往還道
■第四章 十六女郎
■第五章 紐とき寒行
■第六章 うつつ草紙
■第七章 大廻(うまわ)りの塘(とも)
■第八章 雪河原
■第九章 出水
■第十章 椿
■第十一章 外ノ崎浦
◆あとがき(初版)
◆河出文庫版あとがき
◆解説 池澤夏樹
Posted by ブクログ
著者が、まだ不思議の世界の中に
いた時代…いわゆる幼児の時代の作品です。
子どもだから…
ということは決して通用しないということが
この作品の端々に出てきます。
その中には大人が言う
決して子どもの耳に入れてはいけないこと
も含まれています。
本来は耳には決して入れてはいけないものなのです。
ですが、穢れ多き大人たちはその禁を平気で犯します。
ただ、みっちんはいい親を持ちましたね。
決してそのことをまねしてはいけないという
母親に恵まれましたので。
最後はどこか神々しいものがありました。
おもかさまはもともとはひたむきで
優しい人だったに違いありません。
ただし、最愛の息子の死が
全てを変えてしまいましたね…