あらすじ
八千人もの赤ちゃんを取り上げた前田たまゑの産婆人生は、神戸の福原遊廓から始まった。彼女の語り部から聞こえる、昭和を背負った女性達の声。著書『さいごの色街飛田』の原点。
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Posted by ブクログ
遊郭の産院から
産婆50年、昭和を生き抜いて
著者:井上理津子
発行:2013年3月10日
河出文庫(河出書房新社)
初出:「産婆さん、50年やりました 前田たまゑ物語」(1996年、筑摩書房)を改題、増補、文庫化
井上理津子さんは、多くのノンフィクション作品を出していて、ほんの一部しか読んでいないけど、本書はこれまで読んだ中で一番。大変な傑作ではないかと驚いた。しかも、これが著者にとって初めての書き下ろし作品だという。「さいごの色街 飛田」ばかりが有名で、しかも、橋下徹が飛田新地(組合)の顧問弁護士をしていることが一人歩きすらしているが、井上作品はちゃんとフルで読み、味わって欲しいものである。
本編の書き出しに、ドラマ「おしん」のことが出てくる。前半、本書もまさに「おしん」のような話なのである。しかも、こちらは実話、ノンフィクション。タイトルからすると、遊郭近くの産院で長く産婆をしてきた人が、遊郭の女性たちの望まぬ妊娠や出産などを含めて子供を取り上げ、さまざま見て来た人間模様を語るような本ではないかと想像してしまう。
少々違う。「遊郭の産院」で働いていたのは、若い頃に看護婦見習いをしていた3年半のみ、産婦人科病院が神戸の新開地、福原遊郭にあった。産婆の資格を取ると、「お産の神様」と呼ばれた産婆の助手(神戸の摂津本山駅)、結婚してその近くで開業、戦後は尼崎で長く産婆(途中から助産婦)という道をたどった、そんな女性の話である。
まず面白かったのが、最初の「おしん」部分。前田たまゑは、1918(大正7)年生まれ。福知山線の広野駅が最寄り駅とあるので、おそらく今の兵庫県三田市あたり。父親はおそらく農業。先妻が長兄を残して死亡し、後妻が次兄、姉、そして、たまゑと産んだが、たまゑの下の子が死産となり、その後遺症で母親は京大病院に入院するも、健康保険制度がない中で医療費が嵩み、田んぼを売ったり借金を重ねたりして治療費を捻出した甲斐もなく、助からなかった。たまゑが6歳の時だった。父親は絶望したのか、たまゑを長男にまかせてお寺に入ってしまう。次兄と姉はすでに伊丹と大阪へ奉公に出ている。たまゑは長兄夫婦に世話になるが、長兄の嫁はきつく、すさまじい勢いで叱りつける。子供が生まれると、子守はほとんど任され、夜泣きすれば外であやす暮らしが続いた。
たまゑが17歳の時、その兄嫁も死産を経験する。立ち会ったたまゑ。自らの母親も、兄嫁も死産を経験。看護婦になりたいと思い始める。たまゑは勉強ができたため、学校の教師が尋常小学校の高等科にいかせてやってくれと頼みに来る。高等科へ行き、それを終える時にこんどはおじが来て、看護学校へ行かしてやったらどうかと兄夫婦に言う。そして、そのおじさんの紹介で大阪の住友病院看護学校を受ける。学科は通り、面接へ。この段階で落ちることはまずないと言われていて、面接の前半もうまくいき、「では、がんばってください」とまで言われたのに、不合格だった。最後に親のことを聞かれ、正直に母親が居ないことを言ったのが原因だった。片親は取らないとおじに言われた。
農業の手伝いをして暮らす。そして、20歳の時に神戸の新開地にある加西病院へ看護婦見習いとして入ることになった。福原の遊郭の近くにある産婦人科病院だったが、そこで働いた3年7ヶ月のうち、お産に立ち会ったのはたったの1回きりだった。あとは、梅毒や淋病、子宮筋腫や子宮癌の患者ばかりだったという。
労働条件は今でいう超ブラック。住み込みなので家のことも便利遣いでさせられた。院長の妻とあわず(というより性格が悪く)、本来の病院の仕事が済んでも家の仕事をいいつけてくる。朝から夜まで働かされる。さらに、根性も悪い。例えば、物の言い方もぞんざいで常にむかっとさせられるなか、ある夜に急に猫なで声で頼みごとをしてきたという。物資が配給の時代なので切符を持って交換に行かなければいけないが、「明日の朝、この切符でまんじゅうをもらってきてくれたら、ありがたいんだけど」と言う。たまゑも、そんなまんじゅうが食べられるならと思うと、夢にまでまんじゅが出てきたほど嬉しくなり、朝の4時に起きて、15分ほど走り、2時間も並んでぬくぬくまんじゅう6個を小走りで持って帰った。渡すと、「はい、ご苦労さん」の一言で、6つとも2階へ持って上がってしまった。子供3人なので家族は5人。残り一つはあるはずなのに。くやし涙を流した。
給料は18円。休日は月に3回のみだが、まるまる1日休みの日はなく、午前中の診療が終わった午後1時頃からやっと休めた。給料日が近づくと、きまって田舎の長兄から手紙が来て、月々の借金の返済が迫っているので10円を送金してほしい、と請求。残りは8円、半額は貯金するから、小遣いになるのはわずか4円。しかも、そこから田舎の義姉(兄嫁)に半襟や帯締めなどを買って毎月のように送る。
部屋は、診療室横の三畳間。薬剤の入った箱や空箱などが山積みされた物置同然。使わなくなった診察台のベッドは寝返りを打つと落ちそうになったが、それでも衣紋掛けに掛けた自分の白衣に目をやると、看護婦見習いになれたという満足感ににんまりした。
院長はおっとりしたいい人だった。2年して、産婆学校へ通うことが許された。勤労学生に。とてもうれしかった。家にいると正規労働以外に子守やおつかいなど家のことを言いつけられるから。
学校は2年間だが、産婆の資格は在学中にも取れた。資格を取り、それでも学校は続けたが、加西病院は1年半でやめた。本格的に産婆になろうと考えたためだった。そして、本山(摂津本山駅)の開業産婆である竹信という「お産の神様」と呼ばれる人のもとで、住み込みの産婆助手として働くことになった。
「神様」のもとで出産に関して大いに学び、結婚をすると、その近くに家を借り、産婆として独立した。順調ではあったが、戦争に突入することになる。陣痛はいつ始まるか分からない。子供が出てきた時に、情け容赦なく空襲が来る。生まれたばかりの子供を抱きかかえて逃げ惑わなければならない。そんなすさまじい話なども紹介されている。
そして、三田へ疎開。戦後、夫の実家がある尼崎に戻ると、焼け野原に掘っ立て小屋を建てた。それが、引退まで続ける尼崎での産婆へとつながっていく。自らの妊娠と出産もあり、人の子供を取り上げようとしたら自分が産気づいてしまったというようなエピソードもあったりして、なかなか読ませる。ここが一番ボリュームも大きく、饒舌に語られていく中で、日本の社会の変化、歴史の一端がありありと表現されていくのである。戦時中、あれほど「産めよ、ふやせよ」の国策のもと、子供を産まない女は非国民扱いしたくせに、戦後は一転して避妊を勧める役所。「これは国策です。従ってもらわないわけにはいきません」と産婆あらため助産婦を集めて偉そうに言う。これでは助産婦の仕事が奪われてしまう。
そんな怒りに感情移入しつつ、読み進めていくと、最後はなんと、著者である井上さんが2番目の子供をこの人に取り上げてもらう話で締めくくられるのである。取材で知り合い、1人目を病院で産んだ時になにか違和感を持っていた著者が、迷うことなく前田たまゑ助産婦に取り上げてもらおうと思ったようである。
「おしん」が終わってからのルポも、実に面白いのである。
まさに、傑作ノンフィクション。