【感想・ネタバレ】犠牲のシステム 福島・沖縄のレビュー

あらすじ

福島の原発事故は、原発推進政策に潜む「犠牲」のありかを暴露し、沖縄の普天間基地問題は、日米安保体制における「犠牲」のありかを示した。もはや誰も「知らなかった」とは言えない。沖縄も福島も、中央政治の大問題となり、「国民的」規模で可視化されたのだから――。経済成長や安全保障といった共同体全体の利益のために、誰かを「犠牲」にするシステムは正当化できるのか? 福島第一原発事故で警戒区域となった富岡町などで幼少期を過ごした哲学者による、緊急書き下ろし。【目次】はじめに/第一部 福島/第一章 原発という犠牲のシステム/第二章 犠牲のシステムとしての原発、再論/第三章 原発事故と震災の思想論/一 原発事故の責任を考える/二 この震災は天罰か――震災をめぐる思想的な問題/第二部 沖縄/第四章 「植民地」としての沖縄/第五章 沖縄に照射される福島/あとがき

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Posted by ブクログ

ネタバレ

第3章以降が著者の言いたいことの中心だった。その前は事実関係の整理で、原発事故以来、一定の時間経過があったいまとなっては、わかっていることが多い。
震災後の「天罰」思考、また原爆投下後の「天恵論」が本質的に犠牲のシステムであることにおいて同じであるという。そして、基地問題における沖縄の犠牲と、原発事故における福島の犠牲がある部分では同質のものだとも。
そもそもこの本を手に取ったのは、片山杜秀著「国の死に方」で、国家の存亡に関わる圧倒的な脅威の前で人間(国民)が犠牲にされるその有り様が、時代とともに変化していることが明らかにされていたからである。国家権力による犠牲のシステムの構築(最終的に戦没者が英霊としてたてまつられることとか)が謀られた時代から、犠牲のシステムに組み込まれるかどうかにもはや国家権力は効力がなく、もはや個人の「ボランティア」となってしまっているに等しいのが現代なのでは、とのことだった。ここに現れた「犠牲」というキーワードから、そういえば、というので高哲先生のこの新書を読み始めたのだった。
読んでみると、片山氏は、どこか「犠牲(のシステム)」が存在すること自体は受け入れている。その上でその歴史的変遷を淡々とあぶり出すのに対し、高橋氏は「犠牲(のシステム)」そのものに疑義を唱える態度だった。どうしてこの人間世界に犠牲という概念ができちゃったのかを追究しているんだなと。
片山氏が政治思想史が専門で、高橋氏が哲学が専門、というところからくるスタンスの違いなのだと思うが。

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2013年05月13日

Posted by ブクログ

ネタバレ

「犠牲のシステムでは、或る者(たち)の利益が、他のもの(たち)の生活(生命、尊厳、日常、財産、尊厳、希望等々)を犠牲にして生み出され、維持される。犠牲にする者の利益は、犠牲にされるものの犠牲なしには生み出されないし、維持されない。この犠牲は、通常、隠されているか、共同体(国家、国民、社会、企業等々)にとっての『尊い犠牲』として美化され、正当化されている。そして、隠蔽や正当化が困難になり、犠牲の不当性が告発されても、犠牲にする者(たち)は自らの責任を否認し、責任から逃亡する」。
 どうして危険な原子力発電所は存続し、なぜ米軍は沖縄に駐留し続けるのか。福島県での惨禍も沖縄への負担の集中も、ともに日本の未来にかかわる重大事だが、十分な対処策もなく、責任者も不在のままである。

 著者によれば、この国を覆う「犠牲のシステム」に原因があるようだ。著者は、故郷を放射能汚染された犠牲者の一人である。福島と沖縄を犠牲にする者は誰なのだろうか。見て見ぬふりをする私自身の「体質」に深く存在するのかも知れない。

 読後、どうしても思い出すのは本書の刊行から半世紀以上前に発表された丸山眞男の論文『現代政治の思想と行動』である。「無責任の体系」はスルーされたままである。

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2012年06月11日

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