あらすじ
宗教への信仰を持たないアメリカ人女性ジャーナリストが、
友人のイスラム教の指導者とともに、コーランを実際に読む。
・女性はベールやヒジャーブで身体を覆い、肌を見せてはいけない。
・女性に教育を受けさせてはいけない。女性を打擲するのが夫の務めだ。
・ムハンマドが9歳の妻を娶っていたことは小児性愛の肯定だ。
・ジハードで死ぬと楽園の72人の乙女という報酬を約束されている。
コーランには、実はそんなことは一言も書かれていない!
子ども時代をイスラム圏で暮らし、今はジャーナリストとして「ニューズウィーク」や「タイム」などに多くの記事を寄稿しているカーラ・パワー。
彼女はある日、17年間のキャリアの中で、編集者から一度も「コーランについて書いてほしい」と言われたことがなかったと気がつく。
メディアが求めるのは、いつも「イスラム教から生まれた政治」であり、イスラム教そのものではない――。
そう感じた彼女は、かつてオックスフォード大学イスラム研究センターで同僚だったイスラム学者のアクラムとともに、1年間にわたってイスラム教の原点、コーランを読み解くことを決意する。
女性の権利、ジハード、小児性愛、夫の暴力、イエス・キリスト、そして死後の世界……。
コーランの真髄に触れる旅の中で、知られざるイスラム教本来の姿が明らかになる。
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Posted by ブクログ
1年間にわたってイスラム学者からコーランについて解説してもらいながら、ジャーナリストである著者がコーランを読んでいく。その講義を通じて、「イスラム的」とされるものの多くは地域や部族の習慣に過ぎず、コーランに書かれていないことを知る。
著者にコーランを講義するイスラム学者のアクラムは、非常に敬虔な信仰を持っている。行動だけでなく人格的にもムハンマドに倣おうと考えたアクラムは、非常に穏やかな人柄の人物でもある。「ムハンマドが教友たちに『静かに穏やかに振る舞う』よう助言した」からだ(92ページ)。
9.11やISのおかげでイスラムにはかなり悪いイメージが付いているが、色々な本やネットの記事を読むと、「あれはイスラムではない」という主張を多く目にする。本書を読むと、やはりあれはイスラムではないなあと(部外者ながら)感じるのだが、それだけではなく、女性を虐げる伝統などイスラムには無かったことが分かる。
宗教があまり身近ではない日本人には、イスラムについて、どうしてもニュース番組などを通じた過激で偏ったイメージを抱きがちだと思う。ひょっとしたらこの本は逆の方向に偏っているかもしれないが、ぜひ読んでみて欲しい本の一冊。
ちなみに、本書のタイトルから、コーランの章句を順番に取り上げて、その章句が書かれた文脈や内容を解説するような本かと思えるのだが、そうではないので注意が必要である。その類いの本としては井筒俊彦の『『コーラン』を読む』が良い(岩波現代文庫に収まっている)。
Posted by ブクログ
コーランと解釈はその時代ごとに行きつ戻りつしていること、聖典の読み方は変えられても聖典の絶対性と信仰の絶対性は変えられないこと、宗教を外側から見ること。
Posted by ブクログ
ラマダン月にイスラム教を学ぶための本を読もうという個人目標を立て、選んだ本。ちょっと期待外れのところもありましたが、総じて読み応えはありました。
最初にちょっとした批判、というか不満。
訳本にありがちなんですが、原題をないがしろにし過ぎ。著者がつけたタイトルは"IF THE OCEANS WERE INK - An Unlikely Friendship and a Journey to the Heart of the Quran"です。直訳すれば「たとえ海がインクだったとしても - 奇妙な友情とコーランの核心への旅」といったところでしょう。
本書の中に「たとえ海がインクであったとしても、コーランに書かれている教えをすべて書き尽くす前にインクが涸れるだろう」という表現がありますが、それを活かした素敵なタイトルだと思います。
一方で、日本語版のこのタイトルだとあたかも「コーランに書かれているイスラムの教えを解説している」かのように読めますが、実際にはそうではありません。
この本の構成は、非イスラム、かつアメリカ人にしては珍しい(?)無神論者の著者が、友人のインド人イスラム学者と様々なテーマについて論じ合う中で、イスラム教徒ですらきちんと理解できていないコーランの教えや、非イスラム教徒がそもそも知らなかったり、誤解したりしている部分を詳らかにしていく、というものです。知的対話の積み重ねであり、著者の固定概念と友人のイスラム学者のイスラム宗教観のぶつかり合いであるとも言えます。
よって、コーランの中身そのものを解説してほしいなーという方にとっては明らかに欲求不満になります。その辺を押さえてから読まないと期待外れだと感じてしまうでしょう。
そういう印象を持たないためにも、原著と和訳とでタイトルが明らかに違う場合には、読み始める前に注意が必要です。
著者は、無神論者であることもあってか、自分が考える「あるべき」宗教観や倫理観についてはかなりリベラルです。キリスト教原理主義者やイスラム教原理主義者のようなガチガチに凝り固まったスタンスではないので(というか、そういうスタンスの人はそもそもイスラム教学者と議論をしようとは思わないでしょうね)、同じく無神論者が多い日本人にとって読みやすいのではないかと思います。何か所か、どうしても自分の意見とは相容れないところがある、と述べている部分もありますが、それがむしろ著者の人間味を表しているかと。
ボリュームがあり、著者とイスラム学者とのやり取りも濃いので決して読みやすくはないですが、コーランの教えというものをどのように理解すればいいのか、どうしてイスラム教が斯様に誤解されているのか、というところを紐解くには好い本だと思います。
Posted by ブクログ
非イスラム教徒の女性ジャーナリストが、イスラム学者で聖典解釈者とコーランについて様々な議論をします。何が書いてあるかというよりは、どういう姿勢で読むのか、どうすれば預言者ムハンマドに近づけるか。西洋から見た表面的なムスリムではなく、ムハンマドが本来伝えたかった真髄に触れられたように思います。
Posted by ブクログ
借りたもの。
イスラーム過激派組織に関する報道でとり上げられている「コーランの一節」とされている大部分(イスラーム国家の建国とか、楽園に72人の乙女がいるとか)が、実はコーランには書かれていない!!というキャッチーな事実から始まり、読んでいてどんどん惹き込まれていった。
勿論、報道でもそれらが「『コーラン』を歪曲した解釈である」と端的に伝えられるが、では一体『コーラン』は何が書かれているのか、何を言わんとしているのか……
インド系イスラーム教徒のアクラム師と女性ジャーナリストのカーラ女史による、1年の講義――それは『コーラン』の一部分に対する旅のようなものだった。
“保守派”や“原理主義”という言葉からイメージされるものとは異なる実態が浮かび上がってくる。‘コーランは単なる手引ではなく、視野を広げる手段だった(p.94)’。
歪曲された解釈は“セム系一神教のひとつであるイスラーム的なるもの”と“後世に持ち込まれたアラブや諸々の文化由来のもの”が混同したり、都合よく解釈された結果であることが垣間見れる。
「イスラーム」は女性の権利を肯定し、異教徒にも敬意を払うよう求めている。それを明文化しているにもかかわらず……
アクラム師は、『コーラン』に誤った解釈をする人々――都合のいい文節だけを切り取り、前後の文脈を読んでいないことを強く非難する。
この本は『コーラン』の精神の基盤探求だけでなく、アクラム師とカーラ女史の半生や経験を通して、イスラームとその周辺の歴史や文化を垣間見る旅本の様相もあった。それが『コーラン』の近現代史・文化史を補完する。
それが『コーラン』が過去のメジャーな慣習に囚われた保守的なものではない面があることを知る布石になっているようだった。
勿論、歪めた解釈があることは前述通りだが、だからこそ文献調査や前後の文脈を読んで議論・内省することで本質を見直すきっかけを得る。
アクラム師は当初、児童婚を肯定していたが、女学生たちとの対話を通して、「考えを変える」(否定)に至る。
学者としても、己の考えを翻すという勇気にも、感嘆してしまった。
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[大海の中へ]いわゆる世俗的な家庭に生まれ、中東や南アジアの諸都市で育った著者のカーラは、イスラーム古典の卓越した研究者であり、ムスリムでもあるアクラムと出逢う。欧米で吹き荒れるイスラーム批難の声に違和感を覚えた彼女は、イスラームを理解するために、アクラムと1年間にわたって『コーラン』を読み進めるというプロジェクトに乗り出すのだが......。著者は、『ニューズウィーク』紙などに寄稿しているジャーナリストのカーラ・パワー。訳者は、東京大学で宗教を学んだ経験を持つ秋山淑子。原題は、『If the Oceans Were Ink: An Unlikely Friendship and a Journey to the Heart of the Quran』。
まず本書を読むにあたっては、これは『コーラン』の解説本ではないという点に留意が必要かと。むしろ、著者が「私は一種の文化的な地図の作成者となることを願った」と記しているとおり、二人の(既に強固な思想や価値観を形作っている)人間の思想的なつばぜり合いといった趣きが強い作品かと思います。あまり類書に出会ったこともないためでしょうか、非常にスリリングな読書体験をすることができました。
ただこの試みを絶望的なまでに「損なっている」のが、イスラーム理解のために禁じ手とカーラ氏が主張する姿勢やものの考え方を、そのまま彼女自身が踏襲してしまっているところ。しかしその「損ない」故に本書が価値のないものになるかと問われればそうではなく、反対にその「損ない」にこそ本書を読む価値が潜んでいる気がします。結果として本書終盤からの下記の抜粋のとおり、このプロジェクトが「カーラ氏のカーラ氏による、(アクラム氏の助けを借りた)カーラ氏のための」ものとなったことに(良い意味でも悪い意味でも)限界があると強く印象付けられました。
〜アクラムの宗教を勉強することで、私は私自身の宗教を実践することができた。〜
読書会やゼミの議論に非常に向いた作品だと思います☆5つ
Posted by ブクログ
コーランを読んだ直後に読んだこともあり、コーランに対する前提の衝撃はそこまで大きくなかったものの、自由に解釈するという意味での幅の広さ・懐の深さを感じ得るには十分だった。歴史書とも言える旧約聖書、物語とも言える新約聖書に対して特定の時代の生活様式を書いたものがコーランであるというイメージを持っていた中ではなかなか新鮮な本だった。
適切な本を知らないが、イスラム教徒アラブ世界の慣習が切り分けられる副読本があるととても良いのだが。
Posted by ブクログ
多くのムスリムがコーランをまともに読んでいないとは驚きだった。
前後の文脈と歴史的背景を前提に、解釈しないと全く正反対の意味合いになるのだと理解。その意味では、この本で示されている解釈も、1つの解釈に過ぎない。
異教徒を攻撃してよいとする部分も、その時代背景があったから出たものだとすれば、現代も同じ状況だと言えれば、現代でも認められるのではないか。
解釈は多様であり、一般的に考えられているイスラム教の反西欧文化的な部分も、 異なる解釈をする人が少なからずいる事は認識しておく必要がある。
Posted by ブクログ
イスラム教の歴史上、女性のイスラム学者は9000人いるという。
モスクで礼拝することについて、原初、女性は子育て等の理由で「免除」されていたが、禁止はされていなかった。
禁止したのはその後のアラブの習慣によるらしい。
著者が対話するインド出身のイスラム学者の立場は明快だ。コーランは神の言葉であり、信仰は自身と神の契約であり、それ以外の何物も介在させる余地はない。
宗教を法とするということは、法にさえ違反しなければ正しく信仰していることになるという、堕落をもたらす。自身の信仰が正しいかどうかを判断するのは神のみだ。法律を決めた高官ではない。形式もまた然り。イスラム国は真っ向から否定される。
仏教にしてもイスラム教にしてもキリスト教にしても、時を経るにつれ、余計な雑物がまとわりつき、組織防衛が最優先され、教義が形骸化していく。にも関わらず、正しい主張は勢いの良い大きな声にかき消されてしまう。
イスラムはどこへ行くのか。
Posted by ブクログ
ムスリムの思考とその根源であろうコーランの内容を知りたいと思い、購入。
米国人でジャーナリストでフェミニストで多元主義者である女性(著者)と、保守的でコーラン原理主義的なイスラム教の学者であるアクラム師との対話(ソクラテス・メソッド的なコーランの講読)の記録。
巻末に簡単な用語集があり,役に立つ。
アクラム師は,コーランと預言者ムハンマドの言行(ハディース)に忠実であるという意味で,極めて保守的で原理主義的。
しかし,その原理主義の内容は,コーランやハディースの解釈に際しては,常に,前後の文脈,イスラム教の歴史(とイスラムの教えと単なる地域的な慣習との峻別)を十分に考慮するというもの。
よって,いわゆる「原理主義者」とは全く異なる結論を採ることがほとんど。
著者は、フェミニズムとコスモポリタニズムの立場からイスラム教を捉えようと努力し、その多くは成功して、その一部は恣意的な美化であったと自覚して失敗する。
成功の例は、現代のムスリム(の男性)が主張し実践する女性の自由の抑圧は、実はイスラム教の教義が根拠ではなく、各地の文化・慣習が根拠であるに過ぎないことの多くを確認したこと。
ニカーブの着用義務(強制)や、女性の礼拝を拒絶するモスクの態度がその一例。
失敗の例は、当初、少女との婚姻を認める文化を根本的かつ全面的に否定することができなかったこと(しかし、その後、アクラム師が見解を改めるに至る。)や、同性愛を全面的に否定されたこと,そして,イスラム教徒でなければ救われないと言明されたこと。
アクラム師の態度・教説,神に対して「のみ」服従するというムスリムの基本に基づいている。
それ故,アクラム師は,旧約聖書に(そしてコーランにも)登場するイブラーヒーム(アブラハム)の神に対する真摯な態度を賞賛する。
また,アクラム師は,イスラムの教えが悪なのではなく,それを悪用する人間が悪なのだと繰り返し説く。
ムスリムは神を畏れ,他人への思いやりと正義を重んじなければならない。
そうした態度が保たれていれば,女性を保護するイスラムのシステムが,女性の自由を剥奪することはないと考える。
例えば,家庭における財産管理者を男性に限定するイスラムの考えは,それ自体が問題なのではなく,その男性が権限を濫用することが問題なのだ,女性ではなく男性を管理者に指定したことは神の深慮であって理由は不明である,と説明する。
上述した二カーブ(すなわち,女性)やアブラハムに関する(すなわち,ユダヤ教及びキリスト教に関する)イスラム教的な見方のほか,コーランの立場から見たナザレのイエス(イエス・キリスト),ジハードとそれを行うための条件,多様性に対する考え方など,現在,イスラム教に関して問題とされている事柄を網羅した内容になっている。
著者は、アクラム師との対話によって自身の思想の多様性・多元性が拡充されたことを喜び、また、イスラム教(ことにコーラン)には多様性を許容する包容力があることを確認できたことを喜ぶ。
「人々よ、われらはおまえたちを男性と女性から創り、おまえたちを種族や部族となした。おまえたちが互いに知り合うためである。」(コーラン第49章13節)
最後に、宗教と哲学について。
アクラム師は,西洋化・近代化の名の下に宗教から宗教的な部分を抜き去って思想・哲学にしてしまう傾向にたいして強い拒絶を示す。
同様に,宗教が慣習に堕し,精神性を欠く至ったことも強く批判している。
このことは、「仏教哲学」という言葉が氾濫している仏教において,より大きな問題とされるべきだと思う。
Posted by ブクログ
インド出身の過激な静寂主義者「アクラム」を通じた、著者によるイスラム教の解釈について記されている。
著者は、アメリカ人でユダヤ教の家に生まれたが、熱心な信者ではなくどちらかというと無宗教という宗教観の女性。
コーランに書かれていることには大変興味があるので、本書を読めばそれが分かるようになる、と思ったら間違いでした。
結局、昔のアラビア語で書かれたコーランは、それをどう解釈するかにより、攻撃的にも融和的にもなりうるのだ、ということを理解出来た。
また、この世に救いを求めないような宗教観は、まるで仏教も同じではないかと意外な共通点があるものだ、と不思議な感じである。
Posted by ブクログ
本書の主張のエッセンスとしては「現在我々がイスラム世界に対して原理主義的、異常だと思う慣習や考え方は、元々のコーラン、ムハンマドの教えには無い」ということになろうか。
内容にムスリムの日常や自分語りが多く、彼らを理解するための背景として必要なのかもしれないが、それにしても分量が多く冗長に思える。原題を見ると、あくまで友情を通じて議論を交わした経過を綴った本ということなので仕方が無いか。