あらすじ
法然、栄西、親鸞、道元、日蓮、一遍―彼らを開祖として鎌倉時代に相次いで勃興した新たな宗教運動は、日本思想史上の頂点をなすと広くみなされている。「鎌倉(新)仏教」と呼ばれるこの潮流は、民衆を救済対象に据えたという点において、とりわけ高く評価されてきた。だが、新仏教の意義は、はたしてこの民衆的性格に言い尽くされるのか? 本書では、旧仏教との異同を深く掘り下げて考察することで、鎌倉仏教の宗教的特質の核心をあざやかに浮き彫りにする。思想家である前につねに実践の人であった偉大な宗教者たちの苦悩と思索の足跡をたどり、中世仏教の生きた姿をとらえた好著。
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匿名
法然や親鸞、日蓮がメインで解説されてはいますが思想はそこそこにどちらかといえば彼らが新たな、そして革新的な思想を説いた時代背景とそれらの思想が民衆の間に広まった後にどのような意義を持ったか、を中心に記されています。思想を深く知りたいなら他の本でもいいかなと思いましたが、思想は時代背景と無縁では無いので、そういった面を知るにはうってつけかと思います。これを読んだ上で歎異抄を読んだらより深く理解できるかな。
Posted by ブクログ
善行を積む、ということがイコール「寺への土地の寄進」を意味した平安末期において、「財を積むという努力する必要なし、他力でよい」と訴えたことが貧しい人々にどれほどインパクトがあったか、同時に、律令制が崩壊、公権力による鎮護国家仏教の庇護が縮小し、寺が自ら荘園を経営せざるを得なくなっていた時代に「寄進無用」の考え方がどれほどの危険思想であったか、といったことがビビッドに伝わる。興味深い。
Posted by ブクログ
これまでの仏教研究の成果を踏まえて、著者が独自の解釈を加えて鎌倉仏教の祖師たちについて考察している。この本を読むと、鎌倉時代を民衆と友に生きた法然や、親鸞、日蓮のことを生き生きとしたイメージがわいてくる。
宗教のクオリティは、その宗教を信奉する人の生き方によって変わる。
自分がどう生きて行きたいのか真剣に考えるきっかけになる一書。
「祖師の思想はいかに立派なものであっても、それ自体では何の意味もない。それは名も無き人々に受容され彼らの心に希望の灯をともして、はじめて宗教としての生命が吹き込まれる(P.18)」
Posted by ブクログ
仏教が民衆支配の強力なイデオロギー装置として機能していた中世にあって、法然、日蓮の思想とそれを引き継ぐ弟子たちに権力に対峙できる信仰を見出すことができることを論証した本。好著。室町時代に至る記述も分かりやすい。
・〈選択〉主義を捨てて伝統仏教との融和を目指すという方向は,日蓮や道元の教団でも全く同様であった。(真宗も)
・しかしその代償として、それらの宗派においては祖師にみられた理想主義や現実批判の精神が、しだいに色あせていったことも否定はできない。
・中性の農民には(江戸時代と違って)領主を選ぶ自由、移動の自由が保証されていた。
・その行動を客観的な立場からながめたとき、これらの在俗信徒こそが祖師の教えの持つ歴史的意義の最も革新的部分を理解し、それをみずからの血肉としていった人々であったとはいえないであろうか。逆にいえば、身分や地位を越えた真実の世界の存在を示し、唯一の信仰による平等の救済を説いた祖師の思想と宗教は、これらの人々の実践によって初めて命をふきこまれたのである。
・室町時代の庭園を造ったのは山水河原者といわれる被差別集団だった。
Posted by ブクログ
1994年に刊行された、著者の鎌倉仏教にかんする解説書の文庫版です。
いわゆる鎌倉新仏教による専修の主張は、民衆にとって荘園支配を支える仏神的なイデオロギーを否定する意義をもっていたと著者は論じています。こうした見方は、田川建三のイエス論を連想させる内容ですが、こうした視点からの研究は、いまではやや古びてしまったような印象もあります。
著者自身もこのことは認識しており、文庫化にさいして付け加えられた補論のなかで、黒田俊雄や平雅行らの研究成果について触れられています。著者は、鎌倉仏教に「民衆性」といった要素を認める見かたがしりぞけられたのではなく、「鎌倉新仏教」の切り開いた新たな思想的地平に目を閉ざすものではないとしたうえで、鎌倉仏教研究の再生の必要性を主張しています。
入門書という位置づけの本なので、読者に親しみやすい語り口を採用したのかもしれませんが、それ以上に著者の情念のようなものが伝わってくる文章のように感じられます。