あらすじ
真実にじかに触れることは可能か
私たちが、「本当の自分」に出会いたい、愛する人の心を見極めたいと思うのはなぜなのだろうか。想像上のもの、他者、過去や未来、社会……私たちの周りにあって、意識が直接到達できないものと接近し直観することの可能性を徹底的に考察したサルトル思想の真髄を問い直す。
[内容]
I わたしは世界にじかに接している
II 時間性あるいは自己からの距離
III わたしは他者に到達できない
IV わたしを疎外する歴史と社会
サルトル小伝
読書案内
感情タグBEST3
このページにはネタバレを含むレビューが表示されています
Posted by ブクログ
『存在/しないあなた、と私』でサルトルが引用されていたので、とりあえず哲学のエッセンスシリーズを読んだり。
ウィトゲンシュタインの時には感じなかったけど、文量が少ないからといって難しくないわけじゃないな…。端的な分、むしろ難しくなっている気も…。
西洋哲学はどこか「(キリスト教的な)神」が思考のベースにあることが多く、そういう意味ではサルトルも例外じゃないんだよなぁ。サルトルが言う「理由もなく存在する不条理」もそりゃそうだろとしか言えないし。
ただ、サルトルの面白いところはそこからスタートして、「存在」を肯定するに至るってところだけど。
<私>から見たあらゆる存在は(「神」から意味付けされることもないため)無意味なのだけど、実際の<私>の行動から他者の「存在」は──直接的ではないけれど──要請される。
それこそ、他者の存在証明だし、それはある種で他者の存在を尊重することに他ならない。「わたしはあなたが存在することを欲する」とはそういうことだと受け取ったかな。
独我論からスタートすると他者の存在証明はどうしたって難しいんだけど、サルトルの思想をベースにすると他者の存在を直観的に信じることが出来る。
思った以上に刺さった哲学者でした。ほかにも読み漁ってみるかー。
Posted by ブクログ
コアになる以外の人物については、そこを踏破した先人のルートをまず倣いたいというのが、自分の考えである。
道がどうできているか、何でできているか。そうした問いを全ての道へ向けることができれば文句はないが、それには時間が限られている。
だから、そうしたものをいちいち解体するのではなく、道を歩くガイドの言葉で語ってくれる書籍に、自分は特に強い信頼と安心をおぼえる。
そうした意味で、故梅木氏のこのルート取りは、サルトルという道を味わううえで格好のガイドであった。何より梅木氏自身も道だった。
直接性をめぐって苦闘するサルトルと、彼をめぐって苦闘してきた氏。
二つの道の味わい深さは、100ページあまりのこの著からも十分に感じとられた。
あとは、これを忘れることなく反芻し、自分がまた新たな(少なくとも)ガイドになること。それこそ、私に課せられたものなのかもしれない。