【感想・ネタバレ】サルトル 失われた直接性をもとめてのレビュー

あらすじ

真実にじかに触れることは可能か

私たちが、「本当の自分」に出会いたい、愛する人の心を見極めたいと思うのはなぜなのだろうか。想像上のもの、他者、過去や未来、社会……私たちの周りにあって、意識が直接到達できないものと接近し直観することの可能性を徹底的に考察したサルトル思想の真髄を問い直す。

[内容]
I わたしは世界にじかに接している
II 時間性あるいは自己からの距離
III わたしは他者に到達できない
IV わたしを疎外する歴史と社会
サルトル小伝
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Posted by ブクログ

ネタバレ

『存在/しないあなた、と私』でサルトルが引用されていたので、とりあえず哲学のエッセンスシリーズを読んだり。
ウィトゲンシュタインの時には感じなかったけど、文量が少ないからといって難しくないわけじゃないな…。端的な分、むしろ難しくなっている気も…。

西洋哲学はどこか「(キリスト教的な)神」が思考のベースにあることが多く、そういう意味ではサルトルも例外じゃないんだよなぁ。サルトルが言う「理由もなく存在する不条理」もそりゃそうだろとしか言えないし。
ただ、サルトルの面白いところはそこからスタートして、「存在」を肯定するに至るってところだけど。

<私>から見たあらゆる存在は(「神」から意味付けされることもないため)無意味なのだけど、実際の<私>の行動から他者の「存在」は──直接的ではないけれど──要請される。
それこそ、他者の存在証明だし、それはある種で他者の存在を尊重することに他ならない。「わたしはあなたが存在することを欲する」とはそういうことだと受け取ったかな。

独我論からスタートすると他者の存在証明はどうしたって難しいんだけど、サルトルの思想をベースにすると他者の存在を直観的に信じることが出来る。
思った以上に刺さった哲学者でした。ほかにも読み漁ってみるかー。

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2025年10月18日

Posted by ブクログ

ネタバレ

コアになる以外の人物については、そこを踏破した先人のルートをまず倣いたいというのが、自分の考えである。
道がどうできているか、何でできているか。そうした問いを全ての道へ向けることができれば文句はないが、それには時間が限られている。
だから、そうしたものをいちいち解体するのではなく、道を歩くガイドの言葉で語ってくれる書籍に、自分は特に強い信頼と安心をおぼえる。

そうした意味で、故梅木氏のこのルート取りは、サルトルという道を味わううえで格好のガイドであった。何より梅木氏自身も道だった。
直接性をめぐって苦闘するサルトルと、彼をめぐって苦闘してきた氏。
二つの道の味わい深さは、100ページあまりのこの著からも十分に感じとられた。

あとは、これを忘れることなく反芻し、自分がまた新たな(少なくとも)ガイドになること。それこそ、私に課せられたものなのかもしれない。

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2011年12月03日

Posted by ブクログ

わたしがサルトルを学ぶ上で最初に手にしたもの
梅木さんの遺稿でもあります
これを読んでから『嘔吐』を読むと新しい発見があるのかもしれない

手に取るように頭に入ってきて容易に理解することが出来た
あくまで本文の内容のことについてだけれど..
サルトルの思想そのものの理解はまだまだこれから

冒頭の”哲学をひもとくにあたって”の梅木氏の文章が素敵だと思う


ジャン・ジュネは言う
「サルトルは、その気になったら、どんな人間でも理解することが出来た。」

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2010年01月01日

Posted by ブクログ

まさに「人と人」の間、触れ合いにある問題を取り上げた、サルトル哲学の入門者向け良書。これは、哲学云々ではなく、人間関係・恋愛関係・自己追求の局面に対峙するすべての人へのメッセージであり、エールです!! 悩んでいる人程、読んでごらん。 著者は本書が遺著となった・・・・黙祷。

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2009年10月04日

Posted by ブクログ

著者のあとがきが感慨深い。いわくD1の時にサルトルが読めなくなったと。サルトル自身もフッサールについてそうした「汲み尽くし」があったと。その後の本書であっただけに、文章は流れるようでいながら、新たな驚き(可能性)と限界がちりばめられ、熱があります。

・サルトル的人間は、ひとりひとりが光を発し、世界を照射する光源のようなものです。その光は、それが及ぶ範囲で、真実を暴露し、絶対的な確実性を、つまり明証をもたらしてくれます。ただ、この光が強ければ強いほど、そのまわりの暗がりは深く、闇は濃くなっていくものです。P97※わたしという実存と世界や歴史との関係の深刻さ。

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2016年05月03日

Posted by ブクログ

事物それ自体は無時間性の中にある。
世界に時間が到来するのは、自分の過去や未来を内的な関係として「生きて」いる意識があるから。

他者を前にして「恥」を経験することにより、「対他存在」には他者の主観が前提として含まれており、この私の意識の事実はあらゆる独我論を反駁する、他者の存在論的証明となる。

「他者との直接的関係をもつことを諦めること。
他人との真の関係はけっして直接的ではない。すなわち作品を媒介とした関係。私の自由は相互承認を含んでいる。しかし、ひとは自己を与えることによって自己を失う。気前の良さ。愛。わたしの対自と私の対他の新たな関係。」(倫理学ノート/遺稿)

自由な創造である文学は、他者への呼びかけである。
作品を贈る自由は、作品を受け取りそれを読みつつ再創造する読者の自由なしには成り立たない。
作品はいかなる命令も含まずただ呼びかけるだけで、読み手の絶対的自由に委ねられる。

↕︎
贈与が贈与であるためには、応酬の循環(お返し)を断ち切って一方的に見返りなく与えることができなければならない。

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2025年11月30日

Posted by ブクログ

世界への直接性を追い求めたサルトルの思想において、他者論および倫理学が大きく立ちはだかる課題だったことをていねいに解説しています。

サルトルが倫理学を構築する意志をいだいていたことは、彼の生前にすでによく知られていました。しかし、フッサールの現象学を独自のしかたで継承した彼の哲学は、意識の立場を脱することができず、またマルクス主義と実存主義の総合をめざした『弁証法的理性批判』では社会や歴史の問題を視野に収めつつも、未完に終わっていました。その後、『倫理学ノート』をはじめとするサルトルの遺稿を人びとが目にすることができるようになり、書かれることのなかったサルトルの倫理学をめぐる研究が進められます。

本書は、そうしたサルトル没後の研究動向を踏まえながらも、サルトルの思想にとって他者をめぐる問題がどのような意味で困難な課題だったのかということを明らかにすることにテーマを絞って解説がなされています。

『嘔吐』のラスト・シーンでは、ブーヴィルの共同体において「異邦人」でありつづけたロカンタンが、ジャズのレコードを聴いて希望をとりもどすとともに、小説を書くことを決意してかたちのない共同体への呼びかけをおこなおうとしたことは、サルトルの構想していた倫理学の内容をわれわれに示しているとわたくし自身は考えています。ただ、そのような方向に彼が思索を進めていくことを阻んだのはいったいなんだったのかという問題は、よく考えてみなければなりません。本書は、そうした関心にある程度こたえてくれるものだったように思います。

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2025年02月17日

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