あらすじ
「人はなぜ生まれ、死んでいくのでしょうか」青年は深い悩みを抱えてわたしの前に現れた。一瞬、わたしは息をのみ、思わずあの子の名前を口走りそうになった――。親友の死に直面することで生きる意味を見失った学生と、ある哀しみを胸に秘めた先生。ふたりの濃やかな交流を通して描く、喪失と再生の物語。夏目漱石永遠の名作をモチーフに、自らを重ねて書き上げたベストセラー。
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Posted by ブクログ
フランクルの夜と霧について、NHK100分de名著ブックスの本で姜尚中先生が解説を書かれており、そこで私は姜先生と息子さんことを知りました。姜先生はクリスチャンなのでみなさん是非読んでみてほしいです。
メメント·モリを唱え生きることの意味を問う物語ですが、生と死以外に、自然と土地開発、恋愛と失恋、など相対する事象を描いています。なるほど、私はこの本に出逢い読んで感動できるために好きな人を失ったのかと失恋の意味を見い出すことができました。
私は彼女と決して邪(よこしま)な気持ちで付き合ったわけではありません。真剣でした。直広くんが萌子さんの心の中を顕微鏡で覗くように知りたいと願う気持ちはよくわかります。しかしそれはもはや必要ないのだと姜先生は直広くんとそして私に説いてくれました。正解も不正解もどんな未来もまとめて受け入れていくこと、それが人間的な誠実さではないでしょうか。
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3.11の震災を経験し、ライフセービングで遺体の引き上げのボランティアをした青年の、生きるとは、死とはまた僕って何を深く問い詰めた本。
それでも生きろと励ましている本。姜尚中氏が息子を自死で失いながら息子へのオマージュにした本。
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どう生きるか、死とは何か。
最初、青年がちょっと面倒な若者だなと思ってしまったのですが、先生が丁寧に対応していくうちに、私も少しずつ親しみを覚えた。
本当に「真面目」なんだと思う。
最後に「受け入れる」という先生の言葉に、本当にそうだなと感じた。ただ、若い頃はこの「受け入れる」が難しい。
苦しいけど、すべてを受け入れて生きていくしかない。
死と生は半々。
何となくだけど、納得した。
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著者の身の回りに起こった題材をもとにした小説。
終盤はいささか青臭い青年の主張だが、震災が絡んでいるだけに真実味がある。
生きる悲しみ、死ぬ寂しさに迫る。
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「死」とはなんだろう? という問いに対する著者の思いを小説仕立てにしたもの。何に期待するのかによって印象は違うと思うけど、問わずにいれない問があり、それをこうした形にしておきたかったのだろうと思う。東日本大震災も描かれているけど、不愉快な感じはなかった。
Posted by ブクログ
この本の存在を知った時、自分は疲れていたのかも知れない。それでも、死の事を考える程ではなかった。ただ、状態を言葉に変換できず、だからこそ行動にも繋がらず、モヤモヤとした嫌悪感を抱えたまま、救いを求めていた。本を読む事が救いであり、その世界から、また新たに姜尚中の心という本を知った。佐藤優の本だったと思う。佐藤優の紹介から、この著書がその時の自分とシンクロしたような気がしたのだ。
著書は、生と死を見つめた内容で、一人の青年と姜尚中自身のやりとりを通じ、生きる意味を考えさせられる内容だ。自分のモヤモヤした気持ちを少しシフトさせるに、読んで良かったと思う。そんな風にしか、折り合いがつけないような事ってあるものだ。まさに、姜尚中自身もそうしたトラウマにありながら、独白していく。シンクロの訳は、そこにあったのかも知れない。
Posted by ブクログ
著者自身がモデルと思われる大学教授の「わたし」が、西山直広(にしやま・なおひろ)という大学生から手紙を授かります。そこには、友人の恋を踏みにじったのではないかという彼の悩みが綴られていました。「わたし」は彼の真剣な悩みに向き合いながら、現代の日本が直面している問題と、その中で苦しみながらも前を向いて歩んでいく青年の姿に感銘を受けます。
西山青年は、白血病で死んでいった「与次郎」というあだ名で呼ばれていた親友の長与次郎(ながよ・じろう)から、一通の手紙を託されていました。それは、西山や与次郎と同じ演劇部に所属する黒木萌子(くろき・もえこ)という女性への恋文だったのですが、与次郎と同じく萌子に心を惹かれていた西山は、けっきょくその手紙を萌子に渡すことのないまま、与次郎の死の報せに接することになります。
与次郎を裏切ったという思いに苛まれる西山ですが、その一方で萌子はしだいに彼に親しげな様子を示すようになり、ますます西山は良心の呵責を覚えるようになります。萌子はゲーテの『親和力』を現代の舞台に翻案した劇を作成し、「わたし」はそこに含まれる「自然」と「反自然」の関係に瞠目します。
その後、東日本大震災が起こり、海中の遺体を引き上げるヴォランティアに従事することになった西山は、人の死とは何かという大問題に直面することになります。「わたし」はそんな青年の一途さに心を揺さぶられながらも、彼のナイーヴな心が孕んでいる危うさを心配します。やがて『海の棺』と題された彼らの劇が上演されることになり、西山はそのクライマックスで「生」への希望を語ります。その後彼は、萌子の気持ちと向き合うという、もう一つの試練を迎えて、物語は終幕となります。
最初は、反時代的な煩悶する青年像に戸惑いを覚えましたが、「自然」と「文明」が「国土」という中間項によって平板に接続されてしまうところに、「生」と「死」という垂直軸が切断をもたらすという構図を描けば、本書のテーマが捉えやすいのではないでしょうか。言うまでもなく夏目漱石の『こころ』を踏まえた物語ですが、「解説」で佐藤優が指摘するように、私小説的な構成を取っています。佐藤が述べようとしているのは、状況の中で悩み立ち尽くす青年を「わたし」が導くのではなく、「わたし」も青年の悩みに寄り添う一つの実存として描かれているということでしょうか。それはちょうど、物語の終わりに描かれる西山と萌子の関係とパラレルなものとして理解するべきなのかもしれません。