あらすじ
ジブリ哲学がいま初めて明かされる。
メディア界の若きリーダー、初の新書!
クリエイティブとはなにか?
オリジナリティとはなにか?
コンテンツの情報量とはなんのことか?
宮崎駿や高畑勲、庵野秀明など、トップクリエイターたちはどのようにコンテンツをつくりあげているのか?
コンテンツの情報量の仕組み、マンネリを避ける方法、「高そうに見せる」手法など、ヒットコンテンツの背景にある発想のありかたを鋭く読み解く。
ジブリ見習いプロデューサーにしてメディア界の若きリーダー、初のコンテンツ論!
[内容]
第1章 コンテンツの情報量とはなにか?
第2章 クリエイターはなにをアウトプットしているのか?
第3章 コンテンツのパターンとはなにか?
第4章 オリジナリティとはなにか?
※電子版では一部の図版がカラー図版になっています。
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Posted by ブクログ
新幹線のお供にいいかなと思い、コンパクトなこの本を持っていったのだが、1ページも読まずに、座席前のネットのところにメガネケースと一緒に忘れてしまった、、、
後日、JR東海に問い合わせ、宅急便で送ってもらったのだが、メガネケースを忘れていなければ、送ってもらわなくていいです、と断っていたであろうこの本を、そこそこの宅配料を払ってまで手元に戻ってきたのも何かの縁なのだろう、ということで読み始めることに。
なんとなく自慢話を聞かされるような気がしていたのだが、まったくそういうものではなく、もっと早く読んでおきたかった、と後悔しながら読んでいた。
面白いコンテンツ、それらを作る人たち、そして天才とは?
そんな根源的な疑問を、気取らず知ったかぶらず、真摯に分析していく過程を含めての考察だったので、わかりやすかった。
そして、著者の疑問を投げかける相手が、鈴木敏夫や宮崎駿、高畑勲、庵野秀明、宮崎吾朗、西村義明などなど、錚々たる人たちなので、返ってくる答えも面白いものばかりだった。
アニメーションが軸で、その過去と現在、そして未来。そこに、実写映画やピクサーなどの3DCGアニメーションとの横軸も絡めつつのコンテンツ論。
Posted by ブクログ
つまり、宮崎作品が世界で認められているのは、正確に人間の脳と視覚構造が認識しやすい形で描いているから、つまり、描いているものが脳に気持ちいいから。これが鈴木さんの説明です。
この鈴木さんの説を、別の場所で、庵野監督に対して話してみました。そうすると、庵野監督の感想がまたおもしろかったのです。
「じゃあ、なぜ宮さんは脳に気持ちいい形を正確に描けるのか? 宮さんはおそらく目が見たとおりをそのまま描いているだけだと思います。つまり脳が認識して、受け取った情報のまま、紙に写しているので、それが結果的に脳が理解しやすい形になるというのが宮崎駿の秘密だと思います」
つまり脳が認識しやすい絵を描いているわけじゃないというのです。ふつうの人は脳が認識したとおりには絵を描けない。それが無意識にできてしまうのが、宮崎駿の才能だというのです。
庵野監督によると、脳にとっての最高の写実主義をやってのけているのが宮崎駿だということになるのです。
「芸術は誇張である」という、よく聞く表現があります。しかし、「芸術は(現実の)誇張」というのではなく、「芸術は脳のなかのイメージの模倣」であり、脳のなかのイメージとは特徴の組み合わせなので、結果的に誇張になっているだけである。こういう解釈のほうがしっくりくるのではないでしょうか。
人間は現実世界のイメージを脳のなかに持っています。それは現実世界の情報をそのままコピーしているではなく、特徴だけを抽出して組み合わせてイメージをつくっているのです。
コンテンツのクリエイターとは、脳のなかにある「世界の特徴」を見つけだして再現する人なのです。でも、脳のなかからそれらを見つけ出すのは、簡単なことではありません。
それこそが創作の苦しみであり、苦しみのなかで脳内から発見した「世界の特徴」こそがコンテンツの真理であり神秘ではないか、芸術を生み出した人間が目指したものではないか。そう思ったのです。
そう、ぼくたちはよく物事の本質とはなにかと問いますが、物事を記号化して少ない情報量で表現したものがその正体でしょう。なぜ本質が必要かというと、脳は単純な情報しか扱えないからだと思います。
それが本質の〝本質〟ではないでしょうか。
脳は本質であるところの単純な情報を組み合わせたイメージで世界を理解しています。
このように単純化して世界を理解しているからこそ、より単純化された似顔絵や略画、縁と定規を使って描いた波に、本物よりも本物らしさ=本質を感じるという性質が人間にはあるのじゃないでしょうか。
この章では「コンテンツの本質とは現実の模倣である」という仮定から始まって、そうではなく「コンテンツの本質とは、現実世界を特徴だけで単純化してコピーした脳のなかのイメージの再現である」という結論に行き着きました。
そして、現実世界のあるものごとを反映した脳のなかのイメージとは、人生における経験のなかで作られるのだろうということを示しました。
その脳のなかのイメージが、美味しい料理や美男美女のような現実には存在しない理想的な概念の正体だろうとぼくは考えています。
ぼくが思うに、クリエイターが創作で苦しむ原因は、生活苦とか世間の無理解とかは別にすると、次の三つだけです。
・脳のなかのイメージを再現する技術的な難しさ
・脳のなかのイメージを見つける難しさ
・自分の脳にはないイメージをつくる難しさ
逆に言うと、この三点を回避すればクリエイターは創作の苦しみから解放されると言えるでしょう。
とはいえ、この三点を回避すると、きっと平凡なクリエイターとして競争力を失ってしまうような気もします。
いくら無料だといっても小説の作者も手間をかけて書くのだから、たくさんのユーザーに読んでもらいたい。そうすると、ユーザーの望む小説を書こうとするのです。
でも、一般にユーザーが望むコンテンツのパターンというのは、実は少ないのです。ユーザーの欲望に忠実であろうとすればするほど、できあがるコンテンツは画一化してしまいます。UGCサイトではユーザーが無料でたくさんコンテンツをつくるから、競争の結果質も上がるし、多様性もあるというのは嘘であり、競争をおこなえばおこなうほど多様性は減っていくのです。
コンテンツの多様性を守るためには激しい競争をしてはいけないのです。
激しい競争といえば、お金が儲かるということで、今ものすごい数のコンテンツが作られているソーシャルゲームも、そのほとんどは同じパターンです。ゲームの構造は同じなのですが、キャラクターや舞台設定を変えて、いかにも違った作品のように見せているわけです。いくらコンテンツが増えてもパターンは同じ。コンテンツの世界で競争が起こるとそうなるのです。
人間にとって魅力のあるコンテンツのパターンというのは大方すでに発見されつくしていて、世の中でワンパターンとして蔑まれているものこそ、大昔のクリエイターが探し当てた、人間の心をつかむ本当に正しいコンテンツのパターンなんじゃないか。いまのクリエイターは本当に正しいコンテンツのパターンを使うと真似になってしまうから、それらをあえてズラしたコンテンツを作ろうとしているのではないか。
そういう話を鈴木敏夫さんにしてみたところ、鈴井さんが教えてくれた話があります。
鈴木さん曰く、高畑さんがよく話すことに、ルネサンスとは何だったのかというのがあるのだそうです。
ルネッサンスとは何だったのか? たとえば、聖母マリアを例にとると分かりやすい。マリアを描き、彫刻に彫るときの大きなテーマはキリスト教の祈り。ルネッサンスの始まりは、そのマリアを荒々しいリアリズムで表現したことにあったそうです。
それが、時代が進むと、マリアにはその古典となるべき完成形が誕生し、さらに時代が進むと、今度は細部にこだわるようになり、最後はぎらぎら飾り立てるものになったといいます。細部にこだわったときには、本来のテーマであった「祈り」はどこかへ行ってしまい、残ったのは単なる女体だったそうです。
以上をまとめると、アーカイズム→クラシック→マニエリスム→バロックという流れになり、美術の歴史はこの四つのサイクルの移り変わりになるというのが高畑さんの説です。これはコンテンツの現状を考えるうえで、示唆に富んでいます。
ちょうど『風立ちぬ』をつくった頃の宮崎さんに、高畑さんはいまの日本のアニメーションはマニエリスムの時代を迎えていると思うと伝えたそうです。宮崎さんは高畑さんの話にいたく感心し、しばらくマニエリスムという言葉を連発していたそうです。
マニエリスムとはマンネリズムの語源となった言葉です。
基本的な表現方法が古典的名作として確立されたあと、それを発展させて、より細部にこだわるのがマニエリスムであり、それはマンネリズムに変化しうる、そう考えると高畑さんの言葉には非常に含蓄があります。
そして『かぐや姫の物語』で高畑さんがやろうとしたことは、マニエリスムからバロックへ移り変わっていく時代のなかで、クラシックの時代へと逆行することで、新しい基本的な表現方法がまだ発見されずに残っていることを示そうとしたとも考えられるでしょう。
高畑さんの示した四つのサイクルは、そのままコンテンツの発展の歴史にも適用できるように思います。
本書の最初のほうで示したコンテンツの定義として、(1)メディア、(2)対象、(3)方法のどれかひとつでも違えば別々のコンテンツである、というものがありました。
(1)のメディアはひとつに固定されているとして、コンテンツとして再現する(2)対象を選らんで、つぎに再現する(3)方法を選ぶわけです。このとき、ひとつの「対象」に対して、コンテンツとして再現する「方法」は複数ありますから、「対象」の数よりも「方法」の数のほうが多いのです。だから、コンテンツのパターンとして最初にやりつくされるのは「対象」になります。
しかし、コンテンツの表現方法がまだ確立していない初期段階においては、再現されていない「対象」もまたたくさんありますので、この時期のコンテンツにとっては「対象」すなわち、なにを表現するかが重要になります。
だんだんと表現方法が確立されていくと、どの「対象」をどういう「方法」でコンテンツとして再現すればいいかのパターンが洗練されていきます。この時期に古典的名作となるコンテンツが誕生します。
次がマニエリスムになりますが、もう、基本的な表現方法はすべて発見されている時代です。そうなると開く率された古典的名作の技法を細部にこだわりながら発展させていくことになります。
マニエリスムのコンテンツはどれも同じじゃないかということになり、最後はごてごてと派手に飾りたてるバロックの時代になります。
そして細部にこだわりごてごてにしていく過程で、最初は意識されていた表現しようとする「対象」はなんだったのかが、いつのまにか忘れ去られてしまう。
高畑さんのいう美術史のサイクルを、この本で説明してきたコンテンツの話として置き換えると、だいたいこんな感じではないでしょうか。
「本当にすごい映画を見たときは、観客はストーリーなんて気にしない」とも言います。よく、ストーリーのつじつまが合ってないことにケチをつける人がいるけど、問題なのはつじつまが合ってないことではなく、映画がおもしろくなかったことなんだそうです。だからこそ、つじつまが合わないことが気になる。そう鈴木さんは断言しました。
「作品を見るときになにを見ればいいか。それはつくった人がなにをやろうとしたのか、それを見ればいい。そして、それが上手くいったのか、上手くいかなかったのか、それだけだ」と鈴木さんはそう言います。
観客の心をいかに動かすか、という観点から考えると、映画は、主人公に感情移入させるようにつくるほうがいいのだそうです。いまの映画のほとんどは、そのようにつくられていると指摘するのは高畑勲監督です。
高畑監督にこういう問いかけをされてことがあります。
「宮さんの『魔女の宅急便』に出てくる女の子。魔法が使えなくなって飛べなくなったのに、また、最後に飛べるようになった。なぜなのか?」
一度は飛べなくなった魔女のキキが、なぜ飛べるようになったのか。それを、宮崎駿は映画のなかで説明していません。なんの説明もなく、キキは飛ぶことができるようになった。これは「宮さんの魔法」だと高畑さんは言います。
なぜ使えなくなった魔法がまた使えるようになったかは、いろんな説明が考えられるかもしれない。でも、作劇上のテクニックとして解説すると、そのとき観客は、キキに感情移入をしていて、飛んでほしいと願っていた。みんなが「ここで飛べ、飛べ」と思っていたから飛んだ。だから、そこで拍手喝采して、「ああ、よかった。よかった」とカタルシスを感じた。
願いが叶ったんだから、なぜ飛べたのかということに疑問は感じない。それが魔法のトリックだと高畑さんは言うのです。
作品は作家ひとりではつくれないとするのであれば、プロデューサーなり編集者なりも、作品をつくったひとりと言ってもいいでしょう。
自分の脳の中のヴィジョンをコンテンツとして形にするのがクリエイターということであれば、実際に形にしてるのは監督のヴィジョンではなくプロデューサーのヴィジョンであって、監督はその手伝いをしているというような場合も世の中には多いのです。その場合、プロデユーサーと監督で本当のクリエイターはいったいどちらなのか。その境界はとてもあいまいになります。
高畑勲監督が『かぐや姫の物語』でアカデミー賞にノミネートされ、ロサンジェルスを訪問したときに、現地の取材で、3DCGアニメの利点について語ったことがあります。
ファンタジーのように誰も見たことのない、現いつではない世界を描くとき、観客はこれは現実の世界であるという実感を与える手法として、現実と見まがうごとくリアルな3DCGは有効な手法だったと言える。そのような実に的確な指摘だったのです。
では『かぐや姫の物語』のような、見た目に現実ではないと分かる手描きアニメーションは、どんなことを表現するのに有効なのか。それについて高畑勲監督はこんな説明をしてくれました。現実の世界に存在し、みんなが知っていることを、現いつとは異なって見える手描きアニメーションによって表現することで、それより際立たせることが可能ではないか、そういう仮説のもとにつくっているというのです。
クリエイターの世界とは、傍からはよく分からない感性とセンスでみんなつくっているように見えて、実はすごく論理的な議論が戦わされている場だというのが、ぼくがジブリでの経験で得た結論です。特に優れたクリエイターほど理屈っぽい。理屈でコンテンツをつくっているように見えます。
そんな感想をいろいろなクリエイターの人に話すと、だいたい似たようなことを言われました。
いや、でも、最後は感性だ。そう言うのです。
そもそも、どうもクリエイターは最初はみんな感性でつくるのだそうです。試行錯誤、見よう見まねでつくっているなかで、自分のやっていることに理屈を見つけるのだそうです。
そして感性だけでつくるなは大変なのだそうです。だから、みんな理屈でコンテンツをつくって楽をするのだそうです。
でも、最後はやっぱり感性で判断するしかない、みんな、そう言います。
それは人間の脳のしくみからしてそうなのだと思います。みんないいか悪いかの判断はできても、なぜそうなのかという理由を説明するのはとても難しい。第2章でも説明した、大脳でおこなわれているパターン認識とはそういうものです。
クリエイターには、手が早くてなんでもさっさとつくってしまうタイプの人と、スケジュールも守れず遅いだけじゃなく仕上がりも予測できない人がいます。
手が早いクリエイターとは、パターンを組み合わせることでコンテンツをつくっている人です、パターンを組み合わせるだけだと簡単ですし楽な作業ですから、たくさんの数を一定の作業期間でつくることが可能です。
ヒットする曲のつくり方は分かっているとか、ヒットするゲームの法則を知っているというようなことを発言するクリエイターが時々いますが、そういう人はヒットするコンテンツのパターンをいくつか持っていて、それを組み合わせているのです。
手が早くないクリエイターとはようするに、コンテンツの創作の苦しみに向き合っている人です。第2章の最後で創作の苦しみは次の三つだと書きました。
・脳のなかのイメージを再現する技術的な難しさ
・脳のなかのイメージを見つける難しさ
・自分の脳にはないイメージをつくる難しさ
手が早いクリエイターは、ヴィジョンを思い描けないものはつくろうとしませんし、再現するのが難しいと思っているヴィジョンもつくりません。
こういう創作の苦しみに向き合うのはリスクなのです。いくらでも時間を吸い取られる可能性があるのです。そんな努力はしないと割り切れるクリエイターと、努力をせずにはいられないクリエイターがいるのです。
人間の脳は新しいものをつくるのは基本的に苦手ですが、新しいものを見て、良いか悪いかを判断するだけであれば得意です。なので実際には、ランダムに試行錯誤した結果を自分の脳で判断して良いか悪いかを決めているのだと思います。
そうすると、その試行錯誤のプロセスだけを、誰か別の人に委ねるという戦略が生まれます。
最初のアイデアを誰かに考えてもらうのだそうです。自分で試行錯誤するよりも他人に試行錯誤をしてもらったほうが、自分にはつくれないヴィジョンのパーツが手に入りやすい、つまり、インスピレーションが湧いてくるのです。
こういった作品のつくり方は、ぼくが知る限り、かなり一流のクリエイターでも使っている、というよりむしろ、一流のクリエイターほど使っている手法のように思います。ゼロからコンテンツを生み出すのは大変なのです。そのきっかけをつくる方法として、他人のアイデアを否定して、使えそうな部分だけを取り込み、自分のヴィジョンを固めていくという作業をおこなっている人はとても多いように見えます。
一見、これは他人のアイデアを利用しているように見える行動です。
しかし、時間軸を広げてクリエイターの人生まで考えると、きっと同じような情報処理を積み重ねるなかで、クリエイターとして成長してきたと考えるべきではないでしょうか。たくさんのコンテンツを消費するなかで、あるものは素晴らしいと思い、あるものは駄作だと思い、ある作品には良い部分も悪い部分もあるというようにして、自分のなかにコンテンツの元になるヴィジョンをつくる能力を成長させてきたのがクリエイターの歴史だと思うのです。
Posted by ブクログ
川上量生さんがジブリに常駐して「コンテンツとは何か」を考え、その答えについて抽象度を高めてまとめた本。個人的には、ここ数年読んだ実用書の中で一番面白かった。何をコンテンツと呼ぶのか、という定義から、コンテンツが収束する先を見据えたり、コンテンツクリエイターが何を目指していて、何に苦しんでいるのか、が非常によく分かった。コンテンツを見る目が大きく変わった1冊になりました。なんでこの本が大きな評判になってないのか、がよく分からないというのが正直な気持ち。川上さんの他の本も読んでみたいな、と強く感じた。個人的にこの方の書いた文章に非常に共感できるので。
Posted by ブクログ
なんでドワンゴの川上さんがジブリの鈴木さんのカバン持ちに!?カドカワを始めとして「ジジ殺し力」を噂される著者独得のパフォーマンスとして語られることもあったプロデューサー見習い修行ですが、そこには「コンテンツとはなんだろうか?」「クリエイターとはどんな人間なんだろうか?」という純粋な好奇心があったことがびんびんに伝わってきます。読み進めていくうちに、前々からプラットホーマーとコンテンツメーカーの問題について厳しい問題意識を表明していたことを思い出しました。思い立ったら動いてみる、この行動力こそが彼に眩しさや希望を感じる要因なのかもしれません。本書で感じた凄さは行動力に加えて、質問力。感じた疑問、立てた仮説をどんどん問い掛けていく力。しかも、その相手は当代きってのコンテンツビジネスの中心にいる大物ばかり。ある意味、この本はいろんな分野のクリエイター、プロデューサーたちのコンテンツ論の断片のメモ帳のようです。ジブリからの卒論としてまとめられた本とのことですが、あえてジブリ外側の人間として見聞し、思考した結果が、川上さんのビジネスとして何を生み出していくのか?これから先の実践編が楽しみです。
Posted by ブクログ
ご存知かわんごさんこと、ドワンゴの川上さんがジブリに修行しにいった際に色々と考えた内容を書籍化した内容。
結論から言うと、大変面白かった。
なんとなくメディアにおける熟考をしていた際に、マクルーハン的アプローチが良さそうだとは思っていたのだが、どうにも抽象すぎて腑に落ちないと思っていた矢先、現代風の文脈でより具体性に富んだ内容でかわんごさんが解説してくれていると感じた。
アニメの情報量の話(線の数)とそれにおける人間の理解力と脳の構造についての指摘などは大変示唆に富むものだった。
またDeepLearningに関する全脳研を吸収した意図としてもオートエンコーダーによる人間の脳の認識能力に言及されるなど、研究熱心なところが垣間見えた。
(専門家からすると厳密的には違うかもしれないが)
最終的にコンテンツとは何か?という話に結論が出されるのだが、クリエイターにとっての様々な美術に触れる経験もなぜ良いのかというところも触れていて、とても参考になった。
あとは宮崎駿さんと高畑勲さんの対比もよく知らなかったので、面白かった。
絵コンテってのは大変な仕事だなとつくづく。
何度か読み返したい1冊なので星5つで。
■目次
第1章 コンテンツの情報量とはなにか?
――「脳に気持ちのいい情報」を増やす
第2章 クリエイターはなにをアウトプットしているのか?
――「イケメン・美女」を描くのが難しい本当の理由
第3章 コンテンツのパターンとはなにか?
――パターンをズラす、そしてお客とシンクロする方法
1 コンテンツの分かりやすさ
2 パターンをいかにズラすか
3 クリエイターはどこで勝負するのか
4 いかにお客とシンクロするか
第4章 オリジナリティとはなにか?
――天才の定義、クリエイティブの本質はパッチワーク
Posted by ブクログ
コンテンツという言葉はよく聞くが、コンテンツとは何なのか。良いコンテンツとは何か、天才とは何なのか。これらがわかりやすく整理されていてとても面白い。コンテンツを芸術作品ととらえると、一部の人は反発するだろうし、たまにこの本で語られる文脈とは違う奇妙な大ヒット作が生まれることもある。それでもコンテンツは現実の模倣であり、人の脳が見ている世界をいかに描くか、という視点は面白い。だから、たくさんの表現パターンが出尽くして、なおかつこれまで誰も見たこともない、そして自分の脳の中にある姿を描こうとするクリエイターは天才であり孤独なんだな、と思った。
Posted by ブクログ
ニコニコ動画を運営する株式会社ドワンゴの社長、川上量生のコンテンツ論。
各章における共通するテーマは、顧客の目にコンテンツはどう映るか? というものだ。例えば、宮崎駿の描く「気持ちのいい絵」、脳が描き出す「最も平均的な美男・美女」の話、ドワンゴの配信した「音割れする人気着信音」などなど。結論から言えば、顧客が注目して見ているものは「現実若しくは写実」とやや乖離しているのだ。写実的な映像とは異なる宮崎駿の描くアニメや、音割れしている劣悪な筈の着信音など、本来「良質」とされそうなものが大衆から最高の評価を得られるとは限らないのだ。逆に言えば、どこまでもリアルであったり、科学的に良質であったりするよりも、人間の脳に歩み寄ったコンテンツこそが最良であると結論づけられる。これが事実だとすれば衝撃的な事実だ。我々が普段評価しているものは、論理的に分析すれば齟齬があったり、粗悪だったりするかも知れないのだ。その齟齬や粗悪こそがポイントであり、人間の脳は受容器官の性能上、それらを「良」と判断してしまう。言わば直接脳内に訴えかけるコンテンツとなるのだ。
大学の講義で、「リアリティとは創り手が意図的に創り出しているものに過ぎない」と習ったことを思い出す。我々が映像作品を見て感じる「リアル」という感覚は意図的に演出されたものが多く、逆に「現実そのもの」の描写は様々な理由で視聴に耐え得るものではないのだと言う。だとすれば、コンテンツに本当に必要なものは、「現実・写実に則った映像」ではなく、「人間の脳内に直接訴えかける映像」なのかも知れない。
Posted by ブクログ
クリエイターの方たちが『コンテンツ』というものをどう捉えているかが書かれていて、純粋に読みものとして面白いです。
それと同時に、宮崎駿さんがいかにすごいかが伝わる。
宮崎吾朗による「外国の映画製作は天才がいなくても高いクオリティの作品を作るやり方だ」という考察が面白かった。吾郎さんは自分を天才ではないと評していて、その中でがんばっているけれど、それでもやっぱり自分は天才がつくる作品が好きだとこの本を読むと思わされてしまった。
Posted by ブクログ
川上さんだからジブリ側も許可したんだろうな、と感じた。ガチガチの理詰め人間が場の空気読むことなくクリエイターを質問攻めにして煙たがられる光景が目に浮かぶ。その質問の切り込み方がクリエイターとして絶望的にセンスないんだけど、2年間ジブリの現場に滞在して咀嚼した後の言葉がうまいと言うか、説得力ある落とし込みになっているので読む価値はあった。
<優れたクリエイターは理論か?感性か?>
・結論は両方。優れたクリエイターは皆、理論武装もスゴいが、最後は感性で判断している。
↑当たり前だよね。料理人はレシピや調理器具というマニュアルをマスターしているが、最終的には味の微調整も盛り付けも感性が問われる。
<天才とは>
宮崎吾朗さんと米国の制作現場を見学した時に出した結論としては、
天才は「自分のヴィジョンを表現してコンテンツを作る時に、どんなものが実際にできるのかをシミュレーションする能力を持っているヒト」とのこと。
米国ではこれをスタッフ全員でボトムアップ式にお金と手間暇をかけてやるが、予算の乏しい日本ではひとりの天才がやるので結果的に安上がりであると。これができるから日本のアニメは米国に対抗できている、とも言えるが、優秀なクリエイターが安い人件費のアニメ業界にそもそも集まらなくなっているという。天才を安く買い叩いていたからこそ日本のアニメ界が世界と戦えてた、だなんて悲しすぎる現実。手塚治虫さんらのレジェンドらが安く請け負ってしまってたのが始まりだろうけど、こんな状態だから若い才能が他の産業に行ってしまったり、テンセントなどのITジャイアントのエコシステムに引っ越したりするんだ。
<オリジナリティとは>
・脳のヴィジョンを再現する時に偶然できたもの
・デタラメ要素入れて意図的に生み出したもの
・自分だと生み出せない要素をパッチワークで”奇跡”的にできたもの
・既知パターンを分解して再構築した新しい組み合わせ
<コンテンツとは>
・コンテンツとは「双方向性のない遊び」をメディアに焼き付けたもの
・コンピュータの登場で、ゲームやウェブサービスでは双方向性が加わり、「遊びをメディアに焼き付けたもの」と言える
↑これについてもゲーム、ウェブサービスもゲーミフィケーションをベースにしたUXをどこも重点置いてるよね。
Posted by ブクログ
ジブリの映画制作の裏側に迫った内容です。
宮崎駿や鈴木敏夫といった製作者本人ではなく、現場を知っている第三者の視点で語られているのが良かったです。
本書で語られている「コンテンツ=現実の模倣」とは考えたことがなかったですし、導入部ではちょっとした違和感もありましたが、詳しく聞いていくと「なるほど」と思いました。
「大衆受けするもの=癖がないもの」「万人受けする美男美女の顔=特徴がない顔」というのも、現実の世界を思い返してみれば、ものすごく納得できました。
特に共感したのは、宮崎駿や鈴木敏夫が映像重視で作品を観たり、作ったりしていることです。
何を隠そう、私自身も映像作品は映像重視なので非常に共感できました。映像作家の中には、ストーリーが大事だという人(大根仁)もいれば、世界観が大事だという人(押尾守)、音にこだわる人(庵野秀明)もいて、どの監督の話もおもしろかったです。
Posted by ブクログ
ドワンゴ社長川上氏のアニメを通じたコンテンツ、プロデューサー論。ジブリでのプロデューサー修行時代に考えたことを卒論的にまとめたとのこと。宮崎監督や、鈴木敏夫プロデューサーの話が随所に出てきて面白い。ジブリの考え方がかいま見える興味深い書。
Posted by ブクログ
◎競争原理は多様性を減らす作用を持つ。みんながおいしいと感じるものを目指す=ワンパターン化。そして、そのパターンが食べ尽くされると陳腐化する。
◎本物は、普通の感覚しか持っていない人間には扱いにくい、食べにくい、難しいもの。耳が肥えていなければ、全ての音が鳴り響くようなオーディオは無用の長物。ボーカルだけ目立つわかりやすさが美味しいと感じるのだから。
Posted by ブクログ
誰かがオススメしていて、ジブリも好きだしと思って読んでみた一冊。クリエイティブな現場の仕事に関わった経験もなく、もっぱら映画やアニメを楽しむだけのユーザー目線しか持ち合わせてなかったから「コンテンツ」って聞いてもイメージも曖昧だったけれど、この本の中で少しずつ秘密に迫っていく段階を追いながら「なるほどなるほど」と思いながら読んでいました。実写とアニメの違いとか、ジブリが大切にしている方向性や裏話ももちろん数多く掲載されていて、読んでいておもしろかったです。これから見る映画やアニメの見え方が変わってくる一冊。そしてジブリの映画も改めて見返したくなる一冊でした。
Posted by ブクログ
クリエーターの頭の中を、非常に分かりやすく解説した本。ものづくりを生業にしている方なら、頭の中のモヤモヤしたものがスッキリするのではないだろうか?
Posted by ブクログ
コンテンツとは何か、クリエーターとはどんな人なのかを筆者がジブリで体験したことを元に考察した本である。
コンテンツについては、「現実の模倣である」と定義。さらに、アニメにおける情報量という言葉に着目する。youtubuで著者の対談を見ることがあり、へんなやつだなあ、とい印象があったのだが、本書については至ってまじめな論考でありました。
アニメ界では情報量という言葉をよく使うそうだ。アニメの情報量とは端的に言って描かれている線の多さである。元来、実写では情報量が多すぎるのをこどものために情報量を落としてわかりやすく物語るのがアニメであったものが、近年ではいかに情報量を多く盛り込むかということが重視され、そのために大人の鑑賞に耐えうるものになったという事らしい。
現実を単純に模倣するのであれば、情報量において実写に勝るものは無い。著者は「小さな客観的情報量によって大きな主観的情報量を表現したもの」と考え「人間の脳が現実よりも少ない客観的情報をとおして、現実よりも大きな主観的情報を受け取るための媒介物がコンテンツ」と定義し直す。コンテンツはクリエータの脳の中の主観的情報の発露であり、アニメであれば「らしい動き」を描くと、それだけで目が引き寄せられて、コンテンツとして立派に成立すると述べる。
クリエーターについては、「ある制限のもとでなにかを表現する人」とし、脳の中にある「世界の特徴」を見つけ出して再現する人→脳の中のイメージを再現する人とする。
再現されるのは、あくまでも脳の中の「現実」であり、それをいかに「らしく」表現できるかがクリエータの技量なのである。
Posted by ブクログ
ジブリの作られ方、絵のアニメと実写の違い等、面白かった。特に印象に残ったことはオリジナリティについて。
オリジナリティの生まれ方を著者は4つに分類した。
その一つである、
「今までの自分が知っているパターンを切り貼りして、新しい組み合わせのパターンをつくる。」
仕事をする上でも、イノベーションを起こす必要があるが、先代の方々が切り開いてきた情報にヒントがあるのだと感じた。歴史を把握して、それらを組み合わせることで新しいものを生み出す必要があると感じた。闇雲にアイデアなんて出ない、まずは何があるかもう一度見直してから考えていきたい。
Posted by ブクログ
コンテンツとは現実の模倣=シュミレーションである
映像と音楽の関係に即して見たとおり、主観的情報とは増やせばいいというものでもなく、人間の脳が取り出しやすいようにメリハリをつけることが重要
コンテンツの定義
小さな客観的情報量によって大きな主観的情報を表現したもの
客観的情報量:現実>コンテンツ
主観的情報量:現実<コンテンツ
似顔絵や略画は、現実の人間や動物を模倣しているのではなく、脳のなかにいる人間や動物を模倣している
人間が似顔絵や略画を似ていると思うためには、描かれているもののイメージがあらかじめ脳に植え付けられていることが必要だということを示唆している。だから、見慣れていないものの似顔絵や略画を見せられたとしても、たとえ現実の本物の写真と見比べたとしても、「似ている」とは思えない
コンテンツとは脳のなかのイメージの再現である
コンテンツのクリエイターとは、脳のなかにある「世界の特徴」を見つけ出して再現する人なのです。でも、脳の中からそれらを見つけ出すのは、簡単なことではありません。それこそが創作の苦しみであり、苦しみの中で脳内から発見した「世界の特徴」こそがコンテンツの真理であり神秘なのではないか、芸術を生み出した人間が目指したものではないか
北斎は、人間の脳が風景のイメージをつくるとき円や直線や図形の比率が特徴として使われているので、円や直線や図形の比率を使って絵を描くと人間は理解しやすいことを発見したということになるでしょう。そう考えると「世界のひみつ」とはなんのことはない、人間の脳がどれだけはしょって世界を理解しているか、もしくは人間の脳がどれくらいの「ひみつ」だったら理解できるかという能力の限界を示しているとも考えられる
脳のなかで視覚情報は抽象化された少ないデータにどんどん変換されていっている。似顔絵などが成立するのもそれが理由。脳の中では現実の人物と似顔絵は似たデータとして処理されているに違いない
クリエイターとは脳のなかのイメージを再現する人である
クリエイターが創作で悩む原因
・脳のなかのイメージを再現する技術的な難しさ
・脳のなかのイメージを見つける難しさ
・自分の脳にはないイメージをつくる難しさ
ビーイングのアーティストがミリオンヒットを連発した理由はいろいろあるが、その秘密のひとつは、曲に比べてボーカルの音量を大きめのバランスに設定したこと
コンテンツとはクリエイターの脳のイメージをユーザーの脳の中に再現するための媒介物である。コンテンツによってユーザーの脳のなかにクリエイターが表現したいことを再現するためには、やはり「分かりやすさ」は決定的に重要になるでしょう。しかも「分かりやすさ」とは、そのユーザーが理解できるコンテンツの特徴の「分かりやすさ」ということになる。より多くのユーザーを対象にしようとすればするほど、コンテンツの基本となる特徴もより単純で「分かりやすいこと」が重要となる。彼らが理解できる範囲の中で、コンテンツのどの特徴を「分かりやすく」強調するかを変えるという視点が必要ではないかと思います
コンテンツのパターンが陳腐化しないための必要条件として、「分かりそうで分からないもの」になっているかどうかというのは、ちょうどいい判断基準になっているのではないか
パターンをいかにずらすか cf. 引っ掛かりがある線を描く(宮﨑駿)、ノイズを入れる(マックス松浦)、悪文(栗本薫)
コンテンツのサイクル
美術の歴史は4つのサイクルの移り変わり(高畑勲)
アーカイズム→クラシック→マニエリスム→バロック
プロップ「昔話の形態学」
昔話の構造31の機能と7つの行動領域
たいていの物語はすでになんらかのパターンの繰り返しになっている可能性が高い。表面上は新しい物語のつもりでも、実は何度も繰り返されている過去のパターンの焼き直しにすぎないということにストーリーはなりやすい
作品を見るときにはなにを見ればいいか。それはつくった人がなにをやろうとしたのか、それを見ればいい。そして、それが上手くいったのか、上手くいかなかったのか、それだけだ(宮﨑駿)
映画の構成要素は3つ
①ストーリー ②キャラクター ③世界観
ハリウッドでは、キャラクター、ストーリー、世界観
押井守は、世界観、キャラクター、ストーリー
どんな世界なのか、その説明が終わった時に物語が終わる cf.ブレードランナー、千と千尋の神隠し
映画の構造としては、「この世界はいったい何なんだろう?」という興味で引っ張っていく
人間の脳が現実よりも少ない客観的情報をとおして、現実よりも大きな主観的情報を受け取るための媒介物がコンテンツ
・クリエイター視点:自分の脳のイメージをどれだけ正確にユーザーに向けて再現できたか
・メディア視点:どれだけ効率よく、小さな客観的情報量で大きな主観的情報量を伝えられたか
・ユーザー視点:どれだけたくさんの主観的情報量を伝えられたか
「思い入れの映画」と「思いやりの映画」
感動や号泣を引き起こしやすい「思い入れの映画」、笑いや優しさをもたらす「思いやりの映画」
主人公に思い入れるのではなく、それぞれの登場人物に対して「この人はこういうことを考えているんだろうな」ということを思いやる
人間が好む究極のコンテンツとは、本能である食欲や性欲に結びついたもの cf.グルメ情報やアダルトコンテンツの市場
願いが叶ったんだから、なぜ飛べたかということに観客は疑問を感じない(魔女の宅急便の一度飛べなくなったキキ)
答えがひとつであるコンテンツの世界で、違う答えを出さなければいけないのがクリエイターの苦しみ
コンテンツの要素である「対象」と「手法」では、「手法」のほうが多様性があるので、クリエイターは最終的には「手法」にこだわること
コンテンツはユーザー側から見た場合には、コンテンツを媒介にユーザーの脳の中に再現されるイメージが、人間の情動と結びついていることが重要であること
優れたコンテンツとはいかにユーザーの情動を揺さぶるかで決まる。しかし、コンテンツは現実社会のシュミレーションであり、教材であるという性質を持っているため、同じものを何度も経験すると「学習済み」ということで、価値が下がってしまう。アダルトコンテンツのように人間の情動を動かすことだけに特化した機能的なコンテンツは、教材としては役に立たないものであるということで、機能性の部分で大きな需要があったとしても、重要なものではないと認識されるのでしょう
オリジナリティとは
・脳のビジョンを再現する能力が技術的に不足しているため、偶然に、なにか違うものができてしまう
・意図的にでたらめな要素を入れてコンテンツを作る
・パッチワーク的に、自分がつくっていない要素をパーツとして利用する結果、自分がつくっていない要素が原因で、奇跡が生まれる
・いままでの自分が知っているパターンを切り貼りして、新しい組み合わせのパターンをつくる
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著者がスタジオジブリで鈴木氏のかばん持ちからスタートして宮崎氏の考え方等を解説。秘密というほどではないだろうが、ジブリに興味がある人にはいいかもそれない。
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昔の本の再読。川上さんがジブリに弟子入りしてたのも面白い。
本人の言うようにコンテンツ論の卒論みたいな内容。
京大卒の川上さんらしく内容は難しい表現もあるけど、抽象的なコンテンツという概念を論理的に理解しようとしているのが印象的。
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コンテンツとはを改めて分析的に考える川上さんの思考法が面白い。客観的情報と主観的情報は異なり、人間は頭の中の漠然としたイメージで物事を捉え理想を作り上げ、それをかたちにすることがクリエイターの力だという点に納得。
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コンテンツとは、メディア、対象、方法から成る。
メディアと対象は、限られているから、数ある方法から組み合わせてコンテンツを作っているとのこと。
思い入れの映画と思いやりの映画
感情移入するのか、役に思いやりをかける、第三者的目線で見るのか。
主観的情報量と客観的情報量
本当のサイズではなくて、目に映る強調具合で世界を捉えるのが主観的情報。物事のデフォルメは、これに近い
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面白かった。ジブリの鈴木プロデューサーに弟子入りした
ニコ動ドワンゴ川上さんの魅力的なコンテンツとは何かという分析。
まずアリストテレースの詩学から紐解いて、①異なった媒体によって、②異なった対象を、③異なった方法で再現、していればそれは違うコンテンツだと。つまり、映画とTVとDVDは異なるコンテンツなんですね。
それで、ジブリのようなアニメがどうして実写より人気が長続きするのか。それは、写実よりも脳にとって真実に近い再現をしているのではないか、と言うんです。
風立ちぬの飛行機は実際の縮尺より大きく描かれている。それは宮崎駿監督が飛行機が好きだから。でも実は彼にとっては本当に飛行機が大きく見えていて、それに忠実に描くと脳にとって心地良いのじゃないか、というのですね。
・叙事詩と悲劇の詩作、それに喜劇とディーテュラムボスの詩作、アウロス笛とキタラー琴の音楽の大部分、これらすべては、まとめて再現といえる。しかしこれらは三つの点、すなわち、①異なった媒体によって、②異なった対象を、③異なった方法で再現し、同じ方法で再現しないという点におい て、互いに異なる。
―アリストテレース 詩学
この文章が2000年以上前に書かれていたというのは、すごくないでしょうか?アリストテレスの時代には、アニメも映画もマンガもありませんでしたし、コンテンツの大量複製の技術もありませんでした。詩作と音楽は当時の時代のコンテンツ全般を指していると解釈できるでしょう。ちなみに「ディーテュラムボス」とは合唱舞踊歌、「アウロス笛」とはオーボエに似た管楽器、「キタラー琴」とはギリシャの竪琴のことだそうです。
・長戸さんによると、ボーカルの才能で一番重要な要素はなにかというと、歌の上手さとか、魅力的な声質かどうかとか、いろいろあるけど、大事なのは歌詞がはっきりと聴きとりやすい声質かどうかなのだそうです。
・コンテンツのつくり手側の人たちは、プロであればあるほど、とかく「本物」を届けることにこだわりがちです。しかし、長戸大幸さんがボーカルの声の聴き取りやすさを重視した例や、ぼくらの着メロサイトが音圧を上げることで支持された例のように、一般の消費者のなかでも感度の高い人たちこそ、プロやマニアが軽視しがちなコンテンツの原初的な特徴の「分かりやすさ」を求める傾向があるというのは、真面目に受け止めるべき事実であるようにぼくは思います。
そして、それはコンテンツが「クリエイターの脳のイメージを観客の脳のなかに再現するための媒介物である」ことから、当然のことだと思うのです。
・UGC(ユーザージェネレイテッドコンテンツ)サイトというのは世界中のユー ザーがコンテンツをつくるので、とにかく数が多くなる。コンテンツは無料だからユーザーが集まる。無料でコンテンツをつくる人も実はインターネットのなかにはたくさんいる。そこで競争も生まれるのでコンテンツのクオリティもどんどん上がっていって、いずれ商業コンテンツもいらなくなる。しかも数が多いので、商業コンテンツでカバーできない多様性のあるコンテンツがたくさん生まれる。
そういう夢のようなふれこみで、インターネットにUGCサイトがつぎつぎと誕生したのです。
ユーザーが自由にコンテンツをつくるUGCサイトは、世間の予想や期待とは逆に、コンテンツの実質的な多様性を減らす作用があるというのがぼくの持論です。
コンテンツとはほうっておくとワンパターンになるので す。だから、ユーザーが自由にコンテンツをつくるUGCサイトはむしろワンパターンになりやすいのです。
…コンテンツの多様性を守るためには激しい競争をしてはいけないのです。
・あるとき、鈴木敏夫プロデューサーが『かぐや姫の物語』の予告編をどうやってつくればいいか、西村義明プロデューサーにアドバイスしていたのですが、そのとき鈴木さんは、「予告編は高そうなカットをつないでつくればいい」と教えていたのです。
ぼくがびっくりして、「高そうなカット、ですか。すごい表現ですね」と言ったところ、「これ、外では行ってないんだよねえ」と、鈴木さんは悪戯っぽい笑顔を見せたんです。
「人間、高そうなものが好きだから」
人間は高そうなものにしかお金を払おうとしな いと、鈴木さんは断言したのです。
・マリアを描き、彫刻に彫るときの大きなテーマはキリスト教の祈り。ルネッサンスの始まりは、そのマリアを荒々しいリアリズムで表現したことにあったそうです。
それが、時代が進むと、マリアにはその古典となるべき完成系が誕生し、さらに時代が進むと、今度は細部にこだわるようになり、最後はぎらぎら飾り立てるものになったといいます。細部にこだわったときには、本来のテーマであった「祈り」はどこかへ行ってしまい、残ったのは、たんなる女体だったそうです。
・ストーリーか表現かで、なぜクリエイターは表現にこだわるようになるのか、その理由は、ストーリーは表現に比べてパターン化されやすく、かつパターンの数が少ないからだとぼ くは思います。
・もし、宮崎作品の魅力がストーリーにあったとしたら、こんなに何度もお客さんに見てもらえるわけがありません。これだけテレビで再放送をやっているのですから、視聴率が下がらないわけがありません。ストーリーが目的だったら、分かってしまえばもう見る必要はないからです。
・庵野さんは実は中学生のとき、『宇宙戦艦ヤマト』が大好きでしたが、当時はビデオデッキなんてまだなかった時代ですから、テレビ番組の音だけをカセットテープに録音したのだそうです。そうして、カセットテープで何度も何度も聴いて、セリフも完全に覚えたと言います。
庵野さんは、音に対する感性がとても優れた映像作家なのだと思います。音の使い方がうまくて、おそらくは音だけで も物語を構成できるのです。そして音に合わせて補強するように映像をつけているのではないでしょうか。その意味では音楽PVに近い作り方をしているんじゃないかと思います。
庵野さんに、アニメにおける音の重要性について尋ねたことがあります。
「割合で言うと、どれくらいでしょう?」
庵野さんはしばらく考え込んでいたのですが、「作品の50%、60%…うーん」、その後さらに考え込んで、「いや、80%ですかね」と、最終的に言ったのです。
それぐらい庵野さんは音を大事にするアニメーション作家なのです。たぶんそういう感覚は宮崎駿さんにはないと思います。
・鈴木さんによると、独特の映画論を唱えているのが押井守監督だそうです。
押井さんによると、映画の構成要素は三つしか なく、それは、①ストーリー、②キャラクター、③世界観だそうです。
そしてこのなかのどれを優先するかで、映画の種類が決まってくるのだといいます。
押井さんがアメリカで、ジェームズ・キャメロン監督と話したときに、キャメロン監督は次のように言ったそうです。
「ハリウッドでは、キャラクター、ストーリー、世界観の順番でつくる。つまり、ユニークなキャラクターがいて、おもしろいストーリーがあって、最後にロケーションやセットという世界観を考える。この順番を守らないとハリウッドでは成功できない」
それに対して、押井さんは、
「それは逆だと思う。まず世界観があって、それからキャラクターがあって、最後にストーリーを考えればいい。だってそういう順番でつくれ るのは映画だけじゃないか」と答えたといいます。
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角川ドワンゴの川上量生氏のジブリで見習いに
なって活動したことをふまえて、コンテンツとは
クリエーターとはを問う内容。
「コンテンツとは」を追求して考えていく過程の内容
は面白く興味がわく内容です。
ニコニコとジブリ、またカドカワという関係ありそうで
なさそうなものを追求するなど、この著者の動向(書籍や
活動)は着目していきたいと思っています。
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ジブリ見習いをやった卒業論文、ということらしい。確かに、順を追った考察で、コンテンツとはなにか、という定義から、クリエーターはどうやってそれを作るのか、天才とはなにか、まで論理的によくまとまっていると思う。しかし、ジブリ見習いで得られたものが、こんな新書一冊なわけは無い。続編も期待したい。
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コンテンツとは、を論理立てて説明した本。
クリエイターのビジョンとは、なるほどと思いました。
各章に結論が書かれており、結論もシンプルにまとまってましたが、全体的に私には読みにくかったです。概念の話のせいというのと、きれいにさらっと書かれている感じがするからでしょうか。
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川上さん自身がはじめにで言っている通り、この本はジブリプロデューサー見習いの卒論という言葉がしっくりくる。
個々の具体的な話は面白いけれど、それを理論化する部分は正直、陳腐で面白味がないなぁと。
いくつか面白い話があったので、メモ。
・UGCのようにコンテンツが膨大な数集まったときに起こるのは、多様化ではなく一極集中。例としてなろうの異世界テンプレや一皮剥ぐと違いのあまりないソシャゲがあがってて、思わずなるほどと思った。
・ビーイング創業者の販売戦略。歌詞の聞き取りやすい声質の歌手を起用し、さらに街頭でもすぐ耳に入るよう歌声の音量をバランス以上に上げていた。
・音はいらないと考えていた宮崎駿監督と、音が8割と考えた庵野監督。キャラよりストーリーより世界観を重視した押井守監督。