あらすじ
「クレオール主義」とは、なによりもまず、言語・民族・国家にたいする自明の帰属関係を解除し、それによって、自分という主体のなかに四つの方位、一日のあらゆる時間、四季、砂漠と密林と海とをひとしくよびこむこと――。混血の理念を実践し、複数の言葉を選択し、意志的な移民となることによってたちあらわれる冒険的ヴィジョンが、ここに精緻に描写される。「わたし」を世界に住まわせる新たな流儀を探りながら、思考の可能性を限りなく押し広げた、しなやかなる文化の混血主義宣言。一大センセーションを巻きおこした本編に、その後の思考の軌跡たる補遺を付した大幅増補版。
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Posted by ブクログ
p.94
だが現代において、文化的「境界」を越える行為が、従来の政治・社会力学のなかで容易に融合・同化のプロセスをたどってゆくような性格のものではないことは、すでに冒頭から述べてきたとおりである。なによりも、「文化」そのものが、明確な領域と境界をそなえ、自律的で内的な一貫性を持った主体的ユニットであるとする考え方が、もはや破産しかけていることは明白だ。「われわれ」も「彼ら」も、ともにかつて考えられたような独立したホモジニアスな性格を持った主体として見なすことは、もうできない。「われわれ」のなかにはすでにいつのまにか「彼ら」が住み始め、はじめてわれわれと出会ったかに見えた「彼ら」の内部にも、すでに「われわれ」は棲息していた。そのことに盲目を装いたい首都的な、ドミナントな、支配的な科学や権力だけが、いまだに文化のボーダー・ゾーンに生起する動きを抑圧しようとしているにすぎないのだ。
p.98
旧来の「文化の純潔性」への信仰を、男性原理の支配する国家的権力構造ともども切り裂いてゆこうと身構えながらも、アンサルドゥーア(チカーナのフェミニスト作家グロリア・アンサルドゥーア)の主張は人間の文化的帰属意識をかいたいさせるどころか、それをさらに強靭なものにしようとする意志にみちあふれている。しかしそこで希求されるアイデンティティの基礎には、もはや単一の、首尾一貫性をそなえた「文化」というフィクションが入り込む余地はない。文化の果てる「辺境」にあって無為な葛藤を繰り返しているかに見えた「境界の住人」たちが、逆にいまこそ文化をブレンドして操ることのできる、全く新しい叡智と技術を持ち合わせた人間として、時代の前衛に現われでようとしているのだ。
p.101
複数の文化に架橋し、複数の言語を創造的に駆使する役割は、しかし政治的・社会的なボーダーランズに住むチカーノのような現実の境界人だけに課せられているのではない。ロサルドが、そしてアンサルドゥーアが主張するような意味において、現代社会に住むわたしたちすべては、越境者の運命を引き受けつつある。権力が、制度が、土地にいかなる文化的「境界線」を暴力的に引こうとも、もはや境界はまるでモザイクのようにわたしたちの内部に張りめぐらされている。具体的、可視的境界の存在に足をすくわれて自己を見失うよりも,私たちは見えざるボーダーの一つ一つを果敢に越境することを通じて、自らも世界を覆う「ボーダーランズ」の住人の一人であることに連帯を表明していくべきなのだ。
自己のなかを越境すること。自らの土地へイミグレーションをこころみること。そうした行為の果てに、わたしたちは固定的で同質的な「場所」や「文化」のロジックから自由になった。ヘテロなものが共棲する一つの新しい認識の風景を手に入れることができるのである。
p.133
西欧言語において、土地は女性であるとみなされていた。だが女性である土地は、それ自身のなかにみずからを根拠づけるものを持たなかった。土地は発見され、名づけられることによってはじめて正統性を獲得したが、その名は、植民地においては例外なく、発見者である男によって与えられたものだった。しかも多くの場合、発見者たちは自分の名をそのまま女性形に変えて土地に付与することによって、彼がその土地の父親であることを明確に土地に刻み込んだ。アメリゴ・ヴェスプッチによって大陸として発見され名づけられることになった「アメリカ」(いうまでもなく「アメリカ大陸」全体をさす)がそうした経緯を示す象徴的なケースといえるだろう。