あらすじ
ミシェル・ド・モンテーニュは、16世紀フランスの思想家、モラリストである。彼が残した『エセー(随想録)』は、古典知識の集大成であると同時に、知識人の教養書として古くから受け入れられ、その真理探究の方法、人間認識の深さによってデカルト、パスカルなどの思想家に影響を与え、今日にいたるまで古典的な名著として多くの人々に読みつがれている。本書には、「エセー」の中で最長、最大で、難解をもって知られる「レーモン・スボン」の章を収録している。この章には「わたしは何を知っているのか(ク・セ・ジュ)?」というモンテーニュの有名な言葉がおさめてあり、人間の理性、判断力、知識には限界があることを謙虚に認め、試行錯誤を恐れずに真理を追究しようとしたモンテーニュの思想をよく表しているといえる。 《学問や芸術・技術は鋳型に入れてさっとできるものではなく、「熊が子熊をなめ回しながら、じっくりと時間をかけて育てていくように、それを何度も何度もいじくって磨いていくうちに、少しずつ形ができていく」といったことなのである》。モンテーニュのイメージを一新する平易かつ明晰な訳文で古典を楽しもう。
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Posted by ブクログ
白水社の『エセー』全7巻の折返しの第4巻にして最難解と言われる「レーモン・スボンの弁護」収録のこの巻。
これを読み終わったら肩の荷が少し降りるような気がして、気合いを入れて読み始める。
「レーモン・スボンの弁護」とは、理性によって信仰を立証しようとしたスボンの論をモンテーニュが弁護しようとしたものである…はず…なのだけど、気がつくと神に選ばれた人間という存在=特権的存在を徹底的に否定している。
あれれ?
もしかしてこれは「レーモン・スボン(から)の弁護」ってことなの?
”人間にとっては、自分はものを知っているという思いが疫病神となる。だからこそ、われわれの宗教は、無知なることを、信仰と服従に合致した特性だとして、強く勧めたのである。”
いやいや、キリスト教より前にソクラテスが言ってるやん。無知の知。
”どれほど多くの人間が、想像力の力だけで病気になったことか。(中略)おまけに、本当の病気が足りなければ、学問が手持ちの病気をちゃんと貸してくれる。(中略)そのあげくに学問は、健康にもあからさまに文句をつける――「いいですか、はつらつたる青春の元気さなんていうものは、いつまでもその調子で続くわけがないのです。(後略)”
なんか今の時代そのまんまのような気も。
”われわれは、ほんのかすり傷にも痛がるくせに、健康に対してはなにも感じていない。”
健康も幸せも、失くしてから気づくんだよねー。
”《苦痛の不在は、粗野な精神と麻痺した身体という、大きな代償を支払わなければ得られない》キケロ”
痛いこと、辛いことを避けたまま成長した挙句、人の痛みがわからない人が増えてしまったのが今の世の中のような気がします。
”それにしても人間とは、常軌を逸した存在というしかない。ダニ一匹作れないくせに、神々を何ダースも作るのだから”
神さまって作るものではなく、最初からそこにある存在なんじゃないの?って思ったけど、日本でも神様大量生産してましたね。
菅原道真とか徳川家康とか。
後半は信仰についての肯定。
ここでようやくレーモン・スボンを弁護しようという気になったのか。
だけど、クリスチャンではないので、後半はあまり刺さりませんでした。
さ、難解な部分も終えて、エセ―の坂も下りに差しかかります。
とおもったら、次巻はもっとも分厚い巻になるらしい。
1巻も相当長く感じたんだけどなあ。
毎回が勝負巻の『エセー』。
頑張らねば。