【感想・ネタバレ】その一言が余計です。 ――日本語の「正しさ」を問うのレビュー

あらすじ

「まあ、がんばって」「全然おいしい」「書かさせていただきます」。こんなことばをつい使っていませんか?使う側には悪気はなくても、これらの表現には聞き手の気分を害する「余計な一言」が潜んでいます。では、聞き手はなぜ苛立つのでしょうか?文法的な違和感、談話におけるくいちがい、敬意の示し方と受け取り方のずれといった観点からその構造を解説し、ことばの正しさの本質に迫ります。

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Posted by ブクログ

単純に,こういう言い方は余計なので言わないようにしましょう,という内容ではなく,何故そういう言い方をするのか,という言う方の立場からも検討しているのが面白い.そして,その一言が気になるからと言って注意すると,その注意が余計な一言になりかねないので,気になった場合どうすれば良いのか,という対策も書いていたりして,勉強になる.これは是非読んでもらいたいと思う一冊.

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2013年05月23日

Posted by ブクログ

日本に生まれ、日本に住んでいながら、日本語を正しく使えているか問われれば、中々自信をもって「はい」と言える方はそう居ないのではないかと思う。このレビューにしてもそうだ。頭に浮かんだ言葉(感想みたいな感覚で書いてるからそれで良いと思っている)をただ書き連ねるだけだから、余程、見直しでもしない限り、間違った日本語のまま掲載しているだろう。
本書はそうした誤った日本語の使用で、会話相手をカチンとさせる様な「余計な一言」に着目した内容となっている。敬語の使い方にせよ、「てにをは」などの助詞の使い方、更には時代と共に変遷する様な表現。厄介なのはそれがまた一般的で標準的な捉え方や言い回しに変わったものなどもあり、改めて自国の言葉である日本語の難しさを感じる一冊だ。
最近はコンビニの店員だけでなく、街中に外国人が溢れており、そうした方々ならまだ、日本語勉強中でより正しい表現を学ぶ機会が多いかもしれない。ただ、聴いている感じでは誤った使い方を多くしているのが現状だ。一方で日本語のプロフェッショナルであるはずの我々日本人でさえ、日常的に誤った日本語を使うものだから、正しく美しいはずの日本語の崩壊に危機感を覚えるのは、筆者と共通の心情だ。本書ではそうした危機感を抱きながらも、ある程度寛容的にそれらに接していかなければならないという立場もとる。来るべきの移民受け入れ(埼玉の一部では中国から来た方、クルド人が多い)に備えて、例え間違っていても「理解しよう」と努める姿勢は今よりも確実に求められるだろう。
とは言え、日常的に聴く日本人同士の会話やレビューを求められる企画書にさえ、誤りが多いと、多少なりともゲンナリする。人のふり見て我がフリ直せとばかりに、チェックする自身の能力を継続的に高めなければならない。未だ未だ私のレベルでは全く不足しているし、周囲に余計な不快感を与えないためにも、こうした書籍を読んでいきたい。
なお、私の知り合いで日本語を間違えるようなレベルではなく、心の中で何処か他人のせいにしたい、自分の不手際を隠したいといった心情からか、真に心の底から余計な一言、不快な言い回しをする人がいる。その度に、人のせいにするなと指摘してきたが、一向に改善しないし、本人はそういった気持ちはないと反論する。であるなら、本当に本書にある様な日本語が不得手であるのだろうか。仕事面(IT技術力)では非常に優秀なだけに、大変惜しい人物なのだが、いつも気になってしまう。日本語の能力だけでなく、人間性や技術力、全てを兼ね揃える人物に出会うのは難しいと理解しながらも、仕事する相手なら、せめて表面に出易い言葉にだけは、十分な人に出会いたい。本書で響く言葉「敬語は言葉の化粧」。この言葉自体が非常に美しく心に響いた。

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2025年04月18日

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助詞や敬語の用法だけではなく、談話の場での適切なパフォーマンスや、社会言語学を踏まえた日本語非母語話者への配慮まで、幅広いトピックが採られている。

言葉の使い方には配慮が必要な職に就いていることもあり、それなりにこれまでも勉強してきたつもりだったけれど、知らなかったこともあった。
一つは、「暑いです」、「暑かったです」という言い方は、少し前までは違和感のある表現とされていた(私は全く違和感がない!)こと。
もう一つは、「入る」「入れる」などのように、自動詞他動詞のペアがあるものでの他動詞は、対象をモノ扱いするニュアンスがつきまとうということ。
ただ、この件については、山田さん自身も「もっと例文を足す必要があ」ると言っているように、説明がもっとほしいところ。
腑に落ちた感じが今一つ得られなかった部分だ。

「言葉咎め」は、それをする人も、その周囲の人も幸せにしない、という指摘は、本当にもっともだ。
とはいえ、繰り返される「他者を尊重しましょう、そのほうが素敵です」という趣旨の呼びかけは、新しい形の啓蒙的物言い、にも響いて、何か引っかかる。
最近は、言語学者はそこまで価値判断に踏み込んでくるものなのか?

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2017年04月15日

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ネタバレ

何だかちょっと引っかかる言い回し。
それのどこに私たちは引っかかっているのかを紐解きながら、日本語の繊細な性質を解説していておもしろい。

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2013年12月30日

Posted by ブクログ

日本語の「正しさ」を問うというサブタイトルに惹かれて購入。
助詞の使い方など、改めて気づかされることが多い。
また各項目に「対処法」が記載されていることが、他の類似本と異なり面白く読むことができる。単なる文法の正しさにとどまることなく、より豊かな日本語の遣い手になることへの意識づけになると思う。

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2013年10月11日

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「い抜き言葉」とはなんだろうと思ったら、「書いてます」、「歩いてく」のように「い」を抜かした言葉とある。「いぬき」で浮かんでくるのは、設備や家具などを付けたまま売るあるいは貸す「居抜き」だ。

 著書には、「脇にずらしたくなる日本語の癖」とあり、読んでいくとフムフムと思った。それは、はっきり言わないで、著書でも述べられているように「ほど」などを使ってもやもやさせる。理由としては、日本語ははっきり言わないとある。脇にずらすとはなかなかうまい表現だな。

 日本語文法は、西洋語はっきり言えば英語の影響を受けているとよく言われる。その影響の1つに著者が挙げているのが、「た」に関する用法だ。過去、完了、状態を表すのが「た」の働きとされている。しかし、学校で教えられていない「た」の用法があるとして次の2つを取り上げている。

1.事態成立が認識されたことを示す
例 お、バス来たよ。
 2、連続した事態の叙述において、突然、電車の警笛が鋭く鳴った。
   例 夜が明けた。

 「た」があるからと言って、パブロフの犬のように過去や完了で理解すると大変な場合があると改めて認識した。「た」1つにもいろいろな使い方がある。外国語荷役する際には、注意が必要になる。

 著書を読み進めていくと、日本語を使うことの難しさを痛感させる。助詞1つ使うにも注意が必要だ。

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2013年05月16日

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ネタバレ

まずは、タイトルに惹かれた。
「行けたら、行くけど」「コーヒーでいいです」など、そこにその一言(あるいは一文字)付けなきゃいいのに、という「余計な一言」あるよなー、と。
で、その例がたくさん載っているのかと思ったけど、単なる列挙じゃなく、文法的に、言葉の歴史的に、なぜ、そういう言い方になっているのかを丁寧に分かり易く解説してくれている。
さらには、そうした言い方に対して、どのように注意する、あるいは受けいれる、相互に気持ちよく過ごせるには、どうすればよいかを提案する。実に、ケアが手厚いのだった。

“はじめに”にある本書の目的、
“「余計な一言」に対する双方の言い分を聞いて、調停していくことです。”
を、徹頭徹尾、通しているところが素晴らしい。

 なぜ、そういう言い方になっているかを理解すれば、受け手の感情だけで発言を捉えずに済む、変に感情をかき乱されなくて済むかもしれない。
 たとえば、上記の「コーヒーでいいです」の「で」、満足してないけど、「それで」我慢しておくよ、というふうに捉えがちだけど、

“日本語は、西洋語のようにはっきりと「コーヒーを」と対象を限定して述べるよりも、(まんじゅうを3つほどください、のように)「コーヒで」と脇にづらしたくなる言語なのです。”

 と日本語のもつ特性から出たものと思えば、そんなものかと思わないでもない。言葉を発する側にも配慮が必要だけど、受け取る側も、“ことば咎め”に終始することなく、広い心、余裕の気持ちで理解に努めよう。

“会話において、受け手がそう聞きたいと思う内容で理解していることはよくあります。話し手だけの責任ではなく会話の当事者みなが協力してコミュニケーションは成り立っています。”

 そんな、余計な一言の成り立ち、理解の方法のみならず、曖昧な表現になりがちな日本語、あるいは動詞が最後にくる日本語は、最後まで聞かないと意味が通じないという通念に対しても、いやいや、そうでもないですよと、面白い解説もある。
 主語の後にすぐ動詞のくる西洋語が、言いたいことがすぐ分かるというのは分かるが、日本語も、語尾を想像させる言葉で意味を察知することが可能という指摘は、じつに面白いし、日本語の豊かさ、奥ゆかしさが分かると言うもの。面白い。

 また「ら抜き言葉」「さ付き言葉」を、間違いと断罪せず、それが発生するメカニズムを文法的に解説、さらに何故そこまでメクジラを立てられて言葉狩りが行われるかについても、

“すべての表現について、流行が拡大することで批判が生じ、それに過敏になった人がさらに批判をするというサイクルの中でことば咎めがなされていると言えるのではないでしょうか。”

 と、要は、みんな気にしすぎ!と注意喚起。言葉狩り、ことば咎めに終始することなく、では、周りが正しい表現を正しく使う例を示すことで、ゆっくり教育していけばよいと指南する。
 実に、ゆったり構えた、とても穏やかな気持ちになれる、よい書でした。

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2019年02月27日

Posted by ブクログ

本のタイトルから、想像していた内容と大分違っていたが、
ただの言葉指南本では無かったため、最後まで読めた。
日本語は非論理的・最後まで聞かないとわからないとのうわさは、
言語的特徴でしかないとのことで、
そう思っていた側からすると、なるほどと思わされた。

各章のおわりにある、著者の考える「余計な一言」についての対処法は、
やわらかで、日本語に対する温かみに溢れていると感じた。

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2013年11月15日

Posted by ブクログ

間違った日本語について解説するような本ではなく、「どうしてそうなったのか」や「どうすればよくなるのか」を考えさせてくれる本でした。

「寛容に」という表現が多く登場したように感じますが、確かに著者の言いたいことはわかります。ただ「じゃあ誰がどう正すの」と考えたときに、ちょっと呑気かなと思いました。
だって、正す側がやっぱり「正しい言葉」を身に付けておく必要があると思うからです。「寛容」という発想になるのも、学者さんだからかな~と考えたりしました。
著者は長い目で見た「国語科教育」の必要性を訴えていました。同感です。正しい言葉遣いや敬語を人に指摘する前に、自分が実践の場で使えるようになることが何より重要だと思いました。

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2013年06月16日

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