あらすじ
しあわせは私の真下にある。引きこもりも病気も不安も、逆転の発想で糧にする「べてるの家」の人々。問題山積の当事者と家族、医師、支援者の軌跡を深く取材した書き下ろしノンフィクション。“豊かな回復”への道筋。
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Posted by ブクログ
この本の初版は2003年。
出版当時は華々しい紹介をされても、その後は尻つぼみになって消えていくパターンは結構多い。
例えば北星余市高校のヤンキー先生ブームからの廃校問題。
べてるの家も、今現在どうなっているか、わからない。
そう思ってネット検索してみたら、べてるの家、未だに同じように、いやそれ以上に活動していました。
これでこの本を安心して紹介できます。
北海道の浦河町、襟裳岬よりちょっと北にある小さな町の活動なんです。
引きこもり、家庭内暴力、統合失調症などで社会に関わることが難しく、自分に関わることですら自分が当事者になることができず、拘束されたり薬づけにされたりして自分を解放することを禁じられた人たちが、浦河という町で、自分を否定されることのない環境で、ゆっくりと、行きつ戻りつしながら自分を取り戻していく話。
否定しないこと。
これは私も気をつけている。
自分と違う他人を否定しないこと。
理解できないことを否定しないこと。
けれどそれを受け入れるというのは、とてもとても難しい。
違うことを否定しない。
理解できないなら、何度でも話し合えばいい。
そのうちお互いに受け入れることができるだろう。
効率だけを考えていてはできないこういうことを、浦河赤十字病院の精神科医・川村敏明さん、ソーシャルワーカー・向谷地生良さんが、患者さんやその家族たちを巻き込んで、正常者対精神病患者という対立構造ではなく、共に生きていくご近所さんとして横に並んで生きていける社会を作り上げた記録は、想像以上に苛烈なものだった。
精神病であろうとなかろうと、暴力でことを解決しようとする人は、要するに自分の心を言語化する能力が足りていないのだと、言葉で気持ちを伝えられるように辛抱強く付き合うのは、我が子であっても忍耐力を要することなのだ。
でもやっぱり、言葉にできない気持ちを察してくれというのは、親子でも、ましてや他人であるクラスメイトや会社の同僚には無理なのだから、時間がかかっても、何度失敗しても、言語化の努力は続けなければならない。
病気が治ることがゴールなのではない。
病気を認め、受け入れ、共存することができたら。
「しあわせは私の真下にある」と気づくことができるのだという。
壮絶の先にある穏やかな日々。
遠い遠いその道を共に歩いている浦河の皆さんに、頭が下がる。
Posted by ブクログ
「べてるの家」を取材した筆者によるルポ
発言録をもとに構成されていて、若干の読みにくさはあるけど、内容は興味深い。
「当事者性」に関する作者の考えは共感する部分も多いが、ルールやシステムを維持するために個が犠牲になることは悪なのか?
議論してみたいテーマ。
・べてるの家は、精神病のために自分で考え、決めて、行動するということができないとされてきた(当事者性を奪われた)人たちが、自分の役割を再発見する場所
・本当の回復とは、右肩上がりの高いところにあるのではなく、自分の真下にある
・医療技術の発達により、人間の思考を含めすべてを生物学的に説明しようとする、つまり精神病を脳の機能障害と捉え薬物療法で治癒しようと研究を進めるアメリカ
・対して、ヨーロッパでは幻聴(ヒアリング・ボイス=聴声)をひとつの人間の個性として捉えようとする動きも
・降りていく生き方=悩みや苦労を回避したり、放り出すのではなく、人間らしく生きるためにはそれを担う姿勢が大切(向谷地さん)
・精神病は医者にのって全能に振舞えない領域。病気が起きないように、静かに迷惑をかけずに暮らすという医者の『正解』を押し付けるのではなく、治せない医者であるという自分と向き合う(川村さん)
・オランダの学校の校則は「人間らしく行動すること」。人間らしさとは生徒が自分で考え自分で決める。
・日本社会は当事者性を奪う。学校で大事なのは偏差値。教える教師側も指導要綱に法的拘束性があるため当事者性が尊重されることはない。