あらすじ
日本を破滅へと導くことになった陸軍の独断専行という事態はなぜおこったのか?彼らはいかなる思想の元に行動していたのか?日本陸軍という日本の歴史上、特異な性質を持った組織がいかに形成され、そしてついには日本を敗戦という破滅に引きずり込みながら自らも崩壊に至ったかのプロセスを描く3部作の第2巻。統制派と皇道派の抗争と統制派の勝利、勝利を得た統制派の指導の下、日本が泥沼の日中戦争へと突入する過程を描く。
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Posted by ブクログ
◆内容メモ◆
陸軍内部の派閥対立(統制派のリーダー・永田鉄山と、皇道派のリーダー・小畑敏四郎の対立)かつての一夕会の盟友は対中国戦略を巡り対立・袂を分かつ
永田は同じ一夕会出身で皇道派であった真崎甚三郎教育総監を罷免する。このような陸軍内部での派閥抗争が激化した結果、皇道派の隊付青年将校らの手によって、永田軍務局長は暗殺され、その翌年、二・二六事件が起こる。
隊付青年将校国家改造グループの一部が、兵約千五百名を率いてクーデターを起こした事件である。この時、木戸幸一内大臣秘書官庁が事態収拾に一役買った。
永田が居なくなった後、陸軍省のトップに武藤章、参謀本部のトップに石原莞爾が立つことになった。2人とも永田の部下である。事件後、皇道派は陸軍中央から一掃された。が、この武藤・石原の間にも後々、“華北分離政策”に関する意見の相違を巡って対立が発生する。この対立が、日中戦争勃発時の拡大・不拡大を巡る対立の伏線となってゆく。
昭和12年・盧溝橋事件発生。この衝突の事態についての対処法で、拡大派の武藤と不拡大派の石原が対立する。石原は、今は対ソ戦備充実のために全力をあげるべきで、中国との軍事紛争は極力避けるべきという見解だった。石原の思想も空しく戦線は苦境に陥り、武藤の指示で動員派兵が決定され、戦争は泥沼化してゆく。
こうして日中戦争は、宣戦布告のないまま、全面戦争になっていった。
上海への三個師団増派が決定したのち、石原莞爾は作戦部長を辞任した。こうして石原は失脚。参謀本部を去る時、「とうとう追い出されたよ」と語ったらしい。
石原失脚によって統制派の武藤章参謀本部作戦課長と、それに繋がる田中新一陸軍省軍事課長が、陸軍中央で強い影響力を持つことになった。
昭和12年12月・南京進行作戦が開始される。日本軍は、中国軍との激しい戦闘のすえ、南京を占領した。日本側は、駐華ドイツ大使トラウトマンを介して、南京政府に和平交渉を持ちかけるも、蒋介石によって拒否され、トラウトマン和平工作は失敗に終わり、戦線は膠着する。このような戦況の中、近衛文麿内閣は『東亜新秩序』なる声明を発表。中国国民政府のみならず、米英からも批判を浴びることになる。さらに、この後アメリカによって日米修好通商条約の破棄も起こってしまう。一方で、日本は、日独伊三国同盟を締結した。これは、武藤の意見によると“英米仏”に支配されていた「旧世界秩序」を転覆し、「世界の新秩序」を構築するためにあるものと認識されていた。日独伊三国同盟とソ連の連携による圧力で、アメリカ参戦を阻止し、日米戦を回避しながら大東亜共存圏の建設を実現しようと考えていた。この、武藤による“大東亜共存圏”の構想は、のちの“大東亜共栄圏”の原型として、太平洋戦争への重要な動因となっていく。
◆感想◆
2巻は陸軍内抗争と日中戦争について。そしてその延長にある太平洋戦争に至るまでの、流れ・・・って感じですね。日中戦争が泥沼化していなければ…石原莞爾が失脚していなければ…近衛内閣が変な声名だしていなければ…太平洋戦争で日本は甚大な被害を受けなかったかもしれない、と、歴史 if なんて語るも愚かなことですが、そう思わずにいられないのも悲しいことであります…